〈「日本のパイロットはすべて近眼」…ルーズベルト大統領が真珠湾攻撃まで疑わなかった、“信じがたいデマ”の数々〉から続く
太平洋戦争開戦の日までの熾烈な国際外交交渉と、開戦の日の24時間を描いたドキュメント『[真珠湾]の日』は、「昭和史の語り部」半藤一利さんの、もう一つの『日本のいちばん長い日』と言うべき作品である。
本書より一部抜粋して、真珠湾攻撃の日における、日米双方の緊迫感あふれる事態の推移を紹介する。第2回は、9カ月の日米交渉が打ち切られた際のやりとりである。(全4回の2回目/最初から読む)
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「会ってもしようがない」…ハルが漏らした本音
ワシントンの日本大使館のタイプを打つ音がやっととまった。「第14部にはいくつかのミスタイプがありますから、打ち直したほうが……」と主張する奥村(編集部注:勝蔵。駐米日本大使館首席書記官)から無理矢理それをとりあげると、野村(注:吉三郎。同大使)と来栖(注:三郎。同特派大使)は玄関口に走った。待機している車にのりこむと、晴れた日曜日のマサチューセッツ通りを国務省へと、とにかく二人は急いだ。日本時間午前4時5分(ワシントン時間7日午後2時5分)、車は国務省の玄関に滑りこむ。
ハル(注:国務長官。開戦直前に突如アメリカ側から日本側に提示された交渉文書「ハル・ノート」で有名)は対日交渉でかれを助けてきたジョセフ・バランタインと話していたが、両大使来館のことを知らされるといった。
「彼らの目的は明白だ。会っても仕様がないな」
ちょうどそこへ、大統領からの電話がかかってきた。日本の二人の大使を、ハルは3階の外交官応接室に待たせることにした。AP通信のターナー記者は目撃をしていないであろうに、このときの両大使のことをこう報じている。
「来栖は、応接室の中を行ったり来たり歩きまわり、野村は革の長椅子に坐りこんで、心中の動揺を隠しきれず、時々靴先でいそがしく床を叩いた」
手交が遅れた最後通牒。駐米大使は「理由は存じません」と…
ハルはこの間に、日本が真珠湾を攻撃したという報らせを、大統領からじかに聞かされたのである。ハルの『回想録』によると、その声は「乱れてはいなかったが、早口であった」と記されている。ハルが「その報告は間違いないんですか、確認ずみですか」と聞くと、ルーズベルトは「ノー」といったが、報告はおそらく事実であろう、と2人は信じた。ハルが、野村と来栖が来て待っているところだと告げると、大統領はいった。
「じゃ、2人に会い給え。ただし真珠湾のことはおくびにもだすな。鄭重(ていちょう)に覚書を受けとって、冷ややかに追い返せ」
午後2時20分、日本の両大使は、ショックをやっと抑えている国務長官に会うことができた。ハルは握手の手を差出すこともせず、立ったままである。椅子に坐れともいわなかった。このあとの応接についてはよく知られている。
「午後1時に手渡すように、との訓令を受けていたのですが、電報の翻訳に手間どって遅くなりました」と野村が弁解するようにいい、覚書を手渡した。ハルはきたないものでも読むように指先でつまんで、ページを繰った。内容は読まないでもわかっている。そして詰問(きつもん)するようにいった。「なぜ、これを午後1時に私に渡さなくてはならなかったのですか」。「理由は存じません」と野村は正直に答える。
そしてこのあと、覚書の最後まで読むふりをするかのように大急ぎで視線を走らせて、ハルは怒りで声を震わせながらいった、というのである。
「これほど恥知らずで、虚偽と歪曲にみちた文書に接したことがない」
「はっきり申しあげるが、過去9カ月にわたるあなた方との話し合いのすべてを通じて、私はただの一言も噓をついたことがない。そのことは記録をみれば明白である。私は50年も公職についているが、これほど恥知らずで、虚偽と歪曲にみちた文書に接したことがない。これほど大がかりな噓とこじつけとを公然と口にしてはばからない国が、この地球上に存在するとは、今日まで夢想だにしなかった」
翻訳によっていくらかはニュアンスが異なってくるであろうが、外交史上に前例のない乱暴な言葉で、両大使を罵倒したことは確かである。しかも野村が何かいおうとして身をよじったとき、ハルは手をふり、無愛想に顎をしゃくってドアを差した。ハルは書く。
「2人の大使は黙って頭をたれたまま出ていった」
2人が出ていくと、ドアを閉めながらハルはテネシー訛りで罵った。
「くそ野郎、しょんべん蟻め!」
いや、ハルの書く別れの儀式はかならずしも正しくはなかった。野村はとくに「アデュー」という言葉を使って別れを告げた。握手もしている。来栖は「グッド・バイ」といった。何も知らない2人は、外交官らしく紳士的に別れの挨拶を忘れてはいなかった。
88年間の日米国交にピリオドが打たれた瞬間
グッド・バイ――まさに9カ月間にわたってつづけられた会談に、それは大使と大統領とが9回、ハル長官との話し合いは44回、その間にウェルズ国務次官と8回と、それらすべてに空しく別れを告げたとき。いや、過去88年にわたった日米国交にピリオドを打った一瞬となった。それは結局、日本は無警告で戦争を開始した無法の国という汚名を残して。
しかし、よくよく考えれば、交渉打切り通告であろうと、開戦通告であろうと、どちらでも同じであったように思われる。せめぎ合いの最後においては、相手の意思はすべて了解ずみであり、形式に関係がない。と同様に、かりに手交が間に合ったとしても、別の理由づけで、アメリカ側は日本の攻撃を罵ったことであろう。遠慮なくハルは、すぐに両大使に浴びせた「悪罵」を新聞に発表している。
野村と来栖とが、ハルの罵倒の意味するところを知ったのは、大使館に戻ってからである。ホワイト・ハウスから発表された「日本軍の真珠湾攻撃」のニュースを、待ちうけた井口(注:貞夫。駐米日本大使館参事官)から聞かされたときになる。野村は沈痛な面持ちで一言、「そうか」といっただけであった。
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