1941年12月8日、太平洋戦争のきっかけとなった「真珠湾攻撃」。山本五十六・連合艦隊司令長官の密命を帯びて、作戦実施計画立案の中心的役割を担ったのが、第一航空艦隊参謀だった源田実氏である。
源田氏は戦後『真珠湾作戦回顧録』を著し、世界戦争史でもまれに見る大奇襲作戦の全貌を後世に遺した。本書から一部抜粋して、真珠湾攻撃当日のようすを紹介した記事を配信する。(全2回の1回目/後編を読む)
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もう作戦成功に対する欲望も、失敗に対する心配もない
12月8日、1時30分に第一次攻撃隊が発艦したのであるが、私はその前夜、午後6時から8時までの間、艦橋下の作戦室でぐっすりと眠った。気持ちのよい眠りを終わってそとに出て見ると、飛行甲板の上には、既に第一次攻撃隊に参加する飛行機は整然とならべられ、暗黒の中にエンジン試運転のゴーッという音が聞こえ、排気管からは青白いほのおが出ていた。
私はそれを見ながら階段をのぼって艦橋に立ったのであるが、ふと気がついてみると、不思議な心の状態を感じた。数時間前まで心の中にわだかまっていたもろもろの不安や妄想が、跡形もなくきれいに消え去って、全くすがすがしい気持ちであった。もう作戦成功に対する欲望も、失敗に対する心配もなかった。自分で明鏡止水とはこんな心境を指すのではないかと思った。無我の境というのであろうか。それまで36年の生涯に、こんな気持ちになったのはこの時が初めてである。それだけではない。その後今日までの32年の生涯にも、こんなに澄んだ心をもったことはない。
戦争中の4年間、私の飛行生活40年間、この長い間には、「これで自分の一生も終わった」と観念した事が何十回とある。「どんなことをしても助かる見込みがない」と観念したときには、案外と平静になるものである。しかし、それはすべて個人の生命を対象とした場合であって、真珠湾作戦のような、自分一個の生命をなげうっても、それによって責任の重圧をはらいのけることができない場合の諦観とは違うのではあるまいか。
なにはともあれ、この時の心境を、その後再現したいと努力してみたが、恥ずかしいながら未だにできないでいる。
事前の情報は万端
12月7日、最後の補給を終わって、補給部隊には次の会合点を与えて帰路につかせ、機動部隊は明朝突撃すべく第四戦闘速力 (24ノット) で南下をしている時、南雲長官が私に言った。
「ともかくも、ここまではもってきてやった。あとは飛行機がやるかやらないかだ。航空参謀頼んだぞ」
「長官、飛行機に関する限り大丈夫です」
この時には、もう夜陰にはいっていた。敵の哨戒機に発見されるおそれもない。成功についてはほとんど確信に近いものをもっていた。
それというのも、われわれが単冠湾をあとにして以来、大本営からはそれこそかゆいところに手の届くような情報が送られていたからである。
ことに最後の、
「ホノルル市街は平静にして、灯火管制を為し居らず、大本営海軍部は必成を確信す」
は、大いにわれわれの士気を高からしめた。
機動部隊は8日0時30分、第六警戒航行序列 (航空機の立場からいえば、これは戦闘隊形である。)に占位し、攻撃隊を発進する準備隊形を整え、1時には巡洋艦利根、筑摩の零式水上偵察機各1機が、夜闇の空に飛び立った。直前偵察のためであり、ラハイナ泊地と真珠湾を偵察し、その後適切な情報を送ってくれた。
真剣な顔つきで握手したりはせず
8日の午前零時ごろには、飛行服に身を固め、準備を整えた搭乗員が、続々と飛行甲板下の搭乗員室に集まってきていた。ここで敵情やわが方の位置、今後の行動予定などを聞いて、搭乗員としての航法計画を立てるのである。
私はそのころ搭乗員室にはいって行ったのであるが、どの搭乗員もこれほどの大事を控えている人たちとは思えないほど静かな顔つきをしていたし、ニコニコしながら話し合っていた。
ちょうど総指揮官の淵田隊長がはいってきた。もちろん彼は平素とちっとも変わっていない。
彼を見つけた私が、
「おい、淵! 頼むぜ」
と呼びかけたところ、
「お、じゃ! ちょっと行ってくるよ」
まるで、隣にタバコか酒でも買いに行くような格好であった。
よみものとか映画などでは、ここで真剣な顔つきをして握手したりしたことになっているが、それは興行用のものであって、事実とは関係ない。
「われ、敵主力を雷撃す、効果甚大」
飛行機隊が発進して、未曾有(みぞう)の大奇襲攻撃を行なった実況については、攻撃隊の生き残りの人の著書もあるし、リーダーズ・ダイジェスト社発行の『トラトラトラ』にも詳しく記載してある。殊に映画「トラ・トラ・トラ!」は実況に最も近いものであろう。筆者が拙い筆をもって、ここに重復する必要はないものと思う。
出発前、淵田と私との約束で「トラ・トラ・トラ」の発信は、敵に邀撃の準備がなかった場合に発信することになっていたので、赤城の艦橋にあったわれわれは、攻撃効果の入電があるまでは安心がならなかった。ことに雷撃隊の攻撃効果である。
総指揮官が突撃を下命し、おおむね順序よく攻撃が行なわれているらしいことは、赤城の艦橋でほぼ想像できたのであるが、それにしても待たれるものは、攻撃効果の報告であった。
全攻撃隊の中で、一番先にはいったのは村田雷撃隊長の報告である。
「われ、敵主力を雷撃す、効果甚大」
この電報を受け取った時ほどうれしかったことは、私の過去にはない。しかし、赤城の艦橋における表情は静かなものであった。
南雲長官、草鹿参謀長以下各幕僚がいたが、みんな顔を見合わせてニッコリとした。私と真正面で見合った南雲長官の微笑は、今でも忘れることができない。これで長い年月にわたる苦しい鍛練が報われたのである。
まるで落語でも話すような調子で
村田少佐が着艦して、一応正式の報告が終わった後に話し合った。
「おい、ぶつ、あれほどうれしい電報はなかったぞ」
「そうですか、発射を終わり、敵艦のマストをすれすれに飛び越して後ろを振り向くと、水柱が高く上がっていました。当たったぞお!! と偵察員に言うと、彼も、当たりました!! と答えたのですが、気がついてみると、まわりは敵弾が火をひいて走っているのです。おっとっとお! と大急ぎで、その場を飛び出しました」
と、まるで落語でも話すような調子で語っていた。
村田報告に続いて、各攻撃隊指揮官からは引きも切らず電報がはいった。
「われ、敵主力を爆撃す、効果甚大」
「われ、敵基地を爆撃す、効果甚大」
すべて、この種の電報の洪水であったが、中にただ一つ、
「われ、敵基地を爆撃す、効果小」
というのがあっただけである。
報告が終わったところで淵田に、
「おい、淵! ご苦労だったなあ」
と労をねぎらったところ、
「うん、ざまあ見やがれと言いたいところだ。出てきやがったら、またひねってやるよ」
と、これまた草野球でもやった後のようなことをいっていた。
「十年兵を養う、只一日之を用いんが為なり」
われわれが海軍にはいってから今日まで、ただただ今日このことをなさんがために、苦しい訓練を続けてきたのだ。
「十年兵を養う、只一日之を用いんが為なり」
という古語に、この時ほど実感をもったことはない。
この戦果はおおむね所期のとおりであるが、かえすがえすも惜しまれるのは、レキシントン、エンタープライズ2隻の航空母艦を撃ちもらしたことである。事後の作戦経過を考えるならば、これは戦艦の3隻や4隻には替えられないものがある。
この攻撃において、飛行機搭乗員が、生還を期していなかったことは、次のような事例でも明らかであろう。
(一) 第二次攻撃隊制空隊の蒼竜分隊長飯田房太大尉は、母艦発艦前部下に対し、被弾等のため帰投が不能であると判断した場合には、自爆して捕虜となるのを避けるように訓示していた。同大尉はカネオヘ基地攻撃後、自機のガソリンが被弾のために漏れているのを発見したが、列機を率いて母艦の方向にしばらく飛び、列機にその方向を明瞭に理解させた後、手を振って列機に別れを告げ、従容としてカネオヘ基地に突入し、壮烈な戦死をとげた。
(二) 第二次攻撃隊の制空隊でヒッカム飛行場を銃撃したのは、赤城および加賀の戦闘機である。その中で未帰還は、加賀の五島一平飛曹長と稲永富雄一飛曹である。だからこの話は、この2人の中の1人であるが、五島飛曹長の算が大である。それは、彼を最後に見た加賀搭乗員の報告では、彼は銃撃後、もうもうたる煙の中を降下していったという。
飛行機をピストルで射って歩くパイロット
戦後、私がホノルルを訪問したとき、在留日系人から聞いた話である。
1人のパイロットは、ヒッカム飛行場に着陸し、まだ燃えていない飛行機をピストルで射って歩いていたという。日系の基地勤務員を見つけたとき、
「君たちに危害を加えるつもりはない。早く安全なところに避難しろ」
といっていたという。
どうも、射っても射っても火がつかないので、着陸して火をつけるつもりだったらしい。五島飛曹長は、小柄でガッチリした体軀をもった柔道の達人であり、その人柄からしてこんなことをやりそうな人であった。
その他、これに類することは多々あるが、ここには代表的なものだけを掲載することにした次第である。
【後編を読む】 《真珠湾攻撃》なぜ日本は“二次攻撃”をやらなかったのか「山本五十六も米国の底力を下算していた」「政治的、戦略的には大きな失敗だった」
〈《真珠湾攻撃》立案者が語った意義…「真珠湾作戦をやらなくても、結局アメリカ国民は結束した」「やらなければ、1月中旬には日本本土が空襲されていた」〉へ続く
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