「人にはそれぞれ、行き着くレベルがある。すぐに伸びる人。ゆっくり伸びる人。いろいろいるよ。でもね。みんなそのうちプラトー(停滞期)になり、必ず壁にブチ当たるんだ。
この壁をすぐ乗り越える人。なかなか乗り越えられない人。やっぱりいろいろいるよ。この時期が長いか短いかで差が付いていく。でも必ず乗り越えられる。どうしても乗り越えられなかった人は、その高さで生きる人だったんだよ。人生はうまくできてるね」
東邦大学医学部の伊藤隆太教授には、さまざまなご指導をいただいたが、こんなお話が心に残っている。
人生には、大きな波がある。大きな志を持つ者には、必ずこれがやって来る。小さな波は何とかなるが、大きな波はそうはいかない。いい波なら、流れに乗って頑張ればいい。結果が伴うときだから、逆らわずに進めばいい。このときに大切なのは、決して得意にならないこと。謙虚であること。そして、順調なときだからこそ慎重に生きることだ。
反対に、どう抗ってもうまくいかない大波も来る。四面楚歌で理不尽で、いろいろと活路を見いだそうとするが、もがくほど深みにはまっていく。
実は、このときこそが人生最大のチャンスなのだ。自分自身を振り返るとき、人生で本当に大切なのは、こうした時期だったと痛感する。困難をどう受け止め、どう活かすかによって、その人の価値や人生は大きく変わる。
何もしたくないこの時期に、力を蓄えておくことが大切だ。自分を信じて、自分に投資し、能力を高め、根を生やしておくのだ。そのための、静かなそして深い時間なのである。これは本当に辛い。先も見えないこのときに、何のためになるのかと思うことだろう。何度も何度も、何をしているのかと思うことだろう。
ところが不思議なことに、そこから微かな希望が見えてくる。もうダメだと諦めていても、必ずチャンスは訪れるのである。しかし、どん底のときに自分に投資して力を付けておかないと、このチャンスに気が付くことができない。そして、たとえ気付いたとしても、実力が備わっていないと摑むことができないのである。
2年続けて主任試験に落ちていなければ、私は医学博士を取得していなかっただろう。そうすると毒物の専門家にならず、オウム事件にも関わらなかったかもしれない。科学捜査官になることもなく、人生は全く違うパラレルワールドになっていたに違いない。最終的にたどり着いた捜査支援の仕組みも、いまのような形になっていなかったはずだ。
運がよかったといえばそれまでだが、若き日に「人生の生き甲斐」を教わり、責任を持って、自分に正直に生きてきた。いつも誰かに助けられ、導かれて、いまがある。
人生は、やり直せるようにできている。多くの人が生き甲斐を持ち、それぞれの責任を全う出来ればと願ってやまない。
やはりお世話になった後藤田のおおおやじからは、
「君ねぇ。国家、社会のためにどうするんかを、常に考えにゃあいかんよ」
とよく言われた。中曽根内閣の官房長官時代、官僚に心構えを説いた「後藤田五訓」を思い出す。
・省益を忘れ、国益を想え
・悪い本当の事実を報告せよ
・勇気をもって意見具申せよ
・自分の仕事でないと言うなかれ
・決定が下ったら従い、命令は実行せよ
もっともご本人は、
「ああ、あれなぁ。わし、よう覚えとらんのじゃ」
と、目を細めて笑っておられたが。
どん底のとき、妻は私にこう語りかけた。
「いろんな事件や事故の、たくさんの犠牲者や被害者の無念を晴らすために、夜も寝ないで働いて、社会のために頑張ってきたんだから。どんな状況になっても、ずっと見ていてくれてるよ。いろいろな事件の被害者が、みんなそばに付いてるから大丈夫だよ」
犠牲者や被害者やその関係者の思いは、事件の軽重では計れない。
本書は、大波に何度も洗われた警察人生を振り返り、その時々に悲しかったことや嬉しかったこと、いろいろな人との出会いをまとめたものである。この本を書くことを決意したのは、最後の長い「どん底」にいたときの都筑刑事総務課長の言葉だった。
「服藤さんがいままで何をしてきたか、私は側でずっと見てきたからよくわかる。服藤さんと一緒にオウム事件とその後の人生を過ごした人たちは、卒業した先輩を含めてみんな知ってるよ。
だけど人は勝手だから、都合のいいように話を作ってしまう。服藤さんが成し遂げてきた成功を、自分がやったように言う人もたくさん見てきた。だから服藤さんは、自分がしてきたことを、事実として歴史に残したほうがいい」
科学は多数決ではない。そして噓をつかない。科学と捜査を融合させて「真の科学捜査」と「捜査支援」を日本警察に確立することが自分の人生であると信じ、推し進めることが私の使命だった。
宮仕えから解かれたいま、組織の枠を超えた考えや構想が、次々と頭に湧いてくる。現在の私は、官と民による社会の安全と安心の仕組み作りのため、重い扉を開くための情熱を取り戻しつつある。(以下略)
今回の文庫化に際しては、内容は原則的に単行本出版当時のままとし、加筆・訂正は必要最小限にとどめた。(以下略)
いつも傍で私の人生を支え続けてくれた妻と、私の志を継いで検察官の道を歩み始めた息子に、深く感謝しつつ筆を置く。
「あとがき」より
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