

宮本輝氏は、日本各地を回った富山の薬売りの鋭い観察眼と時代認識を通して、黒船来航から王政復古を経て西南戦争にいたる平和と変革の時代を描く雄渾な文学作品を世に問い始めた。本書は、4巻から成る大河歴史小説の初巻にほかならない。語り手の主人公は、紙問屋の跡継ぎながら、富山藩の薬役人に見込まれて薬種問屋の高麗屋へ奉公に入った弥一(やいち)である。薬売りは、風土や気候の違いに弱音を吐き、行く先の人びとと摩擦を起こし、あらぬ疑惑をかけられては仕事も叶わない。主人公は、ひときわ人品骨柄も卑しくなく学業にも秀でた越中八尾(やつお)の特別な青年であった。
大型の北前船などで大坂・松前はもとより、鹿児島とも薬の取引を拡げた越中富山人には、琉球を介して清国などと関係を結んだ薩摩人とも共通する外国への憧憬があった。そもそも富山の北前船は「倍船(ばいぶね)」と呼ばれたほど、一度で大きな儲けが出るのに、年2回も航海して巨利を占めるといわれた。こうした薬や海運の基礎知識を丁寧に解説しながら、幕末人それも商人の目を通して、黒船来航、天璋院篤姫(あつひめ)の将軍家定への降嫁、安政の大獄前夜までの時代風景を素描する筆致は、日本史の学者が読んでも興味深いのではないか。
それでは弥一は何故に本書の主人公に据えられたのだろうか。まず、富山と薩摩との交易に隠された秘密を解くのに、英邁闊達と剛毅沈着を絵で描いた人物に成長する弥一ほど適切な人材を彫塑(ちょうそ)しがたかったからだろう。富山藩ひいては富山の薬売りは、薬種取引に隠れて清朝の望む蝦夷地の干し昆布を鹿児島へ大量に提供した。その代わりに、通常取引では入手しがたい一部の唐薬種を得ることができた。こうして薩摩組と呼ばれる鹿児島担当の薬売りは、鎖国令による禁制を犯した薩摩藩の抜荷(ぬけに/密貿易)を間接的に知る立場にいた。未来の薩摩組指導者と目された弥一は、狂騒や遊楽にふけらず、薩摩はじめ各藩・各港の景況を冷静にとらえる「大きな心」を持っていたのである。弥一当人も富山藩の役人に「大きな心」を持てと言われて以来、その答えを考えてきた。この問いを通して、時代の大きな変化と人格陶冶に向き合う様を描くのも、この長編小説の柱の一つになるのだろう。
いまひとつ弥一と薩摩組に期待されたのは、富山の薬種販売や行商成功の秘訣を鹿児島などの薬屋に教えるようにとの、薩摩藩の厚顔な要求に応えることであった。弥一らは、時に無理無体な求めをかわしながら、薩摩領内にも住むことで、商売上手であり政治の機を見るに敏な同藩の性格を見抜く。英主・島津斉彬(なりあきら)の家督相続をめぐるお由良騒動などの家中内紛、城下士と郷士の身分差別、攘夷論の台頭を弥一の視点から描くことで第1巻は終わる。桜田門外の変から禁門の変に至る事件を扱う第2巻の刊行が楽しみである。
みやもとてる/1947年、兵庫県生まれ。追手門学院大学文学部卒業。広告代理店勤務等を経て、77年「泥の河」で太宰治賞を、翌年「螢川」で芥川賞を受賞。『道頓堀川』『錦繍』『青が散る』『流転の海』『優駿』『約束の冬』『骸骨ビルの庭』など著書多数。
やまうちまさゆき/1947年、札幌市生まれ。専門は国際関係史・比較政治史。近著に『将軍の世紀』『リーダーシップは歴史に学べ』。
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