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額縁の中の、ここではないどこか

額縁の中の、ここではないどこか

文:卯月 鮎 (書評家)

『凍る草原に絵は溶ける』(天城 光琴)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

『凍る草原に絵は溶ける』(天城 光琴)

 人はなぜ本を読むのか。人はなぜ絵画や映画、演劇を鑑賞するのか。本作にはこうある。

「人々が生き絵を作るようになったのも、精霊が我々の世界を覗いているように、自分たちも、全く別の世界を覗いてみたいという思いがあったからに違いない」

 私たちは自由であっても不自由であっても、幸せであっても不幸であっても、ここではないどこかを夢見る。人間とはそういう生き物だろう。

「芸術」という漢字の由来は面白い。「芸」の旧字「藝」は、もともと種をまくという意味だそうだ。成長して立派な樹木となることから、才幹を指すようになった。「術」には道という意味がある。主人公マーラが歩んでいく道には種がまかれ、やがて草木がそよぐ。

 

 本作は第二十九回松本清張賞を受賞した天城光琴のデビュー作『凍る草原に鐘は鳴る』を改題したもの。応募時の原題『凍る大地に、絵は溶ける』を踏まえ、文庫化を機に『凍る草原に絵は溶ける』となった。文学という古今東西、広大な地図のなかに“天城光琴世界”の芽は吹いた。ふとマーラと重なり合う。どこまで草原は広がっていくのか。

 

 ――山羊の群れを連れて遊牧するアゴールの民がこよなく愛する芸術「生き絵」。マーラは若い娘ながら、絵師の頂点に立つ「()絵司(えし)」を任された。しかし、氏族長が集まる〈炎の集い〉で初のお披露目を成功させた矢先、すべての人々が「動くものが見えなくなる」という災厄に見舞われる。生き絵を作ることを諦めたマーラは、同じ状況に陥った農耕の国・稲城(いなき)の街へ向かい、そこで稲城王の城を追われた奇術師・苟曙(こうしょ)と出会う……。

 

 私はファンタジー小説をメインに書評をしているが、ファンタジーとはひと言で言うなら“世界の創造”。それは現実と地続きでなくても構わない。読む側がその世界をイメージできれば成立する。

「伸び盛りの草に、雪の名残はもうない。代わりに今は山羊の群れが寝そべっていた。その数、ざっと千」

「天蓋から赤い旗が上がっている族長の家は、マーラの家から思いがけない近さにあった。形は上から見れば円、色は、冴えた月のような白である」

 目をつむれば、風が吹き抜け、草のにおいが立ち、山羊が鳴く。

「牛の乳に茶葉を入れて煮た(ツアセ)を頂く。新鮮な乳のなかにほのかな渋みを見つけた。よその家の味だ」

「祭壇に吊られた、深い椀を伏せたような鐘を、布を巻いた棒で打ち鳴らす。そうすることで、大地を見守っている精霊に報せているのだ」

 食事風景、精霊信仰、統治の仕組みまでも臨場感をもって浮かぶ。

 何よりも本作の凄みは、この世にない芸術「生き絵」を作り上げたことだ。生き絵とは草原に〈額〉という木枠を立てて、場面を描いた幕を背景に、演手(えんじて)が物語を織りなす一種の劇。草原が限りないからこそ、額縁で仕切られた小さな異世界は凝縮され濃いものとなる。まさに草原で生まれた芸術と言えるだろう。文字を持たない遊牧民であるから、「二度と同じものが再現出来ないということこそが、生き絵に命を吹き込む」。そんな即興性もリアリティがある。

 額縁を使った芸術といえば、ヨーロッパでは十九世紀、日本でも明治時代に流行した「活人画」が連想される。扮装した人物が静止した状態で有名な絵画を再現するパフォーマンスで、ヨーロッパでは上流階級の余興として盛んに行われた。ただ、活人画は生身の人間が絵になりきっているのが面白さの核であり、生き絵とは性質が異なる。

 空間を区切るという意味では、生き絵は鳥居の感覚に近いのかもしれない。鳥居は神社の内と外を分ける境に立てられ、鳥居の内は神域であることを示す。たったそれだけでイマジネーションが別世界を生み出し、神聖性が高まる。生き絵が〈炎の集い〉で披露されるなど、ある種の伝統儀式のように継承されているのも納得だ。

 

 さて、これほど丁寧に構築されたアゴールの草原世界だが、突然の災厄によって根底から揺らぐこととなる。動くものが見えなくなる奇禍。命が吹き込まれた世界を一突きで崩さんとする大胆さは、ありふれたファンタジーの枠を超える力を本作に与えている。背筋が凍える衝撃だった。

「眼前で拳を握っては開くのを繰り返すが、見えるのは掌だけで、指先が全く目に映らない」

「犬を走らせた瞬間、千の山羊が忽然と草地に化けるのだ。まっさらな草原には、ただ、鳴き声と熱が広がっているだけ」

「留まることなく滑る青年の涙は、誰にも気付かれずに消えていく。涙の痕跡は、薄く剝がれた化粧に残るだけ」

 馬に乗って移動する遊牧民であり、動きが要となる生き絵を極めようとする主人公にとっては青天の霹靂。しかも、どこにも逃げ場はない。

 箱庭の住民に、「さあ、どうする?」と迫る社会実験のような感覚。世界を統べる法則を転覆させるのは、SFに通じるマインドがあり、本作の尖った部分となっている。

 そして、気づくことがひとつ。「動きが見えなくなった世界で、動きを前提とした芸術はどうなるのか?」という問いかけと対照的なものが、この世に存在する。それが本だ。動きが見える我々は、ページという枠の中の動かない文字を追って物語世界を覗く。そうした対比が潜在的にあるからテーマ性はより深まり、この物語を本という形で体験する意味も見えてくる。作者は計算済みだろう。生き絵について考えることは、本とは何かを探究することでもある。

 

 ここまでは主に世界の創造と構造について書いてきたが、本作の魅力はそれだけではない。再度ゆっくりと読み返すなら、人物中心に味わうのがいい。主人公のマーラは、くだけた言葉で言うなら“名言製造機”だ。外向けには姉御肌で、奔放な演手たちをまとめているが、その実、内省的で物事の本質を見極める。特に私が印象に残った三つのセリフを挙げたい。文脈から切り離してもその言葉は心に強く刺さる。

「裏切る人はいません。そもそも信じるというのは、相手の許しもなしに、期待という自らの幻想を人に託すことですから。期待の幻想が解けても、その人の本当の姿が見えるだけです」

「あなたに忘れられたら、その感情は死ぬしかありません。悲しいことは、素直に悲しんでおかないと」

「私は、もう元通りにならない世界を生きることにします。何が不自由なのかは、環境ではなく私の心で決めたいので」

 異文化に触れることで新たな見方を吸収し、生き絵の道に邁進するマーラ。その言葉を振り返るだけでも、彼女とともに成長していけそうだ。

 奇術師の苟曙も、来し方行く末を追いかけたくなる人物。「人を喜ばせることで、私も共に幸せになれるんですから」。人のために芸を磨いてきた彼は誰からも慕われていた。しかし異変前の芸にこだわり、観衆に気まずさを与えてしまう……。そんな彼はいかにして現状と向き合うのか。その展開にはカタルシスがある。芸術とは誰のものか。芸術には何ができるのか。マーラと苟曙の道は交差した。目指すゴールは同じかもしれない。

 もうひとりお気に入りを挙げるとすれば、マーラの師匠で先代の生き絵司であるラチャカも味わい深い。細い眼に峻厳な光を宿した老女で、マーラは子どものときにラチャカの生き絵に感動し、その弟子となった。見る者を生き絵で改心させようと意気込むマーラに対し、「芸術が変えられるのは、人の心の温度だけさ」と諭した言葉は軽さと重さを併せ持つ。動きはなくとも熱は放たれる。「心の温度」は本作の重要なテーマのひとつだろう。

 

 もともと単行本が出版されたのは二〇二二年。コロナ禍における芸術の存在意義を問う寓話として高く評価された。ただ、天城光琴のインタビューを読むと、普通に暮らす人々が突然の異変に見舞われるという設定は、新人賞への応募を始めた頃から構想していたそうだ。コロナ禍という現実が後から作品に重なってきた感覚だという。しかし、そうは言っても架空世界が現実の影となり、透かしとなり、巧みにシンクロするように物語世界が構築されているのは間違いない。社会実験的ファンタジーとでも言えばいいのか。読んでいて随所にはっとさせられる。

 ベースとしてはファンタジーだが、SFマインドもあり、生き絵の裏舞台は演劇を扱ったドキュメンタリーに近い読み味だ。遊牧民と農耕民の接触による文化摩擦は歴史小説の趣。大詰めでは緊迫する状況をミステリー的、サスペンス的にひっくり返してみせ、トリを飾る生き絵描写はまるでCG映画のような鮮やかさでページを彩る。これが文字の組み合わせだけで成り立っているのだから洗練された贅沢だ。

 それでも妄想は止まない。本という芸術がもたらす幸せを嚙み締めた上で、もうひとつ願うなら、遮るものが何もない広大な草原でマーラが創造する生き絵によってこの物語を味わってみたい。額縁の中の、ここではないどこかにさらわれる。

文春文庫
凍る草原に絵は溶ける
天城光琴

定価:957円(税込)発売日:2024年06月05日

電子書籍
凍る草原に絵は溶ける
天城光琴

発売日:2024年06月05日

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