〈“読んでもよくわからない”ウェブ記事はなぜ増えたのか? ノンフィクション作家・石井光太が考える「伝える技術」〉から続く
虐待家庭の子どもたちから社会のアウトローたちまで、社会の境界で生きる人々を数多く取材してきたノンフィクション作家・石井光太さんが、自身の取材・執筆の方法論を初めて明かした新著『本を書く技術』を上梓した。心を閉ざした人々から本音を「聞き出す」驚きのスキルとは?
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いかに「語りたくなる」場をつくるか
――石井さんはこれまで、事件の加害者や裏社会で生きてきた暴力団、薬物依存の若者たちなど、一癖も二癖もある人たちに取材してきました。普通ならメディアにまず出てこない人々からどうやって本音を聞き出しているのでしょうか。
石井 まず最初に一般的な誤解を解いておくと、「取材で危険な目にあわないんですか」とよく聞かれるんですが、身の危険を感じたことは一度もありません。犯罪者だろうと薬物依存者であろうと、みんな1対1で会ったらごく普通のひとりの人間です。本当に危険だったら、私なんてとっくに死んでいますよ(笑)。
ヤクザだから怖いとか、人殺しだから怖いとか、そういうバイアスを持たずにひとりの人間への素朴な信頼を出発点にしています。こちらのおびえや警戒心は相手にもすぐ伝わりますから。その上で肝心なのは、その人が「語りたくなる」場をどうつくるかに尽きると思います。
――具体的にはどういうことでしょうか。
石井 社会の底辺だったり外側で生きてきたような人は、それまでの人生で自分の体験や感情を否定され続けてきたので、なかなか胸襟を開いて語りたがりません。本音を親に言えば叱られるし、学校で話せばドン引きされるし、警察で話せば罪が重くなるだけなので、自分の話に価値があるとは思っていないんですね。
だからこそ、そういう相手に話を聞く時は、「あなたの体験には社会的に意味があるんです」ということを誠実に伝える必要があるのです。
たとえばある青年が下着泥棒や盗撮をくり返して捕まったとしましょう。こうした性的な逸脱行為は、劣悪な環境からくる女性への歪んだコンプレックスや、自尊心の乏しさといったものが、相手への支配欲となって引き起こされることがしばしばあります。女性の下着などの秘密を握ることによって、あたかも自分が大きな存在になれたと錯覚するわけです。
そんな相手に単に「下着泥棒」のことを教えてくれと言っても話してくれないでしょう。しかし、あなたがなぜ大きな劣等感を抱え、そこから歪んだ行動にでてしまったのかのプロセスを教えてほしい、そうすれば世間の性犯罪の認識が一段深くなるかもしれないし、同じような苦しみを抱えている人にとって新たな気づきとなるかもしれない、と伝えるのです。
すると当人にしたら、苦しい自分の体験や、愚かでしかないと思っていた行為が、社会にとって意味のあるものにできるのだ、だとしたら自分の存在や今までの苦しみは無駄じゃなかったんだと感じ、語りだすようになります。そういう“社会化”の出口をこちらがうまく用意することが「語りたくなる」契機となります。
薬物使用の体験を次々と明かした少女
――非常に興味深いですね。心理的安全性を担保すると同時に「社会化」という道を提示するアプローチは。
石井 社会の外側で生きてきた人も、わかってくれる人がいるなら本当はしゃべりたいんです。本でもふれましたが、ある女子少年院で覚醒剤の使用で逮捕された少女に取材したさい、法務教官はじめ周りの大人たちに決して語らなかった薬物使用の体験を彼女は次々と明かしてくれたので、関係者に大変驚かれました。
私は「覚醒剤ってそんなに気持ちいいんですか。全然知りませんでした。それを読者が知ったら覚醒剤をやめられなくなる理由がわかるし、覚醒剤に対する考え方も変わりますよね。他のクスリはどうなんですかね?」と同じ目の高さで、社会から見たときの驚きを返していただけです。違法行為そのものは肯定しない。でもその出来事や状況への素朴な驚きや発見を素朴に伝えていく。
人は、責められたり、ジャッジされたりすることなく、自分の話に価値があるんだと感じられるとき、本音を語ってくれます。
――それって取材にかぎらず、相手の本心を聞き出す技術として普遍的なことかもしれませんね。
“相手の話を深く引き出す”普遍的なコツとは?
石井 そう思います。たとえば大人が子どもの本音を聞くことにしばしば失敗してしまうのは、事実関係を並べて問い詰めがちだからなんですね。理詰めで質問しても、心の内は明かしてくれません。
そもそも「社会に出ている事実」と「その子にとっての事実」は違う。私なら、同じ事実確認をするにせよ、「こう言われているけど、それってホントは違うんじゃないの?」とあえて逆の言い方をして、その子が見えている現実を引き出しますね。
相手の話を深く引き出すもうひとつの普遍的なコツは、聞き手の「当事者性」を示すことです。高みの安全圏からではなく、同じ地平に立ち、体験の中身こそ違えど同じような苦しみや迷いを抱えた人間であることを開示する。
たとえば、私がいじめ自殺事件を取材したときは、小学校の低学年のときにいじめられていた体験を話しましたし、8050の事件を取材したときは、自分の遠縁にひきこもりの中年がいることを打ち明けました。元浮浪児のお年寄りにインタビューした時は、20代の頃にアジアのスラム街で戦災孤児と一緒に暮らした話をしました。
この人も同じ当事者なんだと感じてもらえたときに、人は心を開いて語り出すというのは、大人でも子どもでも共通することではないでしょうか。
――わかります。当事者性があってこそ、そこで投げかけられる言葉に上っ面ではない重みが宿る気がします。
身を切った当事者性から生まれる説得力
石井 それは優れたノンフィクションにおいても、同様のことが言えると思います。作者が自分の身を切って当事者性を開示している作品は、深く心に刺さります。
例えば、柳田邦男さんの『犠牲 わが息子・脳死の11日』は柳田さんの次男・洋二郎さん(当時25歳)が首つり自殺を図り、11日間にわたって脳死の状態がつづいた末に亡くなったことを描いた作品です。
父としてすでに当事者なのですが、柳田さんは自殺の要因となった息子さんの苦悩を描き出すにあたり、自分の失態や家庭の事情も赤裸々に明かしています。妻が心を病んで寝たきりになっていたこと、それゆえ家庭が機能不全に近い状態になっていたこと、自分が洋二郎さんの気持ちを理解できておらず、時には横暴な言葉を投げつけていたことまで開示しているので、同じ弱さを抱えたその筆致に、異様な説得力が宿ります。
高みの見物から書くのではなく、同じ地平で苦悩しているからこそ、テーマを深く掘り下げていけるのです。
辺見庸さんの『もの食う人びと』もその優れた例でしょう。飽食の日本で、「わがまま放題で」「万事に無感動気味の」自分の舌と胃袋が気に食わなくなった辺見さんは、世界各地にわけいって、残飯から、猫用缶詰、囚人食、放射能汚染スープまで現地の人々とともに食べて、さまざまな話を聞きつつ、日本人とは何なのか、戦争の記憶とはなにか、徹底的に考えていく。何でも食うという当事者性を通して、人間にとっての食という根源的なテーマを突き詰めたこの作品は読み手の五感に深く食い込んできます。
――本書は、取材・執筆の実践的なスキルとともに、さまざまな一流のノンフィクション作品についても触れていますね。
石井 私は先人たちのすぐれた仕事から多くのことを学んできました。社会の諸問題に向き合ってきたノンフィクションの技術は、聞き出す力も含めて、生きる武器そのものとも言えます。自分とは異なる他者と深いコミュニケーションをとるスキルや、あるテーマを社会に広く説得力をもって伝わるものにするための構成力・表現力は、複雑な現代社会を生きていくうえで心強い味方になってくれると思います。
本書がみなさんのお役に立てれば、これほど嬉しいことはありません。
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