アメリカのある研究所のレポートによると、日本の睡眠不足による経済損失はなんと15兆~20兆円ほど……。それにもかかわらず長年、日本人の睡眠対策が整備されなかった理由とは? 人間の睡眠を研究する研究者・上田泰己氏の新刊『脳は眠りで大進化する』(文藝春秋)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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睡眠時間が短すぎる日本人
これまで体内時計や睡眠に関する謎がどこまで明らかになっており、何がまだ明らかになっていないかを話してきました。近年の生命科学、特にシステム生物学や合成生物学の発展により、これまでなかなか解明が難しかった個体レベルの不思議な生命現象にとり組めるようになったことを、私は実感しています。
こうした研究は今後、私たちの社会でみなさんの生活実態と接続しながら広がりを持たせていくことで、さらに先に進んでいくに違いありません。
具体的には、大きな規模の集団で科学的根拠のある方法に基づいた定量的で安定したデータの測定ができるようになれば、細胞レベル、個体レベルでの生理現象をさらに深掘りできるだけでなく、人々が構成する社会に表出している様々な生命現象を解き明かしていけるようになると考えられます。
例えば、レム睡眠とノンレム睡眠のサイクルにしても、いくつかのパターンに類型化しようとすると、やはり調査対象を大規模にしたビッグデータが必要になります。睡眠に関するビッグデータは現状、イギリスに10万人規模のものがあってゲノムデータと紐付いています。研究目的ならばアクセスができ、それを私たちも解析しているのですが、イギリスで取得されたデータであることが前提になってしまいます。
日本は、世界でも睡眠時間が非常に短い国として知られていることをご存じでしょうか?
OECD(経済協力開発機構)による生活時間の国際比較のデータ(2021年)によれば、日本は男女ともに睡眠時間が33ヶ国中最も短く、平均7時間22分となっています(日本の睡眠時間は2016年の数値)。世代で見ても、日本は大人だけではなくて子ども世代も睡眠時間が短く、全世代にわたって「睡眠衛生」が悪い国として知られています。
この日本の睡眠不足による経済損失は、アメリカのランド研究所のレポートでGDP比2.9パーセントに相当する、とも報告されています(2016年)。これは当時のレートで年に15兆円にもなり、現在ならば1.5倍換算で20兆円を超えているはずです。
このように世界の中でも特殊な睡眠環境にある日本で、国民を対象にしたビッグデータを集めて私たちの研究とつなげ、睡眠衛生を向上させていくための活動「睡眠健診運動」を私たちは2020年に始めました。
睡眠は基本的人権の一つ
睡眠衛生のベースとなる考え方で大事なことは、睡眠は日本国憲法に定められている「基本的人権」に関わっている点です。
睡眠は、基本的人権の「社会権」に含まれる「生存権」と非常に密接であるべきで、国民が保障されるべき権利の一つであると考えられています。もちろんこれは明確に条文化されているわけでなく、国民間に広く周知されているわけでもないのですが、今後睡眠の重要さが可視化されていけばいくほど、この文脈での意識は高まっていくでしょう。
生存権とは「健康で文化的な最低限度の生活をいとなむ権利」です。個人の健康を維持するために、健康に生存していくために、睡眠は誰にでも保障される権利であるということは、生物学の枠組みを超え、科学技術の理解とともに広まっていくべきですし、そうなっていくことを私は願っています。これは睡眠衛生を考えていく際にかなり重要なポイントなのですが、忘れられがちな点でもあるので、まずは最初に述べておきたいと思います。
日本の法律の面で、健康についての施策は、戦後の「栄養改善法」(1952年)に始まっています。その後は「健康増進法」などで定められてきました。1978年からは、健康増進にかかわる取り組みとして「国民健康づくり対策」が行われ、おおよそ10年ごとに見直しがされています(2000年以降は「健康日本21」)。この対策の方向性で、国民の健康に関する施策は進んでいます。
みなさんが会社や自治体からのお知らせで受けている「健康診断」は、こういった健康関連の法律と施策によって実施されています。
こうした施策の方針が大きく変わったのは、2008年のことです。
日本は戦後から長らく栄養が足りない、栄養をしっかり摂って健康な体を作っていきましょう、と健康対策を進めてきたのですが、2000年代になると栄養の摂りすぎが問題になってきました。体作りのために運動は引き続き重要だけれども、栄養過多はよくないので改善しましょう、と施策もシフトしたのです。それによって特定健診(メタボ健診)が実施されるようになりました。
このように健康についての対策では、栄養、食事、運動といった活動を推進するかたちがとられてきました。一般的に健康では、栄養(食事)、運動に加えて、休養(睡眠)が重要な3本柱だと考えられています。栄養(食事)や運動への施策は積極的に行われてきたのですが、休養、特に睡眠については、日本では栄養(食事)や運動に比べてその取り組みが遅れていました。
それでも1994年には休養についての「健康づくりのための休養指針」が出され、2003年に「健康づくりのための睡眠指針」と名称が変わって、ほぼ10年ごとの改訂がされています。2003年には、「快適な睡眠のための7箇条」が発表され、2014年には「睡眠12箇条」というのが出されています。今度の2024年の指針改訂では、睡眠衛生指導がメインになっています。
睡眠対策の遅れは測定の難しさにあった
このように、睡眠について具体的な社会実装が遅れがちになってしまっている背景には、休養あるいは睡眠というものを簡便に、正確に測定して指導することに技術的な困難があったことがあります。体重を量るように、レントゲンを撮るように、短時間で確実な結果を得ることが睡眠ではできずにいました。
また、運動や食事は意識がある覚醒時の活動ですが、睡眠は意識がない状態での活動になるため、客観的な測定に難しさがあって遅れてしまっていたのです。
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