本年1月に『八月の御所グラウンド』で第170回直木賞を受賞した万城目学さんよる受賞第1作『六月のぶりぶりぎっちょう』が6月24日(月)に早くも刊行になりました。
前作『八月の御所グラウンド』に連なるシリーズ第2弾である本作でも、京都にゆかりの歴史的人物たちと織り成す、奇跡のようなドラマが展開されます。
刊行に先立ち、本作の世界を皆さんにいち早く感じていただくべく、本書収録の表題作「六月のぶりぶりぎっちょう」の冒頭を先行無料公開します。
京都を訪れた高校教師の滝川は、目覚めるとなぜか見知らぬ館で目覚め、起き抜けに銃殺死体を発見する。突然起きた密室殺人事件に巻き込まれた滝川は、うっかり(?)本能寺の変の謎に挑んでしまい……。
これぞマキメ・ワールドの真骨頂という、奇想天外摩訶不思議の冒頭をお楽しみ下さい。
その一 事件発生
頭の上をいくつもの光が線を引いて飛んで行った。
あ、きれい。
花火ではなく、あくまで水平方向への直線的な動きで、しんとした夜の闇にそれらの光跡が吸いこまれていく。
次から次へと放たれる無音の光を目で追っていたら、その先に遮蔽物らしきものがあったようで、光の筋は突然、止まった。
しかし、光が消えるわけではなく、そこに留まりながら、少しずつ明るさを増している。
火だ。
ゆらめくように光源が大きくなっていく様に、そう気づいたとき、周囲からどっという地響きを添えた声がいっせいに湧き上がった。
「な、何?」
カチャ、カチャという何かがぶつかり合う音と、荒々しい呼吸の音が左右から挟むように迫ってきて、わけもわからぬまま私は走り出した。
小さな光の点が重なり合って、今やはっきりとした炎にまで育った火が、建物のラインを徐々に浮かび上がらせ始めている。
お寺だろうか、夜空を背景に大きな本堂のような和風建築のシルエットを認めたとき、ぼうっと周囲を一気に照らすような大きな炎がその屋根から立ち上った。
ようやく、私は理解した。
ここは戦場だ。
甲冑をまとった武士たちが、刀を振り、槍を掲げ、怒号とともにあたりを駆け回っている。カチャ、カチャという、せわしない音は甲冑が鳴る音だった。
火が回り始めたお寺らしき建物に向かって突っこむ大勢が甲冑姿ばかりなのに対し、建物から飛び出してくるのは、白っぽい寝巻のような着物を着た男たちだった。それを弓矢が、槍が、さらには銃声が容赦なく襲い、丸腰に近い寝巻姿の人たちはまさに鎧袖一触、まともに抵抗することもできぬまま倒れていく。
ここはどこなのか。
なぜ、自分はこんな場所にいるのか。
暗がりの先から甲冑の音が不意に迫ってきたり、刀だろうか、硬いもの同士が衝突する音のあとに狂気を帯びた叫びが上がったりするたびに、人がいないほういないほうへと逃げ続けていたら、縁側から建物内へと上がりこんでしまった。
柱にも、襖にも、床板にも、そこらじゅうに火矢が突き刺さり、あっという間に炎が広がっていく。床を踏み鳴らす幾つもの足音が建物のあちこちから湧き起こり、誰かを探しているのだろうか、荒々しい叫び声がやかましく響き渡る。
そのとき、長い廊下の突き当りから、
「上様、上様ッ」
という若い男の声が聞こえた。
建物に充満する獣めいた怒声とは異なり、何かを必死に訴えるその切実さに誘われ、私は廊下を走る。
突き当りに面した襖を開け放った。
突然、空気が震える感触とともに、銃声が響いた。
私の視界は真っ白に染まった。
それから、黒の一色へと沈んでいった。
*
目が覚めて、意識が少しずつはっきりするにつれ、見覚えのない部屋に寝ていることに気がついた。
どこですか、ここは?
カーテン越しに侵入した薄ぼんやりとした光に部屋が浮かび上がる。
ぐるりと見回したところ、部屋の広さは十畳ほど。ベッドの隣にはかわいらしいアンティーク調のテーブルが置かれ、そこには、私のカバンと脱ぎ捨てたままの昨日の衣類一式が散らばっていた。
しまった、飲み過ぎた――。
どうやら、昨夜は部屋に入りこむなり前後不覚のまま、ベッドに潜りこんでしまったらしい。その証拠に、宿にチェックインした記憶がまったくない。
枕元には小さな時計が用意されていた。てっぺんのボタンを押してみると、薄闇のなかで液晶画面が光った。
午前六時二分。
デジタル表示の数字が明々と点る。
日付は六月二日。
今日の日付という以外に何か意味があった気がするが、寝ぼけているうえに、何だか変な夢を見たという、ぞわぞわとした感覚。さらには耳のあたりに残っている銃声の余韻が重なり、まったく頭が働かない。
銃声?
ベッドから抜け出し、ふらつきながら立ち上がった。
そのときになって、はじめて自分が浴衣を着ていることに気がついた。こんな洋風な部屋に、浴衣が置いてあったのか、と妙な取り合わせに感じたが、ぞんぶんに前をはだけていた浴衣を整え、帯を締め直す。
依然、耳には違和感が残っていた。
夢の記憶は一秒ごとにかすみの向こうへ消えつつあるのに、なぜかその残響だけやけに生々しく、まるで実際に聞いたかのように耳の底で留まっている。しかも、部屋の外から発せられたもの――、という奇妙な距離感さえ添えて。
部屋のドアを開け、少しだけ外をのぞいた。
落ち着いた色合いの絨毯が敷かれた、いかにも高級そうな雰囲気の漂う廊下に人影は見当たらない――。
やっぱり、気のせい。
早々に結論づけ、ドアを閉めようとしたときだった。
廊下の突き当りを、誰かが走り抜けていった。
ちょうどそこが丁字路のかたちになっているのだろう。左から右へと絨毯を踏む、せわしげな足音に反射的に目を向けたときには、すでに何かが通り過ぎたあとだった。
そのまま、ドアを閉じようにも閉じられなかったのは、絨毯の上に落ちているものが見えたからだ。
たった今、落としたものだろうか。
走り去った人が戻ってくるかもと待ったが、足音は聞こえてこない。
さっさと部屋に引っこもうとも思ったが、ざわざわした気持ちは収まるどころか、よりいっそう高まっている。
仕方がないので、浴衣の襟元をきゅっと締めて、スリッパで廊下に出た。
突き当りまで小走りで進み、落とし物を確認する。
鍵だ――。
シルバーの鍵と紐で結びつけられた木札には「天下」と書いてあった。
部屋の名前だろうか。ずいぶん仰々しいネーミングだなと拾い上げ、改めて左右を確認したら、左手に見える部屋のドアが開け放されていることに気がついた。
私の部屋とは異なり、立派な両開きの扉が開かれたままになっている。
ドア枠上部の表札には、
「天下」
と手元の鍵の木札とまったく同じ、クセのある字体が躍っていた。
部屋の前を横断する廊下を見渡しても、誰かが戻ってくる気配は感じられない。
仕方がないので鍵を手に開かれたドアに近づき、少しだけのつもりで、ドアの先をのぞいてみたら、
「広い」
と思わず声が漏れ出てしまった。
スイートルームなのだろうか。私の部屋の三倍の広さはありそうなフロアには、大きなソファセット、ダイニングテーブル、さらにデスクまで配置されている。どれもアンティーク調のデザインで統一され、おしゃれかつ高級そうな雰囲気が部屋じゅうに充満していた。
「誰か……、いませんか? 鍵、外に落ちてましたよ」
天井の照明や、スタンドの明かりはつけっ放しである。
小走りで手前のソファまで進み、鍵だけ置いて立ち去ろうとしたとき、部屋の右手にさらなる空間が広がっていることに気がついた。
「ん?」
奥の部屋につながる大きな扉の手前で、うつぶせに倒れている人がいる。
「あの、大丈夫ですか?」
白いナイトガウンを纏い、その髪型から見て男性のようだが、こちらから顔は見えない。
この人も昨夜、飲み過ぎたのだろうか。
ちょうど男性との間に置かれたひとり掛けのチェアがあったので、
「鍵、ここに置いておきますよ」
と声をかけるついでに一歩踏み出したとき、それまでチェアの背もたれによって遮られていた、男性の背中の部分が露わになった。
男性が羽織っている真っ白なガウン――、その背中に赤い染みが広がっている。さらに、染みの中央には小さな穴が空いていた。
夢の中で聞いたはずの銃声が、ふたたび耳の奥底でこだました。
こちらに後頭部を向けたままぴくりとも動かない上半身の下には、臙脂色の見るからに高級そうな絨毯に黒っぽい何かが広がっているのが見えた。
血だ。
「この人、死んでる!」
めいっぱい悲鳴を上げたつもりが、自分の声がやけに遠くに聞こえた。指の先から痺れが腕を這い上がってきて、やがて顔全体を覆う感覚とともに、視界の周囲から黒い斑点が侵食し始める。「ああ、貧血だ」と頭の中に冷たい感触が広がるのを自覚しながら、私はくたりと崩れ落ちた。
*
目が覚めても、しばらく天井を眺めていた。
まだ夢を見ているみたい、私。
そう判断したのには理由がある。私を至近距離から見下ろしている人物にまったく見覚えがないうえに、相手がおそろしいくらいの美形だったからだ。
「あなた、誰ですか?」
何でこんなイケメンを夢に登場させちゃってるの私、と仰向けの体勢のまま、少しニヤつきながら訊ねたら、
「気づかれましたか、滝川様」
整った眉をひそめ、相手がさらに屈んできたものだから、夢にもかかわらず、どぎまぎしてしまった。
「私の名前、知ってるんだ」
「もちろんです、昨夜、ロビーにてチェックインの際にお会いしましたので……」
相手はいかにも清潔そうなホテルマンの装いである。なるほど、そういう設定ですか、と凝った夢のつくりに感心する思いで上体を起こしたとき、自分が浴衣を着ていることに気がついた。
「わッ」
浴衣の上に薄手の毛布をかけられ、長イスに寝かされていたことをようやく了解する。
「滝川様の悲鳴に気づかれた羽柴様が、倒れていらっしゃるところを見つけ、私どもに連絡をくださったのです。ひとまず、こちらのサロンにお運びしました。勝手ではありますが、滝川様のお部屋から、お着替えもお持ちしています――」
男性の手が示す先にはスツールが置かれ、私のカバンと脱ぎ散らかしていた衣類がきれいに畳んで並べられていた。
「ど、どうもです」
よくわからない展開ながら、襟元と裾を直してから足を下ろし、長イスに座る姿勢に移行した。
「お具合はいかがでしょう?」
わざわざ絨毯に膝をついて、男性が心配げな顔でのぞきこんできた。
「大変な現場を目撃され、滝川様は意識を失われたのです。今も軽いショック状態にあるかもしれません。無理はなさいませぬよう」
「現場?」
何のことだろ、と心で首を傾げた刹那、うつぶせに倒れている男性の姿が脳裏に蘇った。さらには、彼が纏っていた真っ白なナイトガウン、その背中に広がった赤い染み――。
「そうだ、私……。銃声が聞こえて、それで部屋の外に出たら、誰かが走っていて」
「滝川様は犯人を目撃されたのですか?」
と男性が驚きの表情を浮かべる。
「犯人? いえ、これはただの私の夢の話で――。あれ? 今も夢なんだから、夢の中の夢の話になるの?」
頭がこんがらがってきたとき、背後でドアが開き、いかにも急いた調子の声が聞こえてきた。
「オイッ、女は起きたか?」
なぜだろう、聞き覚えがある。
でも、ここにいるはずがないし、と振り返ったら、声のあるじと目が合った。
「え? 何で?」
「つい先ほど、お目覚めになられたばかりで、まだ少し混乱しているご様子です」
「ちょっと待って。何であなたが? 何、その強烈にセンスの悪いスーツ?」
そう言葉を返すのと、相手が私の額に何かを突きつけるのが同時だった。
「どうやって、このホテルに潜りこんだ。アンタ、何者だ」
両目を寄せ、額に当たっている黒っぽい筒状のものに焦点を合わせた。
どういうことだろう。私、おでこに銃を向けられている。
「アンタがボスを殺したのか?」
「はい?」
「どっから、来た。ボスの部屋で何を見た? 全部、話せ」
押し殺した声とともに、銃口でぐいと額を小突かれたとき、とっくに気づいていたことを認めざるをえなかった。
これ――、夢じゃない。
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