本作のサブタイトルは蝦夷拾遺。
作者自身のあとがきにあるように、「かつての北海道と何らかの関係のある」六編が収められている。また、函館出身の宇江佐さんの「郷土愛が書かせたもの」だという。
蝦夷(北海道)を領有していた松前藩の幕末の動乱を背景にした作品をはじめ、様々な視点から蝦夷の姿が現れる。
拾遺とは、漏れ落ちたものを拾って補う、また、そうして作ったもの、と辞書にある。『たば風』はまさにそうした短編集だ。歴史の流れを太い幹に例えるなら、幹から伸びた枝の、さらにそこから分かれた小枝が描かれている。
歴史の渦に巻き込まれ、運命に翻弄された人々の、それぞれの物語――。江戸後期から明治にかけての激動の時代が描かれているので、それは間違いない。しかし、一編一編が織りなすドラマを一括りにしたくはない。物語の中の人々は過酷な運命と向き合い、己の人生を懸命に歩む。強風にあおられ、今にもぽきりと折れてしまいそうな小枝――大きな歴史から見れば、取るに足りない人々の人生が掬い取られている。
歴史の一頁を飾るような、ある分野で突出して華々しく活躍できるような人など、ほんのひと握り。だから、この六編に登場する主人公、それを取り巻く人々は、時代は違えど、現実の、取るに足らない圧倒的多数の我々そのままなのだ。
知らない誰かの物語ではない。もしかしたら自分の話かもしれないのだ。
照らし合わせてほしい。
どうにもならない苦難に絶望したこともあるだろう。深い悲しみに、打ちひしがれたことは誰しもあるはずだ。
表題作である「たば風」では、祝言目前にある不幸に見舞われながらも、揺るぐことのない情愛が描かれた。
熟年離婚を望む妻。息子に打ち明けると、思いもよらぬ難題を突きつけられる「恋文」。
貧しい家の生まれの者が立身出世して戻って来る。それを迎える側の複雑な心境を描く「錦衣帰郷」。
上野戦争に赴いた想い人の記憶を星に託す「柄杓星」。
「血脈桜」では、藩の存亡を左右する重責を担わされた娘たちの辛苦。
職を失い怠惰な暮らしを続ける父と兄のために働く娘の決意が鮮やかな「黒百合」。
どうだろう? 社会情勢も時代も異なるが、現代を生きる我々の思いや経験に置き換えることが可能なのではないだろうか。
本作は、物語の主人公の人生を描きながら、我々に起こり得るであろう、経験したであろう人生を描いているのだ。
さらに本書の短編いずれもが、胸を打つのは、たとえ樹木の末端の枝のような生であろうと、一本の木を構成する大切な一部であると気づかせてもくれるからだ。
それは、人として生きることの尊さ。
宇江佐作品には、それが根底に常にあるように感じる。
しかし、それは平坦でもないし、楽じゃない。他者を羨み、己を嘆く。そうした厳しさも説かれている。幸福な結末ばかりではないのは、著者の他の作品にも多くある。
だからといって、生きることをやめてはいけないと思わせてくれるのが、宇江佐作品の力であり、メッセージであると受け止めている。
歴史時代小説は「人」を描け、といわれる。特別な人間を描く意ではない。普遍的な人の性(さが)を描くということだ。
だから、その作品が色褪せることはない。
幾星霜を重ね、世の中が変わろうとも、人の営みも性も変わることはないからだ。
歴史時代小説の愛読者ではあるが、書き手の立場から述べさせていただくと、「たば風」は、時代小説の要素がこれでもかというほど詰めこまれている作品だと思う。幸から不幸への急転直下、情愛シーン、剣戟の場面。そして物語を象徴するたば風の効果的な用い方。そういう意味では「黒百合」も好きな一編なのだが、物語の構成と展開でいえば、「たば風」は、これぞ時代小説! を堪能できる。
あとがきで、たば風の解釈を補足されていたが、あのラストはまさに、たば=霊魂そのものだったと思う。
宇江佐さんが亡くなってから、早七年が経った。享年六十六。あまりにも惜しまれる。
個人的なことで恐縮だが、宇江佐さんとは時折、書簡のやりとりをしていた。大抵は、私の相談事だったりしたが、多忙にもかかわらず丁寧なお返事をくださった。美しく整然と並ぶ少し右上がりの文字には、その文面とともに、真面目で気遣いの細やかなお人柄を感じた。
返書は大切に保管し、宝物になっている。けれど、なによりの宝は、こうして綴られた、宇江佐真理という作家が遺した作品に他ならない。
これからも読み継がれていくであろう物語の中で、作家の思いは生き続ける。
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