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青くさみしい魂の

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一穂 ミチ

直木賞作家・一穂ミチさんが読み解く「やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく/梯久美子著」(NHK朝ドラ「あんぱん」開始記念)

出典 : #文春オンライン
ジャンル : #ノンフィクション

 アンパンマンを通っていない。

 本書によるとTVアニメの初回放送が一九八八年、わたしはすでに小学校高学年なので無理もない。もちろん知ってはいるし、それなりに親しみを抱いてもいるが、何となく自分とは無関係な存在だと感じていた。とっくに通り過ぎた道でパレードが盛り上がっていても、わざわざ引き返そうとは思わない。世のちびっ子たちはひと目見た瞬間から魔法にかかったようにアンパンマンの世界に夢中になるらしい、という、都市伝説みたいな逸話を聞いてもいまいちぴんとこなかった。幼少期から愛着のあるキャラクターと言えば、圧倒的にあの、二頭身の青い猫型ロボットのほうだった。

『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』( 梯久美子 著)

 ドラえもんが基本的にのび太専属のメンター役を担っているのに対し、アンパンマンは「飢え」という根源的な危機に瀕した人々を、自らの身を以て分け隔てなく救う。お釈迦さまであると同時に、焚き火に飛び込むうさぎでもある。思えば、何と特異で壮絶なキャラクターだろうか。

 父と死に別れ、母と生き別れた少年時代は、うっすらと青いフィルターがかかったようにさみしく澄んでいる。伯父夫婦にやさしくされても、見上げた星の美しさに心慰められても、やわらかな魂に空いた穴ぼこは埋まらない。嵩(たかし)のように感受性の鋭い人間ならいっそうそのことを強く意識せずにいられなかっただろう。

 穴ぼこにぴったりはまるピースなど存在しないとわかっていても、欠落をふさいでくれる何かを求め続ける人生を歩んでもおかしくないのに、彼は、さみしさを知るがゆえに、誰かの穴ぼこを満たそうとした。口にするのはたやすいけれど、手に入れるのはとても難しい愛や希望や勇気で。

 過酷な戦争と終戦後の高知での暮らしを経て、嵩が東京で出会ったまばゆい天才たちは、さながら小豆を煮るための良質な砂糖のようだ。純度の高い砂糖をたっぷり吸い込み、小豆は甘く芳醇なあんこになる。アンパンマンは、人生の後半期に降ってわいたヒット作ではなく、感受性と人間性を何年もくつくつ煮込んだあんこが仕上がるタイミングを迎えたに過ぎない。すべての創作物がそうなのかもしれないけれど、自身の体験からくる「飢え=絶対悪」という信念、その悪に文字どおり我が身を削って立ち向かうヒーローという着想。人生哲学がダイレクトに反映されたキャラクターがこうも広く世に受け入れられたのは、そもそもの小豆に混じりっけがなかったからだろう。

 そう、この人の人生の「嘘のなさ」は何なんだろう、と読みながらずっと思っていた。ご本人の誠実さもだし、詩にしろ語られる言葉にしろ「思っていないことを言っている(言わされている)」部分がひと言もない。わたしは、自分も含めてこんな大人に会ったことがないので、あとがきを読みうらやましくなった。でもきっと、それが特別だなんてちっとも思わない人でもあったのだろう。

 最愛の妻、暢(のぶ)に先立たれるくだりで、かわいそうに、と思った。家族をたくさん見送ってきたのに、また置いていかれるんだと。でも、嵩は違うことを考えていた。涙が出た。この人は、やわらかな魂を手放さないまま本当のヒーローになったんだ。他者の痛みに自らの痛みで共鳴しながらそっと寄り添い、惜しみない愛をそそぐやさしいヒーローに。

 アンパンマンは、大げさでなくすべてのちびっ子たちにとっての守護天使だ。本書を読めば、どんな子どももアンパンマンに祝福されているのだと思える。本当の言葉しか使わない嵩が「みんなの夢 まもるため」と書いたのだから。アンパンマンが守るから、光る星が消えないうちに、人生の幸せや喜びを求めて羽ばたいてほしい――アンパンマンは、いる。誰にも言えない胸の穴ぼこを知ってくれている。そう信じることができた時、フィクションは温かな血肉を備えた魂の伴侶になる。そうか、魔法って、こういうことだったんだ。

 アンパンマンを通らなかったわたしの胸を、青くさみしい魂の軌跡がよぎって消えない。

文春文庫
やなせたかしの生涯
アンパンマンとぼく
梯久美子

定価:770円(税込)発売日:2025年03月05日

電子書籍
やなせたかしの生涯
アンパンマンとぼく
梯久美子

発売日:2025年03月05日

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