去る8月19日から22日の4日間にわたり、11月のアメリカ大統領選に向けた民主党大会が開かれ、大統領候補の指名を受けたカマラ・ハリスのスピーチが党大会の末尾を飾った。トランプ再選が既定路線として語られる暗澹たるムードは、アメリカ初の黒人・アジア系の女性大統領誕生の可能性が現実のものになるなかで後景化したようにも見える。
多様性と自由を訴え、「私たちは後戻りしません」とトランプの対決姿勢を見せたカマラ・ハリスの演説はもちろん、初の女性大統領を後押しし、聴衆の感心を集めたのがヒラリー・クリントンのスピーチだった。女性大統領誕生の夢を、世代を超えてつなぐ女性たちのバトン。『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る』でアメリカ社会の前向きな変化をつづった小児精神科医の内田舞さんが民主党大会の名場面を振り返る。
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ソーシャルジャスティスはタイパもコスパも悪い?
先日、日本におけるソーシャルジャスティスの運動はコスパが悪い、タイパが悪い、成功体験がないから冷笑の的になるという発信を目にしました。”ソーシャルジャスティス”は日本ではあまり耳なじみのない言葉かもしれませんが、ジェンダーや人種など属性に関係なく誰もが平等に扱われる社会を夢見て、その変化に向けて働きかける運動やモーメントのことです。
私は昨年『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る』という本を出版しました。それから一年経った今年の春、日本に帰国した際、この一年で日本の状況が何か前向きに変わっただろうかと考えたとき、特に女性をめぐる社会的状況にさほど大きな変化は見られずに少し寂しくなりました。しかし、そこで編集者の鳥嶋さんが言ってくれた言葉が、「『高校生のときに『ソーシャルジャスティス』を読んで、世界観が変わりました』と将来言ってくれる大人が現れるかもしれない。本から何かを受け取った読者が10年後の日本社会を大きく動かしているかもしれない」ということ。
まさに本書のなかでも私自身がこう書いているのです。
ネットコミュニケーションなどでは短い会話が瞬間的にヒートアップすることが多く、そこで何かしらの決着をつけようと延々と応酬が連鎖しがちですが、議論はそこでは終わるものではありません。その場での議論への賛同の有無で何かが決まるわけではなく、また決して勝ち負けの問題でもありません。それに、Black Lives Matterのムーブメントが数年の時を経て大きなうねりとなったように、ときには世代を超えた長期のスパンで多くの人が関わった議論が社会を少しずつ前進させることもあるのです。
変化が目に見えて生まれるまでには「時差」が必要なこともあります。現代社会においてはタイムリーな情報が行き交うテクノロジーが確立されています。「時差」をなくそうとすべてを「同期」させるようにシステムが設計されているため、私たちの思考もその速度に引きずられがちですが、ときにはその「同期」をあえてずらしてみることも大切かもしれません。今すぐに伝わらないことがあっても、もしかしたら心の中にまかれた種が時を経て芽を出し、変化を生む触媒になるかもしれない。一つ一つの議論や問いかけが未来へのインベストメントになっていると私は信じています。
「ヒビを入れたガラスを破って!」ヒラリー・クリントンの応援演説
変化が目に見える形に表れるのには時間がかかるが、はっきり見えない変化を起こしている活動や議論の一つ一つに大きな意義があることを実感させられた瞬間が、先日ありました。アメリカ大統領選に向けた民主党全国大会初日のヒラリー・クリントンの演説です。
4年に1度、11月に開かれるアメリカ大統領選に向けて夏に開かれる民主党大会とは、大統領、副大統領の指名候補を選出する際に開かれるもので、指名を受けた候補者がスピーチを行う。会場には民主党を支持する著名なスターや前大統領、前大統領候補などがゲスト参加し、スピーチやパフォーマンスを行うこともあります。
カマラ・ハリスが大統領候補の指名を受けてスピーチをしたのは党大会の最終日の8月22日。その前日には現大統領のバイデン、オバマ前大統領やそのファーストレディのミッシェル・オバマなどの応援演説が行われました。それに続いたのが「ヒビを入れたガラスを破って」とスピーチしたヒラリーの演説でした。
敗れた事実を受け入れたヒラリーからカマラへのバトン
2016年の大統領選でアメリカの州ごとに選挙人制度によって、トランプ大統領に敗れたものの、獲得票数はトランプよりも200万票以上も高かったヒラリー。1993年、夫のビル・クリントンが大統領に就任した際、弁護士として特に貧困や犯罪率の高い地域の子どもや家族を支える活動をし、さらに病気やケガをしたときには国民誰もが医療を受けられる国民皆保健制度を作ろうとした。そして新しいファースト・レディの姿を示し、大きな批判を受けながらも、世界中の女性に「あなたは、あなたがなりたい人になってよい」と背中を押してくれたヒラリー。
2008年に対オバマ、2016年に対トランプで大統領選に出馬し、数々のバッシングにあいながらも初の「米国大統領になりそうな女性」、その将来の可能性を見せてくれもしました。どんなに敗れた体験が重なっても国務長官として活躍し、アメリカの国政と外交に身を尽くし、「アメリカのためにやらなければならない仕事があるから」と邁進したヒラリー。
彼女は間違いなく、アメリカ初の女性大統領になるはずだった、なるべきだった人だ。「もし彼女が大統領だったら……」と、考える人は少なくないものの、彼女自身もそんな過去の可能性に思いをはせていると発言することもあった。
しかし、そうはならなかった事実を受け入れて、2024年8月19日、ヒラリーはカマラ・ハリス副大統領をアメリカ初の女性大統領にするために、ヒラリーはスピーチをしたのです。
女性大統領の誕生を信じてーー「ガラスの天井の向こう側、夢見た未来が今なのだ」
「私の母が生まれた頃には女性は投票権すら持っていなかった。
しかし、104年前、状況が変わった。女性たちが選挙で投票する権利を勝ち取った。女性の投票権を認可するかどうかについて議論が進まなかったテネシー州で、ある議員のお母さんが『これ以上、”その日”を延ばさないで。私たちに投票権を与えなさい』と息子に手紙を書いたという。その日から、後に続く世代が次から次へとバトンを繋いで社会を前進させた。
1972年にはシャーリー・チザム(Shirley Chisholm)という勇敢な黒人女性が初めて大統領選に立候補し、働く親、貧困に苦しむ子どもたちのために闘った彼女は、私たちにもっと大きな夢を見てもいいと教えてくれた。
1984年、女性として初めて副大統領候補になったジェラルディン・フェラーロ(Geradine Ferrero)に、私は娘と会いに行った。ジェリーは「できるよ。私たちにはなんでも!」と言ってくれた。
そして2016年。私は主要党初の女性大統領候補になりました。6600万人もの人が投票した。誰かの能力が性別などの属性で制限される『ガラスの天井』がなくなる未来を信じて。その後も我々はその未来に向けた夢を諦めなかった。
(何百万人もの人が)マーチをした。 (町から国の議会まで、多くの女性や有色人種、性的マイノリティの方々が)立候補した。未来に目を向けて、信じて。皆さん、その未来は今なのです。
(中略)
私たちは共に「ガラスの天井」にたくさんのヒビを入れることができた。そして私たちはもう少しでその天井を突き抜ける大きな穴をあけられそうなところにいます。私にはそのヒビの入った天井の向こう側が見える。自分の健康や人生、誰を愛するか、家族に関する選択を自由にできる世界が見える」
この言葉に涙が溢れました。
主人公は一人ではない。ヒビの一つひとつに意味がある
ここでガラスの天井を割るように見えるのはカマラ・ハリス大統領かもしれない。歴史に初の女性アメリカ大統領として名を残すのはカマラ・ハリスかもしれない。けれど、今までもヒラリーを含め、たくさんの女性たちの奮闘とその女性たちをサポートする男性たちの応援によって天井に少しずつヒビが入ってきたからこそ、実際にそれを割ることが可能になりつつあるのです。
ヒラリーがいなかったら、カマラ・ハリス大統領が誕生する可能性は限りなく低く、彼女が数十年をかけてたくさんの傷を負いながらも、女性が大統領になる道があるという可能性を見せてくれなければ、今のカマラへのサポートもなかった。そのクレジットをほしいと思わないわけはないのに、それ以上に次の世代が自分の世代が成し得なかったことを実現できるようにと、全力のサポートを込めてバトンを託すヒラリーの姿は限りなく美しかったのです。
私はこの姿に、コスパやタイパなどの言葉は使いたくありません。リベラルな運動は、短期的には「成功」という結果を伴わないように見えるかもしれない。叶わない理想のように聞こえることもあるかもしれない。しかし、もっと長い目で見れば、実はたくさんの結果を出しているのです。その多くは目立たないもので、必ずしも祝われないものであることは確か。しかしその一歩一歩の前進、あるいは一個一個のヒビが入ることがなければ天井は割れることができない。そのヒビの一つ一つに大きな意味があると私は思います。
変化には長い時間がかかるーー夫婦別姓をめぐる同級生との会話
例えば、その一つに夫婦別姓に関する議論があります。日本で話題のNHK朝の連続ドラマ「虎に翼」でも夫婦別姓がテーマになった回が放映され、寅子と寅子のパートナーである航一は寅子の姓を変えないために事実婚を選択するというストーリーが展開し、今もなお夫婦別姓制度が実現しない日本の現状、政治状況を照らす内容になっていたと聞きました。私の著書の中でもまた、夫婦別姓に関する議論が時代と共に変化してきたことにも言及しました。高校の同窓会で、同級生と夫婦別姓について忘れがたい、印象的な会話を交わしたのです。
数年前、同窓会があった際、同級生の男性が駆け寄ってきて、私に質問をしました。「ねぇ、内田さん、ずっと聞きたいと思ってたんだけど、内田さんの夫婦は別姓?」。突然の質問にびっくりしましたが、「うん、別姓だよ」と答えると(日本でも国際結婚の場合は別姓が認められます)、その男性は「すごい、感動した!」と笑顔を向けて、私になぜその質問をしたかを説明してくれたのです。
1998年、私達が高校一年生のホームルームの授業の一貫で様々な社会の議題に関してディべートをする授業があり、その一つのテーマが夫婦別姓でした。ディべートの後、クラス全体でディスカッションする際、将来結婚した場合、自分は別姓にするか同性にするかという質問に対して、クラスの中で私一人だけが「別姓」と答えたそうでした。同級生に言われるまでは忘れていましたが、言われてみるとその授業のことが鮮やかに蘇りました。クラス内の議論の中で「別姓だと子どもがかわいそう」「別姓だと虐められそう」という不安が多く意見としてあがった一方で、私がアメリカで過ごした幼少期の友達の多くが別姓家庭であったこと、友人の親が別姓だったのを気にしたことがなかったこと、また、自分の氏名に宿るアイデンティティを結婚を機に捨てなければならない理由はない、キャリア形成においては改姓しない選択肢があることがいかにありがたいかなど、長々とスピーチをしたのを思い出しました。その同級生は、今でこそ夫婦別姓に関する議論を日常的には耳にする機会が増えたものの、そうではなかった当時の日本で、クラスで一人だけ別姓を支持した私が、本当に20年後に別姓で結婚をしていたことに感動したと笑顔で話してくれました。
この同級生との会話を機に、今すぐに賛同を得られないことであっても、あるいは今は発言することで強い風当たりにさらされてしまうことがあっても、時代と共に人々の認識も変わり、長い時間を経て新しいコンセプトが理解されることもあると実感したのです。そして、未来へのインベストメントのためにさまざまな議論をすることに意義があると考えるきっかけにもなりました。この同級生との20年を介した会話にとても感謝しています。
「さあ、お気に入りの靴を履いてください!」
今アメリカで言われているフレーズで気に入っているものがあります。
「女性の皆さん、お気に入りの靴を履いて下さい。11月にはガラスの天井が割れて、床がガラスだらけになりますよ」
実際このフレーズはいまアメリカでちょっとしたバズワードで、街中にこのフレーズを印字したビラが貼られたりという光景を目にするようになりました。今はまだ女性をはじめ社会での活躍を阻む目に見えない「ガラス」の存在を突き破れず、もどかしい思いをしている人が少なくないかもしれません。アメリカも例外ではありませんが、その破片が世界中に飛んでくれることを祈っています。日本の皆さんも、是非お気に入りの靴を履いて下さい。
そしてそんな破片を見つける度に、何世代にもわたってその瞬間を可能にした人々の努力、隠れた「成功体験」の一つ一つに感謝したいと思うのです。
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