阿部智里「八咫烏シリーズ」最新刊発売を目前に前段『楽園の烏』第一章を全文無料公開!
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累計240万部を突破し、NHKアニメ『烏は主を選ばない』の原作ともなった、阿部智里さんの大人気和風ファンタジー「八咫烏シリーズ」。待望の最新刊『亡霊の烏』が、2025年3月26日に発売されます。
今作の時間軸は第2部1巻『楽園の烏』の後、いよいよ物語が先に進みます。人間界から安原はじめの来訪を受けて、山内に起こった変化と新たな事件とは――新作をより楽しむためにも、どうぞ『楽園の烏』をお読みいただければ幸いです!
八咫烏シリーズ 巻七
『楽園の烏』
阿部智里
民法総則
第三十条【失踪の宣告】
不在者の生死が七年間明らかでないときは、家庭裁判所は、利害関係人の請求により、失踪の宣告をすることができる。
2.戦地に臨んだ者、沈没した船舶の中に在った者その他死亡の原因となるべき危難に遭遇した者の生死が、それぞれ、戦争が止んだ後、船舶が沈没した後又はその他の危難が去った後一年間明らかでないときも、前項と同様とする。
第三十一条【失踪の宣告の効力】
前条第一項の規定により失踪の宣告を受けた者は同項の期間が満了した時に、同条第二項の規定により失踪の宣告を受けた者はその危難が去った時に、死亡したものとみなす。
第一章 逃避行
山を相続した。
現行法において、これから百年は固定資産税を払えるだけの維持費のおまけつきである。
それを告げられた時、安原はじめの口から飛び出たのは「ひえー」というやる気のない悲鳴のみであった。
「あのジジイ、マジかよ。一介のタバコ屋のおっさんには荷が重いわ……」
実家の居間である。
帰って来るのは何年ぶりになるだろう。金持ちの家を体現したような住まいは、昔と何も変わっていないように見える。
ピカピカに磨き上げられた一枚板のテーブルを囲む母と兄姉は、この場にふさわしくきちんとした恰好をしている。一方、白磁のティーセットが収められた飾り棚のガラスに映りこんでいる自分といえば、伸ばしっぱなしのワカメのような黒髪に、無精ひげの浮き出た顎、眠そうな垂れ目、首まわりがぶよぶよになったTシャツにジャージのズボン姿だ。咥え煙草とごつい金のネックレスも相まって、自分で言うのもなんだがめちゃくちゃに柄が悪く見える。
服装について注意されたわけではないが、この場にいるだけでも蕁麻疹が出そうである。
十年前、生前贈与で貰える分は既に貰っている。今頃になって渡される遺産になど興味はなく、ただ遺言書が開かれるというので興味本位にやって来ただけなのだ。さっさと帰りたいなぁと思っていた矢先、突如として知らされた遺産の存在は、はじめを大いに困惑させた。
「お父さんがお前を名指ししたからには、きっと何か意味があるはずですよ」
着物姿の老母が言えば、スーツ姿の次兄も深々と頷く。
「変人ではあったけれど、意味のないことをする人じゃなかったしね」
「四の五の言わないで受け取りなさいよ。あんたの将来を心配して、保険のつもりだったのかもしれないし」
強い口調で続けた姉に、いやいや、とはじめは片手を振る。
「金ならともかく、今どき山なんか二束三文にしかならないんじゃねえの」
よう知らんけど、と言い終わるのを待ち構えていたように、相続手続きを一手に任されているという弁護士が口を開いた。
「すぐ隣に湖があり、温泉も近くにあります。別荘地としてロケーションには恵まれており、バブルの頃には小規模なスキー場を設けてレジャー施設を作ろうという話もあったようです。最近は近くに県道も開通しましたので、二束三文ということはないと思いますよ」
ほら、と姉は勝ち誇った顔を向けてきた。
「逆に訊くけど、オニーサマオネーサマはそれで納得していらっしゃるんです?」
処理の仕方を間違えなければ一財産にはなるのだろうし、維持費として用意された現金だけでもかなりの額なのだ。こういった場合、相続争いに発展するのが世の習いであるが、幸か不幸か、安原家は世間一般とはかけはなれた金銭感覚の持ち主ばかりであった。
「あいにく、お前に財産を遺してやりたかったお父さんの気持ちはよく分かるんでな」
父の事業を一部受け継いだ長兄が嫌味っぽく笑う。
「私達は、お前と違って食うに困ってはいないんだ。心置きなく受け取りなさい」
「いや、俺だって別に食うに困っているわけじゃないんだけど」
「今の生活じゃ、明日にも一文なしになっていておかしくはないだろう」
「ショックですわー。俺、そんなふうに思われてたの?」
確かに趣味こそギャンブルではあるが、身を持ち崩すほど負けてはいないし、金の無心をしたことだってなかったはずだ。
「これでも、まっとうに生きて来たつもりなんですけどね」
小さく不満を漏らした瞬間、我慢ならぬといったように姉と次兄が声を上げた。
「それは、生前贈与の分が残っている間だけでしょ!」
「誰にも相談せずに大学を辞めて、いつの間にか廃業寸前のタバコ屋を買い取っていた人が言えたことじゃないかな?」
私達がどれだけ驚いたか、ちょっとでも想像したことがありますかと言う次兄の目は笑っていない。
「お母さんが貧血を起こして倒れたこと、忘れたとは言わせませんよ」
「あの時は本当にびっくりした」
しみじみと言う年老いた母に、「いやはや、ぐうの音も出ねえな」とはじめは頭を搔く。
安原家の人間は、全員血が繫がっていない。
資産家であった父のきまぐれで養子に取られた四人きょうだいである。しかし、はじめとは親子ほどに年の離れた三人の兄姉は、経営者の才能に恵まれている点において非常によく似通っていた。
姉と次兄がそれぞれ会社の経営者となり、ゆうに二十年は経っている。長兄が父から継いだ事業もあわせて、いずれの業績もこの時代にあり得ないほど堅調であり、子ども達も大変優秀であると聞いている。
はじめも経営者と言えば経営者だが、レトロ風ではなく実際にレトロな店舗の売り上げと、雀荘に置いた自販機だけがまともな収入源であった。ちなみに、はじめはとっくに三十路を過ぎているが、依然として独身貴族の身分を謳歌している。
ふと長兄が「俺には、お前が何を考えているかさっぱり分からん」と呟いた。
「せっかく買い取った店も放ってあちこちふらふらしているそうじゃないか。貯蓄もろくすっぽ出来ていないのに、将来への危機感が全く感じられん。いつお父さんの二の舞になるかと、こっちは気が気じゃないんだ」
「はあ」
「お父さんから、悪い影響を受けたのは分かる。お前にばかりあのお父さんの相手をさせてしまったことを、申し訳なく思ってもいる」
「ひでえ言われようだな、おい」
親父は極悪人かと茶化すべきかと思ったが、養母までもが「そうよねえ」と同意するので喉まで出かけた言葉も引っ込んだ。
そんなはじめを、長兄がぎろりと睨む。
「――だが、それとこれとは話が別だ。この際だからはっきり言わせてもらうが、今のところ私達の頭を悩ませているのは会社の将来でも子ども達の将来でもない。お前の将来だ」
とにかく、我々に父さんの遺産は必要ないと長兄は断言し、次兄と姉も同時に頷いた。
このブルジョワめとはじめは毒づく。
「ウチの常連の社畜共の声を聞かせてやりてえよ」
「社畜の皆さんだって、遺産だけで一生食っていこうとしているお前にだけは言われたくないだろうよ」
話し合いがあらかた決着したのを見て取り、なりゆきを生温かく見守っていた弁護士が再び口を開いた。
「それでは、お父さまの遺言どおり、安原はじめさんが山を相続するということでよろしいですね?」
その場にいる全員の了承を得たのを確認し、弁護士は鞄から分厚い封書を取り出した。
「先ほど資産価値の話が出たばかりですが、実は山の売買に関して、お父さまからある条件が出されています」
「売っちゃいけないとか?」
税金込みの維持費をきっちり揃えてあることを考えればいかにもありそうだと思ったが、弁護士はそれには答えず、とにかく中を確認するようにと促した。
そっけない白い便箋に、父の自筆で書かれていたのは、たった一言のみであった。
『どうしてこの山を売ってはならないのか分からない限り、売ってはいけない。』
「はあ?」
何だこれ、とはじめは目を丸くしたのだった。
* * *
新宿区には、ギラギラした高層ビルを遠目にして、未だに昔ながらの街並みを残す地域が存在している。
いくつかの大学に囲まれたそこには、学生をメインターゲットに据えた安い飲み屋や弁当屋はもちろん、多種多様なラーメン屋に中華屋、雀荘やジャズ喫茶などが混沌として立ち並んでいた。
実際に営業しているのかしていないのか疑わしくなるような店も何軒か存在していたが、その中でも特に商売っ気を感じない古いタバコ屋があった。
蛍光灯の仕込まれた白地に赤い文字で「たばこ」と書かれた看板が掲げられ、その下には小さなガラス戸と、色あせた小箱がびっしりと並ぶショーケースが続いている。両側のビルに挟まれた店舗はうなぎの寝床のように奥に細長く、通り側のほとんどを販売カウンターが占めていた。
いかにも窮屈そうな昔ながらのこの店舗こそが、はじめの城ともいうべき「たばこ屋 カネイ」である。
創業六十年を超えているこの店は、もともと、高齢の未亡人によって営まれていた。まだ大学生だった頃のはじめの行きつけの店であり、今はほとんど見なくなったレトロな雰囲気が気に入っていたのだが、ある時、店主であるトシばあちゃんが、年齢を理由に店をたたむと言い出した。
ところが、カネイは店舗そのものがあまりに古く、細長い敷地も再利用がしにくいという理由で、売却を相談した不動産屋に難しい顔をされてしまったのだという。提示されたのが思っていたような額ではなかったと漏らすトシばあちゃんに、「じゃあ、俺が店を継ごうか」とはじめが提案したのだった。
もともと自分が怠惰な性分であることは自覚している。
瀕死になってまで就職活動をして、なりたくもない会社員になるなんて真っ平ごめんだったし、なれたとしても長続きするわけがないという確信があった。遺産を元手にギャンブルで生きていこうかと考えていた矢先だったので、自販機が主な収入となるタバコ屋の経営は、はじめとしてはかなり堅実な選択だったのだ。
話を持ちかけた当初、トシばあちゃんは仰天し、よくよく金の使い道を考えろと説教までくれた。しかしまとまった額を実際に用意し「売ってくれなきゃギャンブラーかニートになるしかねえな」と駄々をこねると、心配そうな顔ではじめにタバコ屋のイロハを教えてから、娘夫婦の住む町へと引っ越して行ったのだった。
だが、はじめの勤務態度とは関係なく喫煙者には生きにくい時代である。
以前は雀荘に置いていた自販機だけでもそこそこの売り上げがあったのだが、そこを利用している大学生達は近頃とんとお上品になったと見えて、収入は明らかに減っていた。カートン買いをしていく常連客など、もはや絶滅危惧種と言ってもよい。
はじめは換気扇に向かってゆるく紫煙を吐き出した。
空気はじっとりと蒸し暑く、残照はどこか焦げ臭い。
カネイは、店舗と住居が一体となっている。
二階はもっぱら物置と万年床で、一階の店舗裏には便所と風呂場、そして台所が続いていた。
空腹を覚えて台所までやって来たのだが、冷蔵庫は空であった。口寂しくて思わず煙草を咥えるも、換気口を透かして瞬くように差し込む夕日を見ていると、腹具合はますます切なくなってくる。
外食するかとも考えたが、街中で喫煙が許されたスペースはどんどん狭くなっているので、この辺りでのんびりしようと思ったら自宅が一番となってしまう。愛煙家にとって、この国はなんと居心地が悪くなってしまったことか。
いっそ海外に行ってみようかと思いつき、先日から持ちかけられている儲け話が頭を過ぎった。
山を相続するだけでどうしてこんな手続きまで必要なのか、不思議に思うような大量の書類にサインし、正式にはじめが山の名義人兼管理人になった翌日のことである。
――あの山を売ってくれませんか。
そう言って、胡散臭い笑顔のビジネスマンがはじめのもとを訪ねて来た。
私有地の「山」というと、大きな山の一角といった形が多いらしいが、はじめが相続したのは、本当に山そのものとも言える土地一帯であった。地図で見るとその山はきれいなお椀型をしており、ちょうど他の山に接している裾野をぐるりとめぐる円の内部が、丸々はじめのものとなっていた。
周辺住民からは、「荒山」と呼ばれているらしい。
最初にやって来た男は大きな企業の名前を出し、その荒山を買い取ってレジャー施設を作りたいのだと語った。
山にはスキー場を、湖にはレジャーボートを浮かべ、湖畔には洒落たホテルを建設する。
どうでしょう、と提示された額は決して悪くはなかったが、はじめはすげなくそれを断った。
とりあえず売る気はないと告げると、その男は眼鏡をキラリと光らせて、「もしや山に手を加えるのがお嫌ですか?」と訊いて来た。詳しく説明するのも面倒で「そうですね」と適当に答えると、その男は笑顔を崩さないまま、「また伺います」と言ってあっさり引き下がっていった。
そして後日、今度は先日とは全く異なる会社の肩書きを持った男が現れ、またもや「荒山を売って欲しい」と言って来たのだ。
今度は、あの山には国が保護対象としている珍しい動植物が多くいるようなので、環境保全のためにも是非買い取らせて欲しいという理由である。提示された金額は、先日の男が出したものをわずかに上回っていた。
養父から、思っていたよりも愉快なものを押し付けられたと気付いたのはこの時である。
最初に来た男も、次に来た男も、山を欲しがる理由とバックについている会社の名前こそ違うが、笑い方が全く同じであった。ビジネスの作法というか、やり口に共通するものを感じたのだ。
こいつらの後ろにいるのは同じ奴だと、すぐにピンときた。
手を替え、品を替え、名義を変え、額面を変え、こちらからは顔の見えない誰かが、山を売って欲しいと自分に言ってきている。
今のところ、最初の二件にもう一件加わった三者から、山の売買に関しての打診を受けていた。半ば面白がって、のらりくらりと要求をかわしてみたが、三者はあくまで下手に出てきている。途中、「これ以上は難しい」だの「諦めてこの話は他に持っていく」などと揺さぶりをかけたりもしたが、はじめが動じないと分かるやそれもなくなった。提示する金額や接待の内容は、徐々に大規模になりつつある。
とはいえ、ここまで焦らしまくったのだから、いいかげん向こうもこちらに売る気がないのは伝わっただろう。こうした場合、次に考える手は大体決まっている。すなわち、押して駄目なら引いてみろ。飴が駄目なら鞭を使え、といったところだ。
あちらが何をしかけて来るのか、楽しみだ。
サンタクロースからのプレゼントを待つ子どものような心持ちで、はじめはシンクに置きっ放しになっていたビールの空き缶にちびた煙草を落としたのだった。
いつの間にか、台所はすっかり暗くなっていた。
近所のラーメン屋にでも行くかと、ズボンに財布と煙草の箱だけを突っ込んで外へと出る。隣のビルの一階はそば屋なのだが、女将さんが細々と続けているグリーンカーテンの夕顔がまっさらな白い花を咲かせていた。扉に鍵をかけ、カウンターにシャッターを下ろした、その時だった。
「こんばんは」
もう店じまいですか、と。
背後からそう尋ねてきた声は、凜と澄んでいる。
声につられて振り返ったはじめは、そこで世にも美しいものを見た。
点滅する古ぼけた街灯の下、光の輪が浮いたストレートの長い黒髪が、夜風を受けて豪奢に舞っている。シンプルな白いワンピースをまとった体は、細身なのに腰がくびれており、長い手足がすんなりと伸びていた。
そこに立っていたのは、怖気をふるうような美女であった。
芸能人はおろか、世界的な名画に描かれた麗人でも、彼女ほど美しい人は見たことがない。かすかに微笑みを浮かべ佇んでいるだけで神々しく、その顔面で人を殺せるだろうと思った。
しかし同時に、彼女にはどこか見る者をぞっとさせるものがあった。なんというか、まるで人間味を感じないのだ。可愛らしいという意味ではなく、どこか不穏さを感じさせる天使のようだった。本人は清らかで神聖そのものなのに、それを少しでも侵したら破滅させられそう、とでも言うような。
何よりも彼女を非凡にしているのは、そのよく輝く目であった。
満天の星のきらめく、瑠璃色に澄んだ夜空のような瞳をしている。
形のよい骨格の中で、はっきりとした目元だけが異様なほどの存在感を放っていた。彼女の持つ意志の強さが、きらびやかな瞳を透かして見えるようだ。
幽境の何かと思うにはあまりに主張が激しい眼差しに撃ち抜かれるような心地がしながらも、はじめはその衝撃をちょっと瞠目するだけでやり過ごしたのだった。
「何かお求めですか」
「はい。あなたを」
思わず目を瞬くと、彼女は華やかに微笑した。
「私と一緒に来て頂けませんか」
「美人局か」
「まあ怖い。でもご安心下さいな。私は美人局でなく、幽霊です」
それはそれで怖いなとはじめは思った。
「……足はあるように見えるがね」
「最近の幽霊は足があるのです」
「へえ。幽霊にも流行り廃りがあるのか」
「ありますとも。幽霊に足がなくなったのは、江戸時代の幽霊画からだそうですよ」
曖昧なものはそういった影響を受けやすいのですと、歌うように彼女は言う。
どうにも要領を得ないが、このタイミングでやって来た以上、彼女の目的はひとつしかない。
「まあ、冗談は置いといてだ。山の件だな?」
確信を持って問いかければ、幽霊は「話が早くて助かります」と首肯した。
「実は、あなたのお父様から頼まれておりまして」
「何を?」
「あなたに、あの山の秘密を教えて差し上げて欲しい、と」
――どうしてこの山を売ってはならないのか分からない限り、売ってはいけない。
脳裏をひらりと過ぎった言葉に得心する。親父は、一応答えとなるものを用意してくれていたわけだ。
「あんた、親父とはどういう関係だ。今、どこにいるか知っているのか」
「それについては、ごめんなさい。昔ご恩を受けたことがあるきりで、お父様が現在どうされているのかは存じ上げないんです」
幽霊は困ったように言う。
「ここまで来ておいて言うのもなんですが、個人的な意見を言わせて頂くと、断るのも一つの手だと思います。その場合、何も聞かなかったことにして、山を売ってしまうのがよろしいかと」
「どうして?」
「山の秘密を知れば、おそらくは命の危険にさらされます。そうでなくとも、それを知る前までのあなたには戻れなくなるでしょう」
「俺の一生を変えちまうような秘密があるってことか?」
「まず間違いなく」
「興味をひくのが上手だねえ」
思わず、ヒヒッと気持ちの悪い笑声を漏らしてしまった。
「どうか今、ここで選んで下さい。私と一緒に来るか、来ないか」
まっすぐな目を向けてくる美女を見つめ返し、はじめは無精ひげをざりりと撫でた。
「言い方が嫌だな」
問うように小首を傾げる幽霊に、真面目くさって付け加える。
「なんというか、もうちっとこう、俺が楽しくなるようなニュアンスで誘ってくれ」
「では、はじめさん。これから私とデートに行きませんか」
「いいね。行こう」
即答したその瞬間、バサバサッと、どこかで鳥が羽ばたく音がした。
「あら」
そう言って弾かれたように空を見上げた彼女の瞳が、不意に冷たい光を宿す。
「――急ぎましょう」
そう言って彼女は、はじめの手を取って駆けだした。
ちょうど近所の大学の講義が終わった時間らしい。楽しそうな声を上げてふざけあう若者の間を、幽霊とはじめは小走りに進む。
クラクションと学生達の笑い声が響く雑踏の向こうで、カアカアと烏の鳴き声がしている。視線をめぐらせると、既に日は落ちているのに、街灯の間にちらつく黒い影が見えた。
幽霊が向かったのは、最寄りの地下鉄の駅であった。
「電車に乗るのか」
「行ってのお楽しみです」
人波に乗って階段を駆け下りていると、背後でがなり立てる烏の鳴き声がして、次いで女性の悲鳴が聞こえた。
「何だ?」
「構内に鳥が入ったのでしょう」
こちらへ、と振り返りもせず、踊るような足取りで彼女ははじめを先導する。
幽霊は流れるように二人分のICカードを使って入場し、ちょうど停まっていた車両へと駆け込んだ。
――ドアが閉まります。ご注意下さい。
無感動なアナウンスの後で、ガコン、と音を立てて扉が閉まり始める。
すると、青白いライトに照らされた改札を飛び越えて来る何かが見えた。人々が驚いて首を竦める上を、一羽の烏が猛烈な勢いでこちらに向かって飛んで来る。
あわや車両に烏が飛び込むという寸前、計ったようなタイミングでドアが閉じた。
閉め出された形となった烏は、ガラス戸に体当たりするようにして止まると、すぐさま転落防止扉まで飛びのいた。
ガラス一枚を隔てた向こうで、ギャアギャアと烏がだみ声でがなり立てる。そして、ゆっくりと動き出した車両を見るやすぐさま飛び上がり、もと来た通路を戻っていった。
ほぼ同時に車両がトンネルに入ったため、はじめにはそれ以上のことは分からない。しかし、顔を横にして車内を覗き込むようにした烏は、普通の烏よりも足が一本多くはなかったか。
今のを見たか、と隣の幽霊に話しかけようとしたはじめは、そのまま口をつぐんだ。
彼女は微動だにせず、どこか冷然とした面持ちで、ガラス戸の向こうを見つめていたのだった。
ただでさえ、帰宅ラッシュの時間帯だ。
汗の匂いを漂わせる勤め人と学生達が群れなす中、特に言葉を交わさないまま、はじめは幽霊の後を追いかけ続けた。
地下鉄を何度か乗り換え、大きな駅へ着くと、二人は駅構内の百貨店へと入った。
惣菜売り場は買い物客でごったがえしている。何か買うつもりなのだろうかと思ったが、幽霊はそこをするすると縫うように素通りし、スタッフ専用の通用口へと向かった。
どうぞと引き入れられたバックヤードは薄暗い。
蛍光灯がかさついた音を立てる中、通路の両側には段ボールがうずたかく積まれ、足元には包装紙の切れ端らしき紙片が落ちていた。
幽霊は迷いない足取りでひとつの段ボールに近付くと、中から何かを取り出した。
「お手数をおかけして申し訳ありません。こちらに着替えて頂けますか」
それは、くたくたになった二着のツナギだった。
彼女は全く恥じらうことなくはじめの目の前でワンピースを脱ぎ捨て、グレーのツナギに着替え始めた。白い肌と薄いブルーのランジェリーから申し訳程度に視線を逸らしつつ、はじめも大人しくそれに倣う。
「これをどうぞ」
仕上げとばかりにキャップを渡される。
彼女自身も、長い髪を手早く束ねて帽子の中に押し込んでから、自分が脱ぎ捨てたワンピースを段ボールに放り込む。そこで、思い出したようにはじめの脱いだTシャツとズボンを手に取った。
「この服、思い入れのあるものだったりしますか?」
「いいや、全く」
「では、すみません。どこかで弁償しますので」
そう言って無造作にはじめの服を段ボールに投げ込むと、そのまま背を向けて歩き出す。
従業員用のエレベーターを使って地下から一階へと上がると、荷物運搬用の大きなトラックが用意されていた。
幽霊は、まるで海外ドラマのエージェントのような動作で外を窺ってから、トラックに乗るようにと身振りで示した。はじめが助手席にえっちらおっちら乗り込んだのを確認するや、彼女も身軽に運転席に収まり、手馴れた動作でキーをまわす。エンジンをかけ、警備員に誘導されるまま一般道に出てから、ようやく幽霊のまとっていた緊張が解けたように見えた。
「ドタバタしちゃってすみません。もう、普通にしゃべって大丈夫ですよ」
「俺達、誰かに追われていたのか」
「はい」
「はぁん……?」
何てこともないように肯定されると、逆に何と返すべきか困ってしまう。
間抜けな返答が可笑しかったのか、彼女は口元に小さな笑みを浮かべた。
「ご安心を。彼らに捕まっても、困るのは私だけです」
「あんた、一体何者なの」
「最初に申し上げたでしょう。ただの幽霊です」
茶目っ気たっぷりにはじめを見てから、彼女は再び前を向く。
「このまま、あなたの山へ向かいます。お休みになって構いませんよ」
「あいにく、まだ眠くはねえな。それより腹が減ったが」
「おにぎりとお茶を買ってあります。お菓子といっしょにダッシュボードに入っておりますので、ご自由に召し上がって下さい」
粗餐で申し訳ないと謝られたが、はじめの普段の食事とそう大きく変わるわけでもない。
昆布のおにぎりをもそもそと咀嚼しているうちに、トラックは高速道路に乗った。
「煙草を吸ってもいいかな?」
「どうぞ」
シガーライターと車に備え付けの灰皿を示され、ありがたく使わせて貰う。
わずかに窓を開け、そこに向かってふっと紫煙を吐き出すと、そのもやの向こうの防音壁とオレンジ色の街灯が、妙に鮮やかに浮かび上がって見えた。
「……そんで? あの山の秘密ってのは何なんだ。ちゃんと俺はあんたについて来たわけだし、そろそろ教えてくれてもいいんじゃないかね」
視線を窓の外に向けたまま問えば、「何だと思われます?」と幽霊は問い返してきた。
「金の鉱脈が眠っているとか」
「だとしたら、我々としては最悪ですね。あの山を穴ぼこだらけにされては困りますから」
「ふうん?」
黙って先を促すと、「説明するのが難しいのですが」と幽霊は少し考えを巡らせるように宙を睨んだ。
「はじめさんは、桃源郷をご存知ですか」
「俺の行きつけのキャバクラ」
「まあ素敵。でも、申し上げたかったのはその命名のもとになった古典のほうです」
昔々、中国は晋の時代。
武陵の漁夫が道に迷い、桃の林を抜けた先で異境へとたどり着いた。そこは美しく平和な世界であり、そこに住まう人々は温厚で、漁夫を歓待したという。外部の人にここのことを話してはいけないと口止めされた漁夫はしかし、道にしるしをつけながら異境から戻り、人を伴って再びそこに向かおうとした。しかし、二度とそこに至ることは出来なかったという――。
歌うような口調で説明され、はじめは「ああ」ともじゃもじゃ頭を搔く。
「学生時代に習った気がするな」
「これから、桃源郷に連れて行って差し上げますよ」
言葉をなくし、はじめは隣の幽霊の顔をまじまじと見つめた。
「それは……酒池肉林的な意味で……?」
「あいにく、大人の社交場には詳しくありませんので」
「いや、だってあんた、悪質なキャッチみたいなんだもんよ」
「悪質なキャッチであることは否定出来ませんね」
ころころと声を上げて笑ってから、幽霊は自分の言葉を補足した。
「あの山は、ある者にとってはまさしく桃源郷のような場所なのです。はじめさんにとってもユートピアかどうかは、行ってみないことには分かりませんが」
どちらにしろ、下手にあの山に手を加えられては困るのですよと幽霊は苦笑する。
「でも我々は、権利とかそういった関係にはとんと疎くて……。知らない間に、山の権利が個人所有になっていて、危ない橋を渡っていたのだと、最近になって気付いたんです」
バブルの頃、あの山を開発しようとする動きもあったという話こそが、その最たるものだった。幸いにして計画は中止されたが、そこには、一人の実業家が関わっていた。
「それこそが、はじめさんのお父様、安原作助さんでした」
安原作助。
一代にして巨万の富を築いたその手腕から、「経済界のぬらりひょん」とまで呼ばれた実業家である。
実際、そのセンスには神がかった何かがあった。
もとは小規模な商店の店主だったが、手広く展開した商売の一切合財が大成功を収めた。その場その場の選択が後々にうまく作用し、最終的には大量の利益を生む。海老一匹で鯛を釣り、それをきっかけにして鯨を陸に引きずり揚げるかのような、驚異的な手腕の持ち主であったのだ。バブルの時期には豪快に土地を転がし、まるでそれが来るのも終わるのも分かっていたようなタイミングで最大限に利益を上げたらしい。
同業者からは化け物扱いされ、伝説にはことかかない人物ではあったが、彼はその実、ものすごい変人でもあった。
妻となった女には子どもが出来なかったが、それは最初から承知の上だったと聞いている。作助が気に入って引き取った養子は、一人を除いていずれも人間的にもビジネス的にも大成功を収めているので、人を見る目は確かだったのだろう。
養父は、放浪するのが大好きな人でもあった。
ある程度事業が成功すると、あっさりとそれを人に任せ、ふらりといなくなってしまう。それなのに、何か大きな動きが起こる直前になると現れ、一見すると意味不明な指示を出してまたいなくなるのだ。残された者が半信半疑でそれに従うと、決まってそれが後々に大きな利益に繫がるという、何とも気味の悪い経営をしていたらしい。
引退後も、たまに会社に現れては、後を継いだ息子達に予言めいたアドバイスを行っていた。そういう時は、やはり決まって大きな動きがあるので、社員からは超常現象とか座敷童的な扱いを受けていた。おそらく、「ぬらりひょん」の由来はそんなところにあるのだろう。
放浪好きな彼は、高齢になるにつれて旅の道づれが欲しくなったらしい。そこで、仕事を継がせるためではなく、ただ単に自分の暇つぶしのおもちゃにするために新しい養子を連れて来た。
その四人目の養子こそが、はじめであった。
全く相談なく末っ子を連れて来られ、家族一同は仰天したらしいが、はじめがあの屋敷で過ごした記憶はほとんどない。貰われて来た用途に違わず、作助のめちゃくちゃな旅にさんざん付き合わされたからだ。
一番多く付き合わされた場所は、賭場である。
トランプにバカラ、ルーレット、麻雀やら花札やらサイコロやらのルールを、養父の膝の上で、はたまた煙草くさいおっさんの傍らで片っ端から覚えていった。海外と思しきいかにもな賭場やカジノにも連れて行かれた記憶があるし、競馬、競輪、競艇、オートレース、パチンコと、思いつく限り全ての大人の遊びに付き合わされたのだ。
かと思えば、はしゃいだ勢いのまま山に連れて行かれてそのまま置き去りにされたり、泳ぎの訓練だといって湖に突き落とされたりしたこともあった。それで狼狽するはじめを見て腹を抱えて笑う姿には、幼心に殺意を覚えたものである。
これで、長じてまっとうな会社員になれるわけがねえだろうとはじめは主張したい。
その化け物じみた采配から、アンダーグラウンドな付き合いもあったのではないかと噂されていた養父であるが、実際に怪しい所に出入りしていたのは確かだった。幼い頃なのでおぼろげではあるが、どう考えても堅気ではない連中のたむろする場所に行った覚えもあるし、大きくなって日本中を放浪するうちにそういった輩に絡まれる場合もあったから、他でもないはじめ自身が生き証人である。
だからこそ、七年前、本格的に彼が帰って来なくなっても、真剣に心配する者は誰一人としていなかったのだ。
作助を少しでも知っている人間は、「いつかこうなると思っていた」と口を揃えた。とっくの昔に豚のえさになっている気もするし、明日にでもひょっこりと帰ってきそうな気もする、と。
無言になったはじめを、幽霊は不思議そうに見やった。
「とにかくですね。お父様はあの山を手に入れ、一旦は開発しかけて、途中でそれを中止されています。以来、手付かずのまま今に至るわけです」
近年になり、あの山が個人の所有になっていると気付いた者達は度肝を抜かれたのだという。慌てて買い取ろうとしたが、安原作助は行方不明で交渉すらままならない。
「山を欲しいと考えている者達は、お父様の失踪宣告であなたに権利が移るのを、固唾を呑んで見守っていたわけです」
「それで、一気に?」
「買い取りにきた、と」
はー、とはじめは息をついた。
あの人を食ったジジイがあえて「売るな」というくらいだ。何かある予感はしていたが。
「そんな厄介なもんを、なんでわざわざ俺なんかに遺すかね……」
「適任だと思われたのでは?」
「明らかに人選ミスだろ」
投げやりにそっくり返ったはじめは、バックミラーに、このトラックと同じ型のトラックが映っていることに気がついた。
「幽霊さん」
思わず声が低くなったが、幽霊はちらりと鏡を見て、はじめを安心させるように微笑む。
「ご心配なく。あれは追手ではありません」
「あんたのお仲間か」
「とも、言い切れませんけれども。とりあえずは、ご放念頂いて大丈夫です」
道路照明灯を反射して、その整いきった横顔にオレンジ色の光が差す。無言のままの彼女に詳しく説明するつもりがないのだと察して、はじめは矛先を変えることにした。
「委細は知らねーが、あんたらにとってあの山に価値があるってのは分かった。そんで、どうして俺達は追われている? あんたと別口ってことは、さっき追って来たのは、最初に俺に山を売れと言ってきた奴らの一味なのか」
察しがいいですねと幽霊は頷く。
「彼らと私は、仲が悪くて」
「そりゃまた、どうして」
「価値観が絶望的に異なると言うか、主義主張の違いと言うか……」
最初は誤魔化そうとしたようだったが、はじめがじっと見つめ続けると、「私には、どうしても許せないことがありまして」と小さな声で呟いた。その横顔に今までにないものを感じ、「何が」と容赦なく先を促す。
「――かつて、私は殺されました」
少しの沈黙をおき、どこか腹を括った様子で幽霊は口を開いた。
「私だけでなく、私の両親も、私の大切な人達も。今、追って来ている彼らが絶対的に信じるものによって理不尽に蹂躙され、殺されてしまったんです。私がこの世にあさましくも留まり続けているのは、未練があるからに他なりません」
「殺されたことを恨んでいる?」
「ええ、大いに」
許せるはずがないでしょうと、幽霊を自称する女は、その美貌に凄絶な微笑を浮かべた。
「私はなんとしても、私と、私の大切な人達を殺したものを、この世から滅さなければなりません」
そうでなければ成仏出来ないのですよと、美しくもおぞましく笑う彼女の姿は自称に違わず、全くこの世の者とは思えなかった。
「なるほどね」
重苦しい空気をいとわしく思いながら、はじめは息をつく。
「ジジイに頼まれたってのは口実で、俺は、あんたの復讐に巻き込まれたんだな」
「そういうことです」
分かりやすくて結構なことだ。
会話は途切れてしまったが、それ以上、無理に話を続けようとは思えなかった。
数時間のドライブの後、高速を降りた。
結局一睡もしないままだったので灰皿はいっぱいになってしまったが、休憩が挟まれることもなかった。
周囲の建物はすっかり低くなり、その間には光を吸い込むような田畑の闇が広がっている。田舎の風景を走っているうちに、トラックはいつしか、黒々とした山へと向かうゆるやかな坂道を走っていた。
そこをひた走ることしばらく、その道路をまたぐように聳え立つシルエットが見えた。
「鳥居?」
「そうです。ここから山に入るという合図ですね」
巨大な鳥居の下を潜ってからサイドミラーを見ると、いつの間に随分と登って来ていたのか、山の裾野には宝石をばらまいたかのような夜景が広がっている。
その一方、フロントガラスから見上げた山の上空には大きな月が燦然と輝いていた。夏のぼやけた空気の中でも負けない強い光に見とれているうちに、周囲の景色からはどんどん明かりが少なくなっていった。人家がまばらになるのに比例して、森林ばかりが増えていく。
お互い無言のまま運転を続けるうちに、段々と道が曲がりくねり始めた。九十九折を曲がるたびに、道があからさまに狭くなっていく。
自分達と後方のトラックのライトしか光がない道を進んでしばらくして、左右に迫り来るような森林の闇が途切れた。
やっとひらけたと思った先は、皓々とした月の光に照らし出される大きな湖であった。
がたがたと揺れるトラックに、とうとう舗装もされていない道に入ったと知る。
「すっげえ田舎」
「まあ、山ですからね」
湖に沿ってトラックを走らせ、ようやく、湖に臨むロッジへとたどり着いた。
いつの間にか二台に増えていたトラックを先導する形で進み、ロッジの前でゆっくりと停車する。
だが、後続の二台のトラックはまだ動いているようだ。停車することなくハンドルを切り返し、ロッジのすぐ隣の建物にバックして向かっている。カッターボートでも入っているのだろうか。かなり大きなガレージである。
「……着いた?」
「はい。一旦降りましょう」
トラックを降りると、東京と明らかに空気が違う。
驚くほど気温が低い。山特有の鋭いひやっこさである。深呼吸すれば、随分と久しぶりに肺の奥まで澄んだ空気がしみわたり、つきんと痛むような感じさえした。
「あれがあなたの山です」
幽霊に指差された先に目をやれば、月光によって照らし出された山の形がはっきりと確認出来た。
山と接している湖の対岸には、人家の明かりらしきものも見える。
集落でもあるのだろうかと思っていると、バタン、と扉を開閉する音と話し声が響いた。
振り返ると、ガレージ前につけた二台のトラックの運転手達が何やら動き回っている。荷台から荷物を下ろそうとしているようだが、その間、かたくなにこちらを見ようとしていないような、あえてこちらを無視しているような印象を受けた。
他のトラックを見ているはじめに気付いたのか、彼女は違う方向へ手を向けた。
「お手洗いにご案内します。今なら、誰もいないはずですので」
「あいよ」
連れて行かれたロッジの中に入ると、何か、ハーブのような良い香りがした。トイレにもドライフラワーが飾られており、カネイの古いトイレに慣れた身にはそれだけでなんともしゃれて見える。
トイレから帰る際、居間と思しき部屋を覗いてみたが、そこには大きなアクアリウムがあり、天井ではファンが回っていた。モデルルームのように綺麗な部屋だが、使いかけのお茶のセットや小物があるあたりに、拭いきれない生活感がある。
誰かが住んでいるのは確かなのに、人気が全く感じられないのが少し不気味であった。
見咎められないうちに戻ると、玄関のすぐ外で彼女が待っていた。
「はじめさんには大変申し訳ないのですが、これから、少し窮屈な思いをして頂くことになります」
おや、とはじめは目を瞬く。
「ここが目的地じゃなかったのか?」
「もうちょっとだけ、お付き合い頂きたいのです」
可愛らしく両手を合わせてウィンクしてから、トラックの荷台を開く。
「はじめさん、閉所や暗所は平気ですよね」
「平気、では、ありますけど……?」
まさか。
ロッジの玄関に点された薄明かりの中、荷台に山と積まれた木箱を指し示してにこやかに言う。
「これに入って下さい」
「マジか」
大きな木箱の中を覗き込めば、申し訳程度の小さな座布団と、飲料水が入っているらしいガラス瓶が見えた。
「マジかー……」
「大マジです」
語彙を失ったはじめに対し、さあ入れ、と笑顔でプレッシャーをかけてくる。
「あ、そう言えば携帯電話はお持ちですか」
「そもそも持っていないけど、なんで?」
「ここから先は圏外ですし、十中八九壊れてしまいますから。お持ちならお預かりしようかと」
はじめは今度こそ絶句した。
「俺、どこに連れて行かれようとしてんの? まさか、このまま湖に沈められたりしねえよな」
「大丈夫、大丈夫。あなたに何かあれば、困るのは我々なのです。どうかご安心下さい」
どこにも安心出来る要素がねえぞと思いつつも、結局は彼女に促されるがまま、はじめは木箱の中で膝を抱えることになった。
「あまり、音は立てないでくださいね。明確にあなたに話しかけてくる者がいない限り、声も極力出さないで」
「注文が多い」
「申し訳ありません。でも、鼾をかかないのなら、眠っていても構いませんよ」
「無茶を言う……」
「では」
幽霊はにっこりとこちらに笑いかけた。
「いずれまた、お会いしましょう」
木箱の蓋が閉じられ、ついで、トラックの荷台の扉が閉まる重々しい音が響き渡る。
真っ暗で何も見えない。
視角が閉ざされるとその他の感覚が研ぎ澄まされるのか、埃と木材の匂いが強く感じられる。しばらくすると、ぱたぱたと駆ける軽い足音と、エンジンのかかる音がして車体が震えた。「バックします。ご注意下さい」という街中で聞き慣れたボイスアラームと共にゆっくりと動き始め、いくらもしないうちに停まってしまった。
トラックの扉が再び開かれる。
木箱には隙間が空いていたようで、細く光が入ってきた。
首を捻り、隙間に目を近付けて外を窺うと、帽子を深く被ったツナギ姿の男達が、手馴れた動作で荷下ろしをしていた。位置的に、今視界に入っているのは先ほどトラックがつけていたガレージの内部だろうが、その背後、並べられた荷物の隙間から見えた光景にはじめは目をぱちくりさせた。
白熱電球に照らされた室内の、その向こう。木箱が大量に置かれた倉庫の奥には、ぽっかりと洞穴が口を開けている。
自然に出来たものではないだろう。坑道のように、人工的に削って作られた通路のようだ。奥に続く線路やトロッコのような物まで見えたが、はじめの入った木箱がスライドしてトラックから下ろされると、他の木箱の陰に隠れて何も見えなくなってしまった。
あの通路は何なのか。いつまでこうしていればよいのか。あまりに同じ姿勢でいるとどこか痛めそうだな、などと思っているうちに、荷下ろしが終わった。
金属のこすれるような硬い音がして、はじめの体が大きく揺れる。そこで、自分の入った木箱がトロッコに積み込まれたことを知った。
何も見えないうちに、はじめの乗ったトロッコはガタゴトと動き出した。
おそらくは、先ほど見えた洞穴に入ったのだろう。途中で耳をふさがれるような感覚がし、直接風が当たるわけではないのに、すうっと温度が下がっていくのを感じる。レールの継ぎ目を走るリズムもすぐに軽快なものへと変わり、どんどん速度を増しているようである。
口寂しくて煙草が吸いたくなったが、下手すれば火傷するか、酸欠にでもなりそうだと思えばあえて挑戦する気にもなれない。
一体、自分はどこに向かっているのやら。
こんなトロッコがあるくらいなのだから、やはり鉱山かそれに類する何かではあるのだろうが、資料上、こんなものがあったなど一切聞いていない。父の黒い人脈が関係した資金源、隠し財産だったと考えるのが一番妥当なのかもしれないが、鉱山などという大掛かりなものが果たして普通に隠し通せるものなのだろうか。
――いや、でもまあ、あのジジイの持ち物だからな。
全部それで納得出来てしまうのが恐ろしいところではある。
つらつらと考えている間も、絶え間なく細かい振動が体に伝わってくる。
よく整備されているのか、トロッコは滑らかに動いているようだ。荷物に囲まれているせいでほとんど外は見えないが、時折、高速のトンネルのようなほのかな明かりが、対面の隙間から差し込んでいる。
眠れるわけがないと思っていたが、一定の音と光は眠気を誘う。
あくびをかみ殺し、いつの間にかうとうとしていたらしい。
夢の狭間をたゆたっていたはじめを叩き起こしたのは、トロッコのブレーキと思しき耳障りな金属音と、大きな揺れであった。
寝ぼけ眼を瞬いていると、いつの間にか外が騒がしくなっている。
はっきりと大声で言葉を交わしているのに、なんと言っているのかすぐには理解出来なかった。
あれ? これ、日本語だよな?
どこかで聞いた覚えがあるようなないような、と首を捻っていると、唐突に暗闇の中に光が射した。目がくらみ、思わずぎゅっと目をつぶる。
ギィ――と、木箱の開く鈍い音と共に、誰かの息を呑む気配がした。
しばしばする目を無理やり開き、何度も瞬いているうちに、徐々に視界が戻ってきた。
はじめの入った木箱を開いてこちらを覗き込んでいるのは、一人の中年男性だった。
ぽかんと口を開いた彼と、しばし、無言で顔を合わせる。なんとも間の抜けた沈黙が落ちた。
「どうも……?」
こちらから話しかけるなと言われてはいたが、沈黙に耐え切れず、小声で言って片手を挙げる。
するとそいつは、顔を盛大に引きつらせて、わなわなと震え始めた。尋常でない様子に心配になりかけたその時、目の前の男が絶叫した。
わあ、とも、やあ、ともつかない声を上げ、やたら訛りの強い早口でわめきながら、はじめから逃げるように後じさって行く。
今更隠れるも何もないだろうと、はじめはゆっくりと立ち上がった。そして、そこに広がる光景に絶句した。
とてつもなく大きな広間である。
四方の壁は石造りに見えたが、赤く塗られた梁や馬鹿でかい門扉は木製で、金属の装飾や鋲などがついている。はじめが乗ってきたのはやはりトロッコだったようで、振り返れば、その下の線路は赤い門扉の向こう、岩肌を削って出来たと思しきひどく大きな洞穴へと伸びていた。天井は異様に高いが蛍光灯は見えず、代わりにぶら下がる灯籠の中には、電球とも火ともつかないひんやりとした光がゆらいでいる。
パッと見た全体の印象は、はるか昔、奈良で見た大仏殿に近い。
だが、仏像の代わりにうずたかく積まれているのは大量の木箱であり、観光客の代わりにその辺りをたむろしているのは、見慣れない和装の男達であった。
大河ドラマでしか見ないような仰々しい装いである。狩衣とか、水干とか言ったか。何がどう違うのかはよく分からないが、神社で神主がお祓いをしている時に着ているものに近い気がする。ほとんどが青の着物を着ているが、緑や朱色などもちらほら見える。
そして、最初の男が冷や汗まみれになりながら後退し、はじめを指差して何事かを――やはり、聞き取れそうで聞き取れない早口で何事かをまくしたてているうちに、混乱は徐々に周囲へ伝染していった。
わめく男を不審そうに見ていた彼らは、はじめに気付くやいなや一様に青くなり、まるで化け物でも見るような目をこちらに向けてきたのだ。はじめに気付いた者から、みんな同じように顔色が変わっていくのがちょっと愉快ではあったのだが、その実、全く違うベクトルではじめも動揺していた。
――何だ、ここ?
一万歩譲って、アウトローな奴らが勝手に掘った鉱山が存在していたとしよう。だが、それにしてはあまりに雰囲気がおかしくはないか。
「お前、どうしてそんな所にいる!」
ここに来て初めて、はっきりと聞き取れる日本語で話しかけられた。
見れば、トロッコの横に鳥っぽい黒いお面を被った小柄な男が立っており、わなわなと震えながらこちらを指さしていた。
「なんか、ここに入っていろと言われて」
「だ、誰に」
「知らない。幽霊って名乗っていたけど、あんたらのお仲間じゃないの」
言われた方はしばし絶句していたが、我に返ると「大天狗を呼んで来い」と叫んだ。その背後に立っていた、同じようにお面を被っていた男が泡をくったようにトロッコの機関部へと駆け戻って行く。
「あんた、人間だよな……?」
お面の男におそるおそる尋ねられ、「人間以外に見えます?」と返す。
人間だよな、そうだよな、と呟いて男は頭を抱える。
「ええー? どうしたらいいんだ、これ……」
「いや、俺に言われましても」
「あんた、いつからそこに入っていた?」
「ついさっき」
「ついさっき!」
お面男は絶望したように繰り返す。
「ちょっと待て。あんた、一体何者なんだ」
「しがないタバコ屋です。名前なら、安原はじめと申しますけど」
剣幕に押されるようにして名乗った瞬間、お面の男のまとう雰囲気が変わった。
鋭く息を呑み、まじまじとはじめを見つめ直す。
ややあって「なるほど」と呟いた時には、先ほどの狼狽ぶりが噓のように落ち着いていた。
「これは、大変失礼をいたしました」
露骨に慇懃な態度になり、「どうぞこちらへ」と木箱から出るように促される。
お面男は、慌てふためいている和装の男達に何かを囁いてから、トロッコから離れた場所へと丁重にはじめを案内した。
通されたのは、広間の隅の一角であった。
赤い絨毯が敷かれており、猫足の椅子にテーブルという妙にアンティークな洋風趣味で統一されている。あからさまな和風建築の中で、そこだけが異様に浮いて見えた。
派手な椅子に腰掛けると、どうぞおくつろぎ下さいと言われたので、言葉に甘えることにする。
いつしか、広間は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなっていた。
きつい方言と思しき言葉で叫びあいながら、大仰な和装の男達があちこちを走り回る中、その元凶らしきはじめとお面の男だけが妙に冷静である。
ぼうっとしているうちに紅茶まで出されたので、ずるずると音を立てて啜り、一息ついた。
「あんた、俺のこと知ってるの?」
「お名前だけは」
「なんで」
「説明は、私にはいたしかねます。おそらく、すぐに適任者が参りますので」
お面男がそう言った時、ふと、うるさかった周囲に、これまでとは全く質の異なる緊張が走った。それにつられたように顔を上げた男が、「ああ、ほら」と囁く。
「いらっしゃいました」
潮が引くように、混乱状態だった広間が、しんと静まり返っていく。
隣のお面男は身を固くし、遠巻きにこちらを窺っていた和装の者達は、飛びのくようにして道を開けていく。人垣が割れたことによって現れた道は、トロッコの来た洞穴とは反対側にある、同じように大きな門へと続いていた。その道を進み、こちらへ向かって来る一団がある。
今まで忙しなく動いていた男達よりも上等に見える和服を着た者達と、黒装束の若者達だ。その腰には、時代劇でしか見ないような大きな日本刀まで吊るされている。
恭しく頭を下げる人々を当然の顔をして受け止め、先頭を悠然と歩むのは、上品な風貌の中年男性であった。
感情の読めない笑みを浮かべた面差しだけ見れば、高僧か、あるいは大学教授とでもいった風情である。
ゆったりとした黒い着物に、豪華な刺繡の施された金の袈裟をまとっている。年は四十過ぎくらいだろうか。筋肉のはりの感じられる体つきはそれより若いようにも見えるが、穏やかに微笑む顔には深く皺が刻まれ、肩にやわらかく流した長髪には白い筋が混じっているあたり、年齢不詳の感があった。
「ハクリクコウ……」
上ずった声で話しかけたお面男には軽く視線を流しただけで、袈裟の男はまっすぐにはじめのもとへとやって来た。
「安原はじめさんですね?」
それは、いささかの訛りも感じられない、自然かつ完璧な現代日本語であった。
「そうだけど」
「わたくしがここの責任者です。お目にかかれて、大変光栄に思います」
「はあ、どうも」
自然な仕草で握手を求めてくるところを見ると、マスコミを前にして友好関係をアピールする政治家のようだと思った。
男は、はじめの手を両手でガッチリとつかみながら、眉尻を下げて謝ってきた。
「このようなことになり本当に申し訳ありません。まさかこんな形でご足労頂くことになるとは全く想像もしておらず、わたくし共もひどく驚いております。どうか場所を改めて、ご挨拶と状況説明をさせて頂けませんでしょうか」
まずはこんな所から出ましょうと促され、椅子から立ち上がったちょうどその時、はじめが通ってきた赤い門の方から鋭い金属音が響き渡った。
見れば、荷物を載せていない機関部だけのトロッコが、すさまじい勢いで広間に滑り込んで来たところであった。それに乗って来たのは、ラフなシャツとスラックスには全くそぐわない、鼻高の赤い天狗面を着けた男だ。
「ハクリクコー!」
トロッコから飛び降りて駆け寄って来た天狗面に対し、呼びかけられた袈裟の男の反応はごく薄いものだった。
「申し訳ありません。今は忙しいので、また後ほど――」
「我々じゃない!」
袈裟の男の反応を無視し、硬い声で天狗面は続ける。
「ついさっき確認が取れた。営業所のトイレで、うちの作業員が二名拘束された状態で見つかった。身包み剝がされていて、IDとトラックの鍵は行方不明だ」
我々じゃない、と天狗面は繰り返す。
袈裟の男は足を止め、やや眉を顰めて言葉を返した。
「すぐにこちらの者を向かわせます。以後はそちらに」
「――了解した」
「では後ほど」
そう言ってから、はじめの背中に手を当てるようにして歩くよう促す。振り返ると、袈裟の男の肩越しに、天狗面が苛立たしげに頭を搔き毟るのが見えた。
「あいつとちゃんと話さなくてよかったのか?」
「たいした問題ではありません。どうぞご心配なく」
その言い方はいかにもそっけない。
「あんな所に閉じ込められて、さぞかしお疲れでしょう。ゆっくりお休み頂ける場所へご案内いたします」
トロッコとは反対側の門に向かって歩きながらそう言われたが、はじめからすると休むどころの話ではない。
「何が起こっているのか、さっぱりなんだけど……。ここは何で、あんたらは一体、何者なんだ?」
とにかく説明が欲しいと言うと、「ごもっともです」と重々しく頷かれる。
「しかし、安原さんに納得して頂けるのに十分な言葉をわたくしは持ちません。百聞は一見にしかずとも申します。実際に見て頂いたほうが早いかと」
ちょうど門を出る位置に差し掛かり、芝居がかった仕草で男は外へと手を向けた。
「どうぞ、ご覧下さい」
開けた視界の向こう、真っ先にはじめの目に飛び込んできたものは、そこにあると想像していたような、静かな夜の湖畔などではなかった。
はじめの足元には切り出された石で出来たスロープがあり、その先は観光地の展望台にも似た広場となっている。そこを行き交っていたのは、はじめが今までに見たことも聞いたこともないような巨大な生物であった。
絶滅したというジャイアントモアが生きていたならば、こんな感じだったのだろうか。
牛や馬ほどの大きさの黒い鳥が、何羽も荷車に繫がれている。しかも、普通の鳥よりも足の数は一本多い。黒々とした爪をガチガチと鳴らしながら、三本足を器用に動かして彼らは歩いているのだ。
巨鳥――三本足の大烏がこちらを不審そうに見る目には、ただの鳥とは思えない知性が垣間見える。
中には駕籠のようなものをぶら下げて飛び立つ大烏の姿まであり、羽ばたきから生まれる風がこちらにまで届いてきた。
それだけで十分度肝を抜かれるものであったが、はじめの心胆を寒からしめたのは、その巨鳥が飛んで行った、広場の向こうに広がる夜景であった。
目を見開き、恐竜のように巨大な烏の間をのろのろと進む。
広場の反対側には欄干が設けられており、そこから下界が遥かに見渡せるようになっていた。
びっしりと並ぶ灯籠によって、眼下の景観は幻想的に浮かび上がっている。
広場の周囲は、有名な水墨画でしか見たことのないような断崖と突き出た奇岩に囲まれており、山肌からは数え切れないほどの滝が流れ落ちていた。その滝の間を縫うように、また、絶壁に吸い付くようにして、大量の柱で支えられた日本建築が並んでいる。一棟だけでも立派な観光資源になりそうな屋敷や東屋が、ひしめきあうように建てられているのだ。
鳥居のように赤く塗られた門や、屋敷と屋敷を結ぶ橋などが妙に目立って、ぞっとするような威容をかもし出している。
そしてその向こうには、月の光を弾いて、まるで海のように瓦屋根がきらめいていた。
遠景にも分かる。
どこにも近代的なビルはなく、過去にタイムスリップでもしてしまったかのように、瓦屋根の波だけがそこに並んでいた。
――どう考えても、自分が相続した山の周辺にこんな場所はなかった。
地形も、山のスケールも桁違いである。それどころか、ここは明らかに、はじめの知っている日本ではなかった。
「何だ、これ……」
無意識にこぼれ出た声は小さかったが、いつの間にか隣に来ていた男は、それを過たず聞き取った。
「ここは『山内』です。異界、と申し上げればお分かりになりますでしょうか」
その瞬間、トラックの中で聞いた幽霊の甘い声が甦った。
「桃源郷……」
あれは、これのことだったのか。
はじめの呟きを耳にした男は、ああ、と軽く手を打った。
「言い得て妙ですな。確かに、そう申し上げるのが一番分かりやすかったかもしれません」
わたくしも一時期は人間の世界に留学に出ていたのですが、まだまだ不勉強でお恥ずかしい限りですと男は場違いに照れてみせる。
「あんたは一体、何なんだ」
先ほどとは違い、やや畏怖を孕んだ問い掛けであったのだが、男はこれを別の意味で捉えたようであった。これは失礼をいたしましたと言って、はじめに真正面から向き直る。
「自己紹介がまだでしたね。わたくしは、セッサイと申します。雪でセツ、葛飾北斎のサイと書いて雪斎です。どうぞ、そのようにお呼び下さい」
さっと腰を折り、男はにこやかに名乗りを上げる。
「あなたの住む世界に留学した際には、北山雪哉と名乗っておりました。以後、どうかお見知りおきを」
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