ヒトは睡眠で、日々「新しい自分」に生まれ変わっている。睡眠と覚醒の謎に迫る!
- 2024.07.01
- ためし読み
急速に進歩する睡眠研究
この本で私がこれから話をしていくのは、睡眠の新常識についてです。
人間が1日のうちの3分の1もの時間を費やして眠ることについて、みなさんにはどんな思いがあるでしょうか? ある人は、「何もしないムダな時間が人生の3分の1もある」と考えるかもしれません。またある人は、「日中の疲労を回復して健康を維持するためには必要な時間だ」と思っているかもしれません。そのどちらもが間違いではありませんが、正解でもありません。なぜなら、その考えは旧来の睡眠の常識にとらわれたものであるからです。
人間の睡眠についてのこれまでの言説は、極端に睡眠が少ない状態は健康をそこなってしまう、あるいは病気の発症に関係するのだから健康のためには重要だという、ほぼ経験則や目前の症例に基づいた知識から形成されてきました。科学的な睡眠研究にも長い歴史があります。しかし、ヒトの睡眠中は無意識下で何らかの生体活動が行われているようだが詳細は見えない、よって謎が多い活動である、との見解に留まってきました。
こうした睡眠研究の長く停滞した状況から、今日の私たちの睡眠についての常識も作られてきたのでしょう。
しかし、ここに来て睡眠の研究は、急速な進歩を遂げています。これまでの停滞を打ち破るようなまったく新しい理論的な研究も芽生え、睡眠の謎も少しずつ解かれつつあります。なぜ私たちは眠るのか、眠っている時には何が起きているのか? 続々と発表される新たな発見が今後確かなものとして証明されていくことになれば、これまでの睡眠の常識や概念が刷新されていく可能性があります。
その新常識になりそうなのは、「睡眠は人間の成長、特に脳の神経細胞の成長に必要不可欠な、極めて大切な時間である」という、私たちの理論的な研究と観察による実験に基づいて導き出されつつある、人体の現実です。
「成長」と言うと若年層の身体的な変化、発達を想像するかもしれませんが、それにとどまりません。脳を構成し、情報の伝達と処理を担うヒトの無数の神経細胞は、年老いても日々、進化的な成長を続けています。すべての人にとって睡眠は健康のために、何より人間の知的活動のために、極めて重要な時間なのです。特に脳にとっての睡眠は、「日中よりも神経細胞がさらにアクティブに活動する時間である」とさえ言えるかもしれないのです。
睡眠は進化のプロセスに似ている
人間の睡眠は、深い眠りの「ノンレム睡眠」と浅い眠りの「レム睡眠」を交互に繰り返すことが知られています。私たちの理論的な研究では、覚醒時には、ものを記憶する際の素子だと思われている神経細胞と神経細胞のつながり(シナプス)がだんだんと弱まり、睡眠時にはそれが回復してくることが予想されてきています。なおかつ、レム睡眠時には、私たちが覚醒時にいろいろと探索して集めた情報を間引く、つまりセレクション(選択)が行われているようだということも判明してきています。覚醒している昼間に私たちは情報を集め、睡眠時にはそれを整理して定着させているのではないか──これがいま判明しつつある見取り図です。
睡眠時には、覚醒時に得られた情報を「いるもの」と「いらないもの」に峻別して整理しているのかもしれません。選択して「いる」と判断したものを睡眠中に自分のものにして、私たちは日々、新しい自分を作っているかもしれないのです。これは、チャールズ・ダーウィンの提唱した「変異」と「選択」による「進化」によく似た生体活動が、毎晩毎晩、脳内で実行されているとも言えます。
変異によって新しい種が生まれ、自然淘汰によって選択されることが生物の進化のいちばん大きな原動力である──それがダーウィンの「進化論」ですが、ノンレム睡眠、レム睡眠を繰り返す私たちの脳の中では、日々新しくシナプスが作られたり強まったり、あるいは間引かれたりしているのです。その過程はまさに「進化」のプロセスに非常に似つかわしいと言えるでしょう。
そして、そういうプロセスが毎晩4~5回繰り返されているのだとすると、頭の中で脳の回路を構成するシナプスが大進化しているとも考えられるわけですから、睡眠は人の知性にとって非常に重要な働きをしているという可能性が見えつつあるのです。
この睡眠の機構については、細胞を透明化する技術、観察実験用の動物と測定手法の開発、試験管内での神経細胞培養と睡眠の再現といった、私たちが新しく開発した実験技術によって正しい理論であることが証明されつつあります。細胞内で睡眠に重要な役割を果たすタンパク質分子も特定が進みつつあって、分子が働くメカニズムも少しずつわかってきています。
こうした研究は、2013年にスタートした東京大学大学院医学系研究科の「システムズ薬理学教室」を中心に実施されてきました。研究は、東京の東大医学部と大阪の二拠点体制で行われていて、数十名の研究員が所属しています(2025年度からは東京と福岡の二拠点体制になっていく予定)。海外の大学との共同研究も盛んに行われていて、睡眠研究の盛んなヨーロッパ各地の10大学ほどとテーマごとに協働を進めています。私自身は1年ほど前からサバティカル(研究休暇)をきっかけにイギリスのオックスフォード大学に部屋をもらい、日英を往復しながら各研究プロジェクトを統括している現在です。
世界一睡眠不足な日本人
ところで、みなさんは、日本人の睡眠時間は圧倒的に少ないことをご存じでしょうか?
睡眠時間の国際比較で日本は先進33ヶ国中最も短く、1日あたり1時間ほど足りないことがわかっています。1日1時間の不足は年間で15日間、半月もの不足にあたりますから、これを“圧倒的な不足”と表現するのは的はずれではないでしょう。
この睡眠不足は、残念ながら労働生産性の国際比較と相関しているように見受けられます。長時間労働で圧倒的な睡眠不足である日本は、労働生産性においても、OECD加盟38ヶ国中30位になっています(2023年発表)。
システムズ薬理学教室では、日本人の健康のために「睡眠健診」を推進していく活動も行っています。子どもの睡眠については特別に「子ども睡眠健診プロジェクト」という取り組みとして、2022年から実施しています。現在、小中高生1万人弱の睡眠データを集めることができていますが、日本の子どもは大人と同様に、世界平均に比べて1時間ほど睡眠不足であるらしいことがわかってきています。当然のことながら、発達途上にある子どもの睡眠不足は、社会全体が危機感を持つべき由々しき問題です。
睡眠を日中の活動のために「絶対に必要な時間」とは考えずに、削ってもいい「ムダな時間」と考え、その時間の節約に励む文化的風潮は、今や日本社会に広く根付いてしまっているのかもしれません。しかし、覚醒の時間の延長だけに着目してがんばり続けることが社会に大きな損失をもたらしている可能性が、事実としてあります。日中長時間がんばるという文化から、しっかり休んで自分自身を日々作り直していくという文化へ。本当に大切な時間は、今まで顧みることのなかった夜の時間にある、と一人ひとりの考えを転換していく必要がやはりあるようです。
実際のところ、現代社会で生活を送る私たちには、向き合わなくてはならない困難な現実が多々あることでしょう。山積する問題はとても高度で、変わらない日常のなかでの解決は難しい。そんな時、外界から遮断されて、いま向き合っている問題のエッセンスを取り出し、もう一度新しく難しい現実に向き直る機会を与えてくれる睡眠は、実に意義深く大切な行為だとも思われます。そこで研究に従事している私自身も、思索に疲れたら十分な睡眠を取るように心掛けています。たいてい考えているのは睡眠関連のことですが、考えるだけ考えた後には「寝ている脳が教えてくれるだろう」と眠ってしまいます。そして翌朝に「どんな答えを出してくれたか」を脳に聞いてみると、新しい考えが生まれていたりします。
睡眠研究の最前線
睡眠は、外界の環境から自分自身を切り離すことのできる最良の機会です。その間に脳の神経細胞は環境から得られた情報を整理し、神経細胞のつながりを強くするべきところは強くして、間引くところは間引いてと、以前とは違った脳の働き方になってくれます。明日に目覚めたら、今日とは違う「新しい自分」になっているかもしれない、次の新しい朝をフレッシュな気分で迎えられるかもしれない──そんな風に自分を刷新してくれる体の仕組みの一つが、睡眠なのです。そんな睡眠の新常識につながるのが、これから詳しくお話しする睡眠についての最新見解になります。
学術分野としての睡眠の研究を眺めると、この領域は歴史が長いぶんだけ論点や争点も少なくなく、様々な見解がある分野です。
難しい課題の解決方法は、結局は思わぬところ、そう意識的にはなっていないところに潜んでいて、それが睡眠をきっかけに姿を現してヒントをくれるのかもしれません。また、そうした経路を経ないと新しい発想やアイデアはなかなか出てこないのかもしれない、とも実感します。新しい発想やアイデアは、成長の原動力となっていくものでもあります。
そして、こうしたヒトの知的な活動の仕組みこそ、ヒトが進化によって手に入れてきた素晴らしい仕組みであるはずだ、と生物学という学問に向き合ってきた私は考えます。
本書では、私の睡眠についての思索の過程を含め、これまでの睡眠研究の流れ、新しい研究と発見の詳細と技術の解説、現在取り組んでいる睡眠健診のこと、睡眠研究の未来について、できるだけわかりやすく解説しています。
本書を読んで、多くのみなさんが睡眠の常識を書き換え、新しい常識のもとで睡眠を捉え直すことができ、十分な睡眠を確保しながら日々の活動を満喫できるようになることを、研究者の一人として願ってやみません。
「はじめに」より
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