愛する老ネコの緊急事態に備え、あの携帯ぎらいの群さんが、ついに重すぎる腰をあげてスマホを購入‼ そのスマホ初体験の日々を綴った話題のエッセイ『スマホになじんでおりません』が待望の文庫化。普段、私たちの日常生活になくてはならない便利なはずのツールですが、前期高齢者の群さんにとって“初スマホ”はカルチャーショック、驚きの連続でした。
レストランで一緒に食事をしている家族が、それぞれスマホに見入っている光景を横目に見つつ、「スマホを使って便利になればいいが、没頭するのはイヤ」という著者が、スマホ社会に一石を投じる鋭く愉快なエッセイです。
携帯ショップを初めて訪れた群さんが、早くも厚い壁にぶちあたる第2話「携帯ショップでパスワード地獄」を特別公開します。

携帯を持ったことのない群さん、スマホを買いに行く
携帯ショップの前を通ると、いつも人がいっぱいで混雑している印象しかなかった。しかし彼女が予約してくれていたのと、開店直後だったためか、客は私たちしかいなかった。応対してくれたのは若い男性で、友だちが、
「はじめてスマホを持つんです。携帯も持ったことがないの」
と私の状況を説明した。
「そうですか、携帯もお使いになっていなかったのですね」
(きっと面倒くさいおばちゃんが来た、と思ったのでは)
私は彼の心中を察した。しかしそうであったとしても、彼はそんな態度をみじんもみせず、
「わかりました。まず機種をお選びいただけますか」
といった。私が口をはさむ間もなく、
「iPhone8、私と同じのを。わからなくなったら教えてあげられるから」
と友だちがいってくれた。彼は、
「かしこまりました」
とうなずいて席をはずし、箱を手に戻ってきた。
「最後のひとつが残っていましたが、これでよろしいでしょうか。色はシルバーなのですが」
「はい、それで結構です」

私が携帯を持ったこともないと知った彼は、箱からスマホを取り出すと、
「このようなものなのですが」
と目の前に差し出した。とりあえずみんなが持っているのを見て、どんなものかくらいは知っているので、
「はあ、そうですね。わかりました」
というしかなかった。
怒濤(どとう)の設定が続く
携帯電話もスマホも、多少の書類や身分証明書の提示は必要だろうとは思っていたが、本人確認についてはとても厳重だった。パスポート等による本人確認が終わると、次は私個人が使えるようにするための設定である。電話番号については、彼は私の固定電話の番号を聞き、三種類の候補を提示してくれた。すべて最後の四桁が固定番号と一致していた。おばちゃんにはこのほうが覚えやすいと気を遣ってくれたのだろうか。どれにしようかと考えていると、占いにも通じている彼女が、
「ちょっと見せて」
と番号がプリントされた書類をのぞきこみ、羅列した数字を暗算しているようなしぐさをした後、
「これがいいんじゃない」
とひとつの番号を指さした。それは私が選ぼうとしていた番号とは違った。
「それじゃあ、これで」
私はスマホで電話をする予定はほとんどないし、なぜその番号がいいといったのかはわからないまま、彼女の判断に従った。

私はスマホもパソコンのように、購入したら家に持ち帰って開封し、充電したら自分で勝手に設定できるものだと思っていたが、この場でやるという。
「まずうちの会社のサイトにアクセスするための、暗証番号とパスワードをお願いします」
そんなものなど必要と思っていなかったので、
「えっ、えっ、ここでですか」
とあわてながら、急遽、自分が覚えやすい、生年月日などではない暗証番号と、使い回しではないパスワードをその場で決めて、それを書いたメモを彼に渡した。彼はそれを私に再度確認しながら、自分でメモに書き写し、それを私に渡して、
「これは大切ですから、絶対になくさないでくださいね」
と念を押した。私も暗証番号とパスワードは大事だからね、と納得して、
「わかりました」
とそのメモをバッグの小さな内ポケットに入れた。すると、
「次にメールアドレスを決めてください」
という。そんなものもまったく考えていなかったので、あたふたしながら決めた。するとさっきと同じ手順で彼は書き写したメモを私に渡しながら、
「これは大切ですから、絶対になくさないでくださいね」
と再度念を押した。
「わかりました」
とまたバッグの内ポケットに入れた。すると今度は、
「Apple IDのパスワードをお願いします。IDはさきほどのメールアドレスになります。それとこちらのパスワードは一文字だけ大文字にしてください」
といわれた。
またパスワードか! 一体いくつ作ればいいんだ
このあたりから、わけがわからなくなってきた。パソコンはパスワードはひとつだけなのに、こんな小さいスマホを使うのに、どれだけのパスワードを使わなくちゃならないのか。こんなに面倒くさいのなら、スマホなんていらない。そう思いながらもすでに後戻りできない状態になっているので、しぶしぶパスワードを考えた。それを渡すとまた同じ手順で彼はメモ書きを渡し、パスワードを思い出すためによく使われる、初めてのペットだの、好きなバンドだの、両親の出会ったところなどの質問に、適当に答えを書いて彼に渡した。するとまた同じ手順でメモ書きを私に渡し、
「これは大切ですから、絶対になくさないでくださいね」
と再々度念を押した。いったいスマホひとつ使うために、なくしてはいけないものがいくつあるのか。そんな複雑なものは私はいらん! と大声を出したくなったが、友だちは、
「いろいろとパスワードがあって、面倒くさいのよね」
とおっとりというので、これは仕方がないのかと自分を収めて、とにかくなくしてはいけないメモをバッグに入れて、膝の上に抱えていた。
私が渡したメモによって、彼はスマホの設定をしてくれているようだった。そしてやっと終わったと思ったら、
「LINEパスワードをお願いします」
というではないか。
(またパスワードかっ! いったいいくつパスワードを作ればいいんだ。私はさっき自分で考えた、最初のメールアドレスとパスワードでさえ、もう忘れてるぞ!)
と心の中で叫びながら、
「はあ、またパスワードですか……」
と力なくいうと、友だちは、
「LINEパスワードは大事なの。そうしないとツムツムができないから」
というのだ。
「私、ゲームはするつもりはないわよ」
「ツムツムはしたほうがいいの。私がやり方を教えてあげるから。パスワードはさっきのパスワードの大文字のないやつでいいじゃないの」
LINEパスワードも彼女が決めた。
「はあ……」
そしてそれを彼がメモ書きして私に渡してきたので、
「絶対になくしちゃいけないんですね」
と自ら念を押してバッグの中に入れた。
後編は、群さん初のショートメールにチャレンジです!(続く)
〈前期高齢者の群さん、ついにスマホを初購入! しかし、予想をはるかに超える超難関の手続きとパスワード地獄が待っていた〉へ続く