〈「半年を過ぎても見つからない」不倫相手に殺された女子大生の死体の行方は…〉から続く
偽装殺人、他殺を装った自殺……。どんなに誤魔化そうとしても、もの言わぬ死体は、背後に潜む人間の憎しみや苦悩を雄弁に語りだす。
死体を扱って約30年の元監察医・上野正彦氏が綴る大ベストセラー『死体は語る』(文春文庫)を一部抜粋して紹介する。痴情のもつれの果てに殺されたという、女子大生の遺体が見つからない。殺人犯の男は一家心中しているため、警視庁捜査一課の刑事二人は、悩んだ末に上野氏を訪れたのだった。(全4回の4回目/最初から読む)
◆◆◆
私はこの事件が報道されたときから興味をもち、自分なりに推理していた。湖底であるとの考えには、二つの理由があった。
まず、犯人一家は入水心中をしているので、犯罪心理学的に考えて、殺しも水の中ではないだろうか。愛人を水で殺したから、自分も水に帰るつもりになったと考えられないか。一家心中するのに、わざわざ石廊崎まで行って崖から海に飛び込まなくても、安易な方法はいくらでもあるはずである。
もう一つの理由は、天下の警視庁が半年も別荘の周りを探しているのに、発見できないのは、遺体はそこにないからであろう。
「別荘周辺ではなく、やはり深い湖の底にでも沈んでいるのではないかと……」
「先生、それは違います」
話が終わるのを待ちかねたように、刑事は私の推理を否定した。二人は自信に満ちた顔つきであった。
遺体は八王子の別荘周辺に間違いなく埋められている
遺体を埋めた場所は、別荘周辺以外には考えられないことを、捜査の経過から割り出していたのである。それは推理小説の謎解きのような理論の飛躍も、華麗さもない。
夏休みに入って間もない7月中旬、女子大生と助教授は一緒になるか、別れるか、最後の結論を出す約束で、京都旅行を計画していた。午後4時、新幹線下り「ひかり号」に乗る予定で、二人は東京駅のホームで待ち合わせた。しかし、新幹線には乗らなかったのである。
結ばれるか、別れるか。いずれにしろ結論が出る京都旅行を、彼女は待ち望んでいた。それを中止し、東京駅から突然、相模湖なり芦の湖行きに変更される理由は、彼女の側からは考えられないことである。
観光旅行でも新婚旅行でもない。女の将来を決める重要な意味のある旅行を、いとも簡単に行先変更に応ずるはずはない。それなりの理由がなければ、京都行きは中止されないのである。
助教授は、恩師の教授の八王子の別荘を借りて彼女としばしば会っていた。教授も成り行きを心配して、何回となく相談にのっていた。
助教授は教授の別荘で、教授にも話に加わってもらい、納得のいく結論を出そうと彼女を説得し、半ば強引に京都行きを変更させたと推理するのが妥当であろう。京都行きの2枚の切符が、使われないまま、研究室の助教授の机の中から発見された事実は、何を物語っているか。どうしても別荘に向かったとしか考えられないのである。
この結論は、別荘周辺から彼女の靴の片方が発見されたり、その他の捜査状況とも一致し、理屈などではなく、状況証拠の裏付けがあったのだ。
説得力のある話の展開と、その気迫に、私の頭の中の遊びのような推理などは、いっぺんに吹き飛んでしまった。
夏と冬とでは、死体の腐り方がまったく違う
結局、別荘周辺を掘り返す話に戻った。刑事さんの質問に答えねばならなくなった。人間が死ぬと、徐々に腐敗が始まる。夏と冬とでは腐りの速さが全く違う。東京と大阪でも、腐敗の進行度に大きな違いがある。同じ部屋でも日当たりのよい場所、悪い場所でかなりの差が生じ、また太った人とやせた人でも違ってくるので、腐敗の基準はない。ケースバイケースなのである。そこに、死後変化の難しさがある。
かつて、カスパーという学者は、空気中に置かれた死体の腐敗の進行度を1とすれば、水中死体の腐敗度は2倍遅くなり、土中に埋めた場合は8倍遅いと報告している。とはいえ、必ずしもこれにあてはまる死体ばかりではない。
いずれにせよ、彼女は土中に理められ半年間、東京の八王子で夏、秋、冬と三つの季節を過ごしていることになる。
一般的には、腐りはじめは酸化作用が強く、酸性腐敗となってガスが発生し、死体は土左衛門といわれるようにふくれあがる。そのうちに体のたんぱく質が分解して組織が融解し、腐敗液汁が流れ出すと、アルカリ性腐敗に変化し、その悪臭は一段と強くなる。
深く埋められた死体は、腐敗臭が上がってこないので分からない
しかし、土中に20~30センチ埋められていると、腐敗臭は地上に上がってこない。犬を使う方法もあろうが、警察犬は人間の腐敗臭について訓練を受けていないので、覚えさせるには数年かかるという。たとえ訓練ができても、土中に20~30センチ埋まっていれば、犬の鼻も役立たない。
私も池の鯉や金魚が死んだとき、実験したことがある。深さ5センチ、10センチ、20センチと穴を掘り魚を埋めておく。近所の猫がやって来て、5センチの深さに埋めた魚は掘り返して食べてしまうが、10センチ以上になると、臭気は地下に密閉されるのだろう、その上を猫も気づかず通過してしまうのである。
「先生、探知機のようなものはないのですか」
臭いは音などと違って簡単に数量化できないものの一つである。悪臭公害も結局は、数量化できないので、取り締まりにくいといわれている。つまるところ、アルカリ性腐敗臭を人間の鼻で嗅ぎ分ける以外に方法はない。
スコップで土を掘り返すよりも、パイプを土中に打ち込み、抜き取った穴の中の臭いを嗅ぐか、パイプの中の土の臭いを嗅げば、地面が氷結していてもできないことはないと話をした。
探知機はこの鼻か、と刑事さんは、自分の鼻をつまんで笑った。
それから1ヵ月半たった、ある寒い朝早く、私は電話で起こされた。
「先生、私です。ありがとうございました。おかげ様で見つかりました」
聞き覚えのある刑事さんのはずんだ声であった。ニュースは女子大生の遺体発見を大々的に報道していた。
「執念の捜査7ヵ月」
「別荘裏、地下50センチ」
「腐敗臭をつきとめた検土杖」
と見出しは派手であった。
大手柄の二人の刑事さんの写真も載っている。
犯人は死亡し、目撃者もいない。
殺して埋めたらわからないといわれた難事件も、春を待たずに解決した。
死体は語る
発売日:2003年03月20日
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