- 2024.12.19
- 読書オンライン
オーディションを3回もバックれた“ワル哉くん”だったのに…木村拓哉(52)が“日本で最も数字を持つ男”であり続けているワケ
霜田 明寛
『夢物語は終わらない ~影と光の“ジャニーズ”論~』より#3
〈「ま、一言で言っちゃうと商品だよね」大ブレイクの最中だったのに…20代の木村拓哉が「キムタク」呼びに示した“嫌悪感”の意味〉から続く
30年来のジャニーズ(現STARTO ENTERTAINMENT)ファンであり、『ジャニーズは努力が9割』(新潮新書)の著者でもある霜田明寛さんが、2023年の一連のジャニーズ性加害問題以降に感じてきた葛藤と思いを込めた『夢物語は終わらない ~影と光の“ジャニーズ”論~』(文藝春秋)を上梓した。
ここでは同書より一部を抜粋して紹介する。ジャニーズ事務所のエージェント制への移行が発表された後、真っ先に事務所が契約に向けて動いている旨が発表されたのが木村拓哉だった納得の理由とは――。(全3回の3回目/最初から読む)
◆◆◆
SMAP解散後の“原点回帰”
ここで2022年には50代に突入した近年の木村拓哉について見ていこう。
もともと、SMAPの他のメンバーのように個人でのバラエティ番組がなかった木村は、解散後、必然的に俳優業がメインとなった。さらに2020年からはソロでの音楽活動も始動させ、アルバムを出しコンサートも行っている。楽曲は山下達郎や森山直太朗、Dragon Ash・Kjの提供曲や、鈴木京香や明石家さんまといった木村への理解の深い人物に詞を提供してもらったものなど、組む相手を選ぶ時点から作り込まれた印象だ。楽曲提供をした久保田利伸は「人生観まで声に乗せてくれた」と木村の表現を絶賛している(※1)。
だが、アルバムの発売に際しては、SMAPの頃には当たり前のようにされていた、発売時期に行われる歌番組への出演なども抑えられ、過度なプロモーションはされない。商品というよりも“作品”に近い届け方になっているのだ。
2022年の『ぎふ信長まつり』では、1万5000人分の立ち見の観覧席に、96万6555人が応募し、当日の木村拓哉扮する信長の行列に熱狂する様子が大きく報じられた。50歳を目前にしても“キムタク”はまだキャーキャー言われる存在なのだ。休日に岐阜にまで足を運び、木村を生で見たいと考える人間が少なくとも約100万人はいる。芸能界に生きる木村拓哉=キムタクは未だに支持されている。
“キムタク”のブランドはなおも健在で、そこに頼る企業は多い。2022年10月時点での木村のCM契約社数は9社。この数字は当時の全ジャニーズタレントの中でトップだった。1996年2月時点では5社だったことを考えると、この四半世紀、様々なブランドの顔を務め続けた上で、なお増えていたのである。
その一方で、近年の木村は、作品を作るのは「すべてのスタッフとの共同作業」(※2)と話す。主演映画の舞台挨拶などでも「俳優部のひとりとして……」と、あくまで自分は作品の一部であるという言葉の選び方をしたり、2023年には月9ドラマの会見で「月9ってもう言わなくても……」とフジテレビの“月9煽り”に苦言を呈したりと、作品づくりにより邁進しようとする姿勢が垣間見える。
「自分を数字にしてしまったら、それでおしまいだから」
木村拓哉は96年の『ロングバケーション』以降、フジテレビのドラマの看板枠である「月9」の主演を11回と、最も多く務めてきた。平成の連続ドラマの視聴率トップ5は全て木村の主演作である。『HERO』ひとつとっても、11話全てが視聴率30%超えという日本の連ドラ史上唯一の快挙を遂げており、劇場版の興行収入は81.5億円……など、木村を表す記録的な数字は多く存在する。日本の芸能界で最も数字を持つ男と言ってもいいだろう。
だが、近年の発言にふれると、自分たちが力を結集して創り上げた作品に対して、ずっと「月9」のような商品的な煽りをされることや、自身が芸能界の真ん中のような表現をされること、視聴率のみでその成果をジャッジされることなどに抵抗があったのではないかとも思う。
木村が数字について語るときは「自分を数字にしてしまったら、それでおしまいだから」(※3)といったように、不思議と“終わり”を示す言葉とセットになる。50歳を迎え、こうも語っている。
「数字はテレビ局や映画会社の人が気にすること。俺、そこじゃないもん。そこを追っていたら…(中略)もう辞めてんじゃないですか」(※4)
最も数字を持つ男は、数字を追わない男でもあるのだ。
エージェント契約1番手だった納得の理由
そもそも、木村拓哉は3回も“バックれ”たあとに、4回目にしてジャニーズのオーディションを受けている。当時を“ワル哉くん”だったと振り返る(※5)青年だった。
そんな“ワル哉くん”は、1989年、当時17歳の頃にジャニー喜多川に蜷川幸雄のもとに連れて行かれ、初舞台を踏んだことで開眼する。厳しい指導で10円ハゲができて白髪が生えたほどだったが(※6)、50代になってターニングポイントを聞かれても、ヒットしたドラマではなく、この舞台をあげる。「蜷川幸雄さんの指導で、拍手をいただけることがどれだけすごいことか。舞台に上がることがどれだけ大変か。初めて理解できた」(※7)という。「そこでスイッチが入った」「経験していなかったら、たぶん(今の活動を)やっていないと思います」(※8)と語るほどの、重要な仕事である。
芸能界で大活躍することになる木村拓哉も、仕事に本腰を入れるきっかけは本物の“芸事”に触れた瞬間にある。その後、芸能界で大ブレイクしてしまう木村が、蜷川幸雄の舞台を踏めたのは、その最初の一度きりである。そんな木村拓哉にとって、近年の動きは本来いたかった場所に回帰しようとしているようにも見えるのである。
木村拓哉は長きにわたって商品としての自分の勢いを継続させながらも、作品を届けようとしてきた。自分が自分の生産者。23歳のときの発言が、今より説得力を持って響く。
そして、エージェント制への移行によって「並べて売るのは事務所」ですらなくなるかもしれない状況がやってきた。ここまで述べてきた通り、そのプロデュース能力とはかなり相性がいいものではあるが、むしろ完全に独立してやるタイプだと思う人もいるかもしれない。だが、その選択肢を木村は取らなかった。
糸井重里は、木村拓哉が二十歳の頃に、「自分の強さはなんだと思う?」と聞いたことがあったという。そのときに木村は「ジャニーズ」と返し、こう付け加えた。
「ジャニーズじゃなかったら僕はなんでもない」(※9)
自分が生産者であるという強い意識を持ちながらも、自分を客観視することができる。これだけの実績を出しながらも、全てを自分の実力だと認識していない―。その自分を売る事務所の強さも認識し、感謝の意を持つ。意志の強さと謙虚さの絶妙なバランスの上に、木村拓哉は成り立ってきたのだ。ジャニーズ事務所のエージェント制への移行が発表された後、真っ先に事務所が契約に向けて動いている旨が発表されたのが木村拓哉だったのも頷けるのである。
《出典》
※1 TOKYO FM『木村拓哉 Flow』2024年8月11日放送
※2 「AERA」2023年1月23日号
※3 「週刊SPA!」2004年1月13日号
※4 「スポーツ報知」2023年1月1日
※5 TOKYO FM『木村拓哉 Flow』2021年11月21日放送
※6・7 「スポーツ報知」2023年1月1日
※8 TBS『日曜日の初耳学』2023年1月22日放送
※9 「MEKURU」VOL.7
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