京都を舞台に死者と生者の奇跡のような交わりを描いた『八月の御所グラウンド』で第170回直木賞を受賞した万城目学さんよる受賞第1作『六月のぶりぶりぎっちょう』が6月24日(月)に早くも刊行になりました。
前作『八月の御所グラウンド』に連なるシリーズ第2弾である本作でも、京都にゆかりの歴史的人物たちと織り成す、奇跡のようなドラマが展開されます。
刊行に先立ち、本作の世界を皆さんにいち早く感じていただくべく、本書収録の第1話「三月の局騒ぎ」の冒頭を先行無料公開します。
京都の女子大学に入学し、とある女子寮で新生活を始めた「私」と、14回生以上との噂のある先輩入寮生キヨ――“お局様”との摩訶不思議な交流とは……。
にょご。
私はむかし、にょごだった。
と言っても、二十年以上もむかしの話だけれども。
「2001年京都の旅」
そんなキャッチフレーズを心に掲げ、私は京都にやってきた。実際は旅ではなく、ひとり暮らしが目的だったわけだが、映画の原題は「2001:A Space Odyssey」だから問題ない。オデッセイの意味には「冒険」も含まれる。
そう、私にとって京都は冒険の地だった。
はじめて親元を離れ、大学入学と同時に新生活を開始する。でも、完全にひとり暮らしをするのは自分も親も心配なので、折衷案を取って寮に入ることにした。
ひとつの大学の管理下にあるものではなく、京都市内のいろんな大学の学生が入居できる寮だった。探してきたのはお父さんで、入学手続きをしたついでに、大学近くの不動産屋で現物を見ずに契約を済ませたと言っていた。
思うに、もしも現地まで足を運んでいたなら、お父さんはハンコを押さなかったはず。
なぜなら、第一印象は掛け値なしに最悪だったからだ。
お母さんといっしょに京都駅からタクシーに乗り、白川通から東へ入り、しばらく坂を上った先で車から下りたときの衝撃は今も忘れられない。
おりしも天気はにわか雨。古いコンクリートの壁面が雨に濡れて暗く陰り、澱んだ雰囲気が惜しげもなく曇天に放散されていた。しかも、壁面にはびっしりとツタが絡まり、気味が悪いことこの上ない。建物の側面にくっついている外階段は遠目にも赤く錆びつき、玄関脇のプレートに記された「北白川女子寮マンション」の文字はほとんど剝げて消えかかっていた。
荷物を互いの手に提げながら、お母さんと二人、しばし呆然と建物を見上げた。
親元を離れ、こんな魔窟のような場所でひとり暮らすのか――。何だか泣きそうな気分になって、そのままお母さんといっしょに家に帰りたいと本気で思ったが、踏ん張った。
きっとお父さんは悪徳不動産屋に騙されたんだ、と坂を下りていくタクシーのエンジン音が遠ざかるのを聞きながら、一時は絶望感に頭のてっぺんまで浸かった私だったが、その後、前向きな心を取り戻すまでにかかった時間は案外短かった。というのも、おどろおどろしい外観とは裏腹に、こぎれいで掃除の行き届いた建物内部であったり、いつもニコニコと対応してくれる寮監先生(寮母さんのこと)の存在であったり、エントランスでくつろぐ、寮の看板猫であるカワタケとクレタケのキュートさであったり――、右も左もわからぬ京都ニューカマーをあたたかく迎えてくれる、非常に暮らしやすい環境が整っていたからである。
入寮後半年もすると、あれほど怖じ気づいて入り口をくぐったはずのオンボロ寮が、それなりに由緒ある、味わいある「わが住みか」に感じられるようになるのだから、人間の適応力とは不思議である。
不思議と言えば、寮内で用いられる呼称がとにかく独特だった。
当時は「京都にある寮だしなあ」などと勝手に納得していたが、大学卒業後、同じく女子寮で生活した人たちの話を聞く機会に触れるにつれ、どうも普通ではなかったことが徐々に判明した。
まず、寮生のことを「にょご」と呼んだ。
漢字で書くと「女御」となる。
平安時代、天皇は大勢の妃を身のまわりに置き、彼女たちは「女御」と呼ばれていた。要はプリンセスのことである。
もちろん、北白川女子寮マンションはその名のとおり、男子出入り厳禁の女の園。女御といっても、いったい誰の妃なのか? と疑問が湧くところかもしれないが、実際のところ、誰もそんなことは気にしていなかった。
「にょごのみなさん、にょごのみなさん――。明日とあさってはボイラー点検のため、午前の大浴場の使用はできません。ご注意くださいますよう」
館内アナウンスで呼びかける、寮監先生のおっとりとした口調が今も耳に残っている。
建物の呼び方にも独自のセンスが光っていた。
北白川女子寮マンションは二つの建物から成り立っていた。北白川の傾斜ある地形に建っていることもあり、東西に独立した建物を一本の渡り廊下がつなぐ、という構造だった。二つの建物はほぼ同じかたちで、真ん中に中庭を置き、それを「ロ」の字にぐるりと囲む回廊型の三階建てを採用していた。中央に各部屋のドアが向いているので、どの階であっても部屋から廊下に出ると、そこから窓越しに中庭を望むことができた。
東西二つの建物には、それぞれ呼び方があった。
建物の中央に陣する中庭が、名前の由来になった。すなわち、寮の玄関がある西側の建物の中庭には、たくさんの薔薇が植えられていた。庭の中央にアーチのようなものを設置し、そこに薔薇の枝を這わせて、その周囲にも薔薇が両脇に並ぶ通路を拵え、ちょっとした薔薇園の様相を呈していた。
薔薇の手入れは、すべて寮監先生が行った。建物自体は隠しようがないほどボロであっても、内部の雰囲気が決して暗くなかったのは、一年を通じて建物のあちこちに寮監先生が緑や花の飾りつけを欠かさなかったことも大きかった。
なかでも、中庭における薔薇の咲き誇りぶりは圧巻の一言だった。
二年前、私も自宅の庭で、中学生の娘と薔薇の栽培にチャレンジしてみたが、あんな面倒なものとは知らなかった。種から育てようと試みるも、二年経っても花は咲かず、そのまま夏の猛暑にやられ、無念の枯死を見届けることになった。
今となってはわかる。寮監先生の園芸の腕前は相当なものだった。五月の中ごろから中庭でいっせいに花を咲かせる色とりどりの薔薇こそが、建物のシンボルであることは言うまでもなく、にょごたちはこの西側の建物を「薔薇壺」と呼んだ。
一方、東側の建物の中庭には、中央に水の涸れた噴水が置かれ、それを囲むように背の高い棕櫚の木が四本立っていた。こちらの庭はコンクリートで地面のほとんどが固められていたこともあって、寮監先生も緑を植える隙がなかったと思われる。築五十年近い寮の建物の雰囲気をぞんぶんに漂わせながら、円形の噴水に面して古ぼけたベンチがさびしげに並ぶばかりだった。西と呼応するように、にょごたちはこの東の建物を「棕櫚壺」と呼んだ。
「何なの、壺って?」
当然、私は訊ねた。
訊ねた相手は隣のシマの椎ちゃんこと椎本初音である。
新入生には一部屋につき三人で共同生活を送るという、相部屋ルールが適用されていた。
十畳ほどの部屋を三つに仕切り、隣人のシマとの間にはすだれを下ろす。各人の持ちスペースとして壁際に勉強机代わりのちゃぶ台、その右側に本棚が設置されている。部屋の明かりが強制的に消灯されるのは午後十一時。たとえば、それまであぐらをかいた姿勢でちゃぶ台机に向かっているとすると、背中側の空いたスペースに布団を敷く。それだけで個人のテリトリーがすべて埋まってしまう狭小空間だったが、不満はなかった。むしろ、すだれを隔てて、すぐ隣に友人がいるという心強さが、一度もホームシックにかかることなく、京都での新生活に馴染むことができた、いちばんの要因だったように思う。
「壺っていうのは中庭のことだよ」
少しカエルに似ていなくもない愛らしい顔で、椎ちゃんはケロリと答えた。
「それって関西弁?」
ちがうちがう、と彼女は笑いながら手を振った。
「もっとむかしの言葉」
平安時代、天皇が住む内裏の中に、さらに妃たちが住むエリアがあった。妃たち、すなわち女御のみなさんの住居には中庭が設けられ、人々はそれを壺と呼んだ。その壺の植栽によって、建物の呼び名がつけられたのだという。たとえば、藤の木が植えられていたなら「藤壺」、梅の木なら「梅壺」というように――。
「だから、薔薇壺? 中庭に薔薇園があるから?」
棕櫚があるから棕櫚壺だし、そうなんじゃない? 関心なさげにうなずく椎ちゃんは、私とは違う大学に通う文学部の学生だった。
すると、椎ちゃんの向こうで、柏木野分ちゃんが、
「ここってさ、そういうの好きだよね。これも『御簾』って言うらしいし」
とすでに敷いた布団に寝転がったまま、片足を天井にすっと伸ばした。足が示す先には、巻き上がった状態のすだれが見える。
野分ちゃんと言えば思い出すのが、ストラップだ。多分にギャル気質強めだった野分ちゃんは、これでもかというくらい携帯からストラップを垂らし、常にじゃらじゃらと派手な音を鳴らしていた。
私が京都にやってきた二〇〇一年といえば、写真を携帯電話からのメールに添付して送ることが最先端だった時代。写真付きメールを「写メ」と呼び始めたのもこのあたりではなかったか。当時、まだ元気だった日本の電機メーカーは競って携帯の機種端末を販売していた。どれほど小さく、軽くするかが、各社喫緊の課題であり、
「さんざん頭をひねって、やっとのことで一グラム軽量化しても、高校生の女の子が百グラムのストラップをつけてしまう」
とぼやく開発者のインタビュー記事を読んだときは、野分ちゃんの七夕の笹飾りのようなストラップの束を思い出し、笑ってしまったものである。
「どういうネーミングセンスなんだろうねえ」
椎ちゃんが「関西ウォーカー」の映画紹介欄をめくりながら、あくびをする。
消灯時間まであと十分。私は立ち上がり、椎ちゃんとの間の仕切りをするすると下ろした。
野分ちゃんの言うとおり、隣人との間に下ろすすだれを、寮生たちは「御簾」と呼んだ。
確かに奇妙なネーミングセンスであるが、平安時代的と言えるものは、「にょご」「壺」「御簾」くらいで、あとはごく一般的な名称が使われていた。一日二度、用意される食事も朝食に夕食。まさか朝餉、夕餉と呼ぶはずもない。
いや、違った。
ひとつ、大事な呼び名を忘れていた。
北白川女子寮マンションでは、にょごたちの部屋のことをこう呼んだのだ。
「局」と。
*
お局様という言葉がある。
職場における、いけずな古株女性を揶揄するニュアンスで用いられるこの「局」だが、本来は部屋を意味する言葉だった。
平安時代、天皇が住む内裏に勤める女官たちは、建物に仕切りを設け、自分たちの私室とした。このプライベートスペースこそが「局」だった。
その後、身分の高い女性の職名として使われるようになり、江戸時代、大奥に君臨したことで有名な将軍家光の乳母は、日本の局のトップランナーとして天皇から「春日局」の称号をいただいた――、これも椎ちゃんが教えてくれた蘊蓄である。
部屋のことを局と称する独自のしきたりは部屋番号を呼ぶ際にも適用され、たとえば「三号室」ならば「三番局」と変換がなされた。
いちいち面倒なことを、と思わないでもない。だが、慣れてしまうと案外、気にならないものである。当時は携帯電話が完全には普及しておらず、寮監先生の部屋の前には黒電話が設置され、外部からかかってきた電話を寮監先生が取り次いでいた。
「棕櫚壺、二十八番局の竹河さん――、ご実家からお電話です」
部屋番号、否、局番号を告げる寮監先生の声が、土日になると頻繁に館内に響いた。ちなみに、私の一回生時の部屋は「薔薇壺、十一番局」だった。
「部屋のことを局と言うなら、寮のことも何かに言い換えたらいいのに」
「寮は平安時代も使っていた言葉だからね。当時から寄宿施設という意味だったし」
何でも知っている椎ちゃんだったが、流行のJポップにはとんと疎かった。野分ちゃんが「ねえ、聴いてよ。十六和音の機種に交換したんだ」と流行りの曲を、携帯電話に一音ずつ手打ち入力した自作の着メロを披露しても、どこまでも反応が薄く、「つまんないなあ」とよくクレームを受けていた。
「自分を信じてゆくのだぴょ~ん」
携帯から鳴り響く、独特な音色の和音とともに、野分ちゃんがハスキーボイスで歌っていたあの頃、どれくらいの数の学生が寮内で生活していたのだろう。正確なところはわからないが、東西の建物合わせて百数十人が生活していたはずだ。はず、というのは定員は百五十名と決まっていたが、一人、また一人と砂がこぼれ落ちるように寮を離れていくからだ。
ネックは何といっても門限の存在だった。
門限十時、消灯十一時。
どんなことがあっても揺るがぬ鉄則だった。
遊び盛りの大学生には厳しすぎる制約だったかもしれない。でも、入寮の際に両親はもちろん、ときに本人もが抱く希望として「安全で堅実な学生生活を送る」という大命題があるわけだから、そこは致し方ない。
ただし、飲み会を早く切り上げて帰ることはできても、問題はアルバイトのシフト時間だ。学校の授業が夕方に終わり、それからアルバイトに励もうにも、午後九時半には上がらないといけない。これでは稼げないし、そもそも勤務先のシフト予定に組みこんでもらえないこともある。
こうなると、学費を自分で稼がねばならない学生は苦しい。夏休みを終えたあたりから、新入生のなかで退寮者がぽつり、ぽつりと出てくる。もちろん、退寮の理由はアルバイトだけではない。彼氏ができたとか、寮生活が肌に合わなかったとか、留学することになったとか、様々だ。
わが十一番局は、夏休み中に彼氏ができた野分ちゃんが、年明けまでに二度門限を破り、寮監先生から今度破ったときはご実家に報告します、とやんわりと警告を受けた。本人も「局暮らしって窮屈だなあ」とぼやき始め、どうなることやらと気を揉んだが、何とか踏み留まった。その後も彼氏とは別れてはくっつきを繰り返しつつ、結局四年間、野分ちゃんとはともに局暮らしを続けることになる。
二回生になるタイミングで「薔薇壺、十一番局」チームは解散。新学期が始まる前の三月、私は新しい部屋に移った。
二回生からは三人部屋が二人部屋になる。部屋の広さは同じくらいなので、一気に自由度が増したように感じられた。
二年目のわが住まいは「薔薇壺、三十四番局」と決まった。フロアは一階から三階へ。階段の上り下りが面倒ではあったが、そのぶん窓からの眺めがよかった。これまでは隣の敷地のブロック塀が窓の正面に居座っていたのが、三階からだと西側になだらかに広がる街並みを見渡すことができる。はるか遠方には、五山の送り火のひとつである左大文字が、こんもりと木々が茂った山肌に「大」の字をへばりつかせていた。
「あっちのほうに鳥居形も見える。かなり小さいけど、わかるかな」
左大文字を差した指を左へと移していく、新たな同居人である東屋みゆきさんの言葉に従って目を凝らしたが、どれのことを言っているのかわからない。
「目がいいんですね」
「他の四つと違って結構、低い位置なんだよね、鳥居形って」
みゆきさんは三回生だった。去年からこの局で暮らしていて、同居人は同じ大学の同級生だったらしいが、年度が変わるのに合わせて、寮を出ていったとのことだった。
毎年、春の時点では、入居者の半数近くを占める新入生であるが、三回生になるまでにその六割が寮から去っていく。四回生になると、さらに人数が減る。
「送り火のときになったらわかるよ」
みゆきさんはヘアバンドの下からのぞく、秀でた色白のおでこをぽりぽり搔きながら、ちゃぶ台机の前に座った。
「あ、パソコン」
みゆきさんの前には、寮に来てはじめて目にしたノートパソコンが置いてあった。
「え? インターネットとかできるんですか?」
できないよ、とみゆきさんは画面を立ち上げながら笑った。
私が二回生になった二〇〇二年。Wi―Fiなんて気の利いたものはまだ普及しておらず、個人がインターネットにアクセスするには有線でパソコンとつなぐしか手段がなかった。ISDNやら、ADSLやら、インターネット用の回線がようやく引かれるようになった時代である。それにともない、インターネットの接続料金がお安くなりました! というテレビや雑誌の広告は日を追うごとにやかましくなり、何のこっちゃ、と思いつつ、デジタルに関する社会環境が急速に変化していることを肌で感じさせられた。何しろ私が高校生の頃は、電話回線を使ってインターネットにつないだ時間だけ、お金を払う必要があり、月に何十万円の請求が来ることもある、なんて話をよく聞いたからだ。
にょごたちがアクセスできる電話回線の引かれている場所が、寮監先生の部屋前しかない以上、寮でインターネットを使うことは不可能である。ゆえにパソコンを購入しようと考えたことはなく、もっぱら、大学のパソコンルームでの利用に限られていた私だが、みゆきさんは設計図の計算をするためにパソコンを使っていた。彼女は同じ大学の工学部建築学科に所属していた。
「これからはますますインターネットの時代になるだろうね。何でもネットでできるようになる。そのうち、大学に行かなくても、部屋で授業が受けられるようになるかもよ」
コロナによる自粛期間、子どもたちの自宅学習が決まったとき、まっさきに思い出したのがみゆきさんの言葉だった。あれから二十年が経過し、まさか、こんな状況でタブレット一枚を使って、リモートで中学校や小学校の授業を受けることになろうとは――。複雑な気持ちで、食卓から聞こえてくる担任の先生の声を受け止めたものである。
みゆきさんのパソコンに対する探究心は本物で、「自作のパソコンを作ってみたい」とネット環境のある部屋を求め、四回生になるタイミングで寮を離れていった。
集中すると、何時間でも無駄口をいっさい叩かず、ひたすらパソコンに向かっている人だった。一方で、オフの時間はとても話し好きで、今でも覚えているのは、
「日本最初のインターネットカフェは一九九五年、京都で誕生した。場所は四条通の大丸の向かい側。ウィンドウズ95が発売される前にオープンした」
というやはりパソコン関連の話だ。これだけ保守的なものが生き残っている一方で、ぬけぬけと真新しいことに手を伸ばすのが京都の奇妙なところである。さんざん伝統的な和食イメージの守護者として振る舞っておきながら、実はひとりあたりのパンの消費量が日本でもっとも多い街でもある。
御簾が下がった向こうで、最新のノートパソコンを駆使して研究に打ちこむみゆきさんの姿は、京都の持つ二面性の象徴と言えたかもしれない。
お互いまったく趣味嗜好が異なり、かつ学年が違っていても、良好な人間関係を築くことは可能だと教えてくれたのはみゆきさんだった。大学卒業後、入社した会社で先輩の女性社員たちと比較的スムーズに打ち解けることができたのも、相手との適度な距離感の保ち方をすでにつかんでいたことが大きい。
寮を去るタイミングで、割のいい家庭教師のアルバイトの口を譲ってくれたのも彼女だった。その後、就職活動に励んだ際、いちいち東京まで足を運ばないといけない、地方の大学生の経済的負担軽減に(結局、就職先は大阪だったが)、どれほど助けになってくれたことか。
そして、四年間にわたる寮生活のなかでもっとも鮮烈な印象を残し、いまだに不思議な感覚とともに思い返すキヨの存在を、最初に教えてくれたのもまた彼女だった。
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