「みっちゃん、俺、もうダメだ!」田中がトイレに駆け込んで…太田光代が明かす、銀座のバーで起きた爆笑問題と立川談志の“修羅場”〉から続く

 爆笑問題・太田光の妻である太田光代さん。最初は爆笑問題と同じ太田プロに所属するタレントだったが、現在はタレント事務所「タイタン」の社長として、爆笑問題を含めた所属タレントのマネジメントに従事している。

 10代半ばにして、母親と別居して一人暮らしを始めたという光代さん。一体何が母子の関係を決定的に裂いてしまったのだろうか。ここでは、光代さんが半生を綴った『社長問題! 私のお笑い繁盛記』(文藝春秋)より一部を抜粋して紹介する。(全4回の3回目/続きを読む

太田光代さん ©文藝春秋

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「宗教二世」

 のちに母との別居を決めたトラブルが起きたのには、仕事とは関係のない別の原因がありました。当時の母は保険の営業員として精力的に働いていましたが、シングルマザーへの風当たりは今よりもはるかに強い世の中でした。

 母は実は、私が生まれる前に親族の勧めである新興宗教に入信していたのです。そして、私が病院から戻ってくる頃になると、よりいっそう宗教活動にのめり込んでいきました。小さい頃は心の距離を感じることはありませんでした。まだ幼かったから、親を疑うような気持ちもなく、母がのめり込む宗教活動もごく日常のことで、私も一緒に地域の会合にも参加していたのです。

 転機が訪れたのは私が6歳の頃でした。同い年の男性との見合い話が母に持ち込まれて、しばらくして母はその男性と結婚することになったのです。2人とも40代半ばになる頃で、お互いに初婚でした。母は未婚で私を産んでいますし、実の父親の記憶もありませんから、私にとっては初めての「お父さん」です。この人は見た目がビートたけしさんにソックリで本人もまんざらではないようでした。当時の私は、母との2人きりの生活が終わってしまう寂しさばかりが勝って、結婚には反対でした。

新しい“お父さん”

「今度から家に新しいお父さんが来るから、仲良くしてね」

「なんでケッコンするの?」

「もう決まったからしょうがないの」

「わたしじゃダメなの?」

 母は少しの躊躇もなく、

「ダメ!」

 と短く答えました。後で知ったことですが、母に父を紹介したのは宗教関係で知り合った方だったようです。よくよく聞くと、紹介してくれた方の知り合いの中に頑なに入信を拒んでいる独身の男性がいて、母と結婚すればあわよくば新しい信者が増えるというあけすけな狙いがあってのお見合いだったように思います。

 結婚して一家は府中市の団地に引っ越すことになりますが、そこでも父に対する宗教の勧誘はたくさんありました。勧誘のパターンはほとんど一緒です。まず、彼らは母に用事があると言って家にやってきます。そして最終的に父を囲んで、入信するよう説得を試みるのです。父は決して高学歴ではないのですが、いつも勧誘に対して理屈で言い返していたことを覚えています。

「そろそろ奥さんと一緒にどうですか」

「いやいや、何を信じるかは自分で決めますから」

「でも、ご家族で旦那さんだけですよ。入会していないのは」

「日本には憲法で定められた信教の自由というものがありますから」

「奥さんだって活動を頑張っていますよ」

「さっきと同じですが、自分のことは自分で決めます」

 それでも父は母の信仰を受け入れていたし、母が自分で稼いだお金を宗教団体へ寄付したり、お布施として納めたりすることにも口を出しませんでした。ただし、自分が特定の宗教を信仰することはありませんでした。それが父の生き方だったのです。

 私は宗教の勧誘に訪れる人たちを何度となく理詰めで追い返す父の姿を見て、「信頼できる人。私も同じように何を信じるかは自分で選びたい」と考えるようになりました。10歳くらいになると、母に対して「もう宗教の集まりには顔を出したくない」とごねるようになります。母は母で、「光代がこんなことを言うのはあなたのせいだ!」と父に怒りをぶちまけていました。家庭に不協和音が鳴り響き始めました。

“巨大仏壇”が部屋を埋めた

 そしてついに、決定的な事件が起こります。

 私が中学生になったばかりのとき、家に帰ると六畳もない部屋のなかに巨大な仏壇が設置されていたのです。当時住んでいた団地は今でいう2LDKの狭い間取りでしたが、その所帯には不釣り合いに大きな、三方開きの扉のついている高級仏壇でした。どう考えても団地の階段を通って搬入できるサイズではなく、おそらく私と父のいない日中にクレーンで吊るして窓から入れたに違いありません。

 学校から帰ってきた私を見るなり、母は自慢げに言います。

「どう? すごいでしょ」

「どうって言われても……」

「これ、全部手彫りなの。ほら」

 母はそう言ってうっとりした表情で仏壇を見つめていました。彼女からすれば、仲間内では誰も持っていないような自慢の逸品です。その日の夜、母は仲間に新しい仏壇のことを話すためか、足取り軽く、宗教の会合へ出かけていきました。残された私は巨大仏壇を見ながら、こう思ったのです。

「お母さんはもう話が通じないところにまで行ってしまったんだ」

 悲しくなりました。母によれば、巨大な仏壇は値段にして1000万円はくだらないものだったそうです。今思えば、一家3人の生活費はすべて父が払っていたのです。保険のセールスは歩合制で、持ち前の営業トークに加えて、宗教でできたネットワークも駆使した母は営業所トップクラスを維持していたので、同世代のなかでもお金を稼いでいたのです。しっかりと貯金もしていた母は、現金一括払いでその仏壇を購入したと誇らしげに語りました。

太田光代さん ©文藝春秋

 しばらくしてから帰ってきた父は、仏壇の前で絶句してしまいました。そして私に向き直った後、ぽつりとこう言ったのです。

「光代、ごめんな」

「え?」

「お父さん、いよいよお母さんと離婚するかもしれない」

 なんで離婚するの? とは口が裂けても言えませんでした。というより、父の気持ちのほうがよくわかったのです。

「ここまで大きいとはな……」

「私のこと、置いていかないで」

 その表情や声のトーンを思い出すと、あのときの父は本気だったと思います。けれど、血もつながっておらず、10年も一緒に住んでいない娘を不憫に思ったのか、結局は離婚を踏みとどまったのです。

「家出高校生」の一人暮らし

 それでも家族の間に一度入った亀裂が修復されることはありませんでした。私は仏壇のある家に帰ることが億劫になりました。前述したように、当時から私は同世代ではかなり珍しく落語、それも立川談志師匠にハマっていたので、立川流のとにかく長い高座によく通っていました。従兄弟が演芸関係の仕事をしていたのでチケットを確保してもらいやすかったんですね。

 高座が終わらないので終電がなくなった私は、深夜喫茶で電車の始発まで時間を潰して朝帰りをしていました。

 10代半ばから帰宅が遅くなる娘を快く思わなかった母との口論は日常茶飯事になりました。

 高校生の頃、帰宅して玄関を開けた瞬間、包丁が飛んできたこともありました。思わず、「何するの!」と声を上げると、母は「遅く帰ってきたから。ちょっとカッとなっただけ」と堂々と言い切るのです。命の危険を感じた私はいよいよ、「この人と一緒にいてはダメになる」と思って、家を出る決意を固めました。

 それもちょっとした「家出」ではありません。高校の近くにある女性専用アパートの一室を借りて、そこに住むことにしたんです。

 嘘をついてもバレると思い、大家さんにはあえて制服のまま会いに行き、「事情があって家では暮らせません。どうか、ここに住まわせてください!」と頭を下げました。今も大家さんには申し訳ないと思っていますが、契約書に書いた保護者のサインは私が自分で書いたものです。それからは喫茶店のアルバイトを二つ掛け持ちして、生活費と家賃を稼ぐようになりました。

太田光代さん ©平松市聖/文藝春秋

 でも、本当に大変なのはここからです。学校に通いながらバイトに追われ、談志師匠を追っかけていた私はある日、職員室に呼び出されます。

「松永さん(私の旧姓)、ちょっと」

「はい」

「あの、言いにくいんだけど……。学費の支払いが止まってるよ」

「え?」

 私がアパートで暮らすことを両親に伝えたら、父は学費を支払うことをやめてしまったのです。さすがに学費は払ってくれるだろうと高を括っていたので、完全に不意打ちでした。父は学費を止めれば、娘は家に帰ってくるだろうと思っていたようです。どうして家を出ることになったのか推測はできるけれど、きちんと話も聞いていない。余計なバイトやお金は学業の負担にもなるから帰ってきて、話をしようというサインだったのでしょう。

 ところが母は違いました。家を出ていった私に対して、母から「保険料を払え」という連絡が来るのです。母は自分の売っていた保険商品を娘にもかけていたのです。こちらからすれば、勝手に保険に加入させられ、なんで保険料を支払わないといけないのか。私はいくらなんでもおかしいのではないかと猛抗議しましたが、母は「家を出たのだから、とにかく保険料は払え」の一点張りで押し切ってきます。仕方ないので払うことにしました。

 かくして、私と母の唯一の接点は保険金の支払いだけになったのです。その後、話を重ねて父は学費を援助してくれるようにはなりましたが、一時期の私は高校生で学費、下宿代、保険料を支払いながら学生生活を送っていたのです。

 高校を卒業してからは、テレビ番組のアシスタントの仕事もやったり、和田アキ子さんがMCになって始まったばかりの『アッコにおまかせ!』のアシスタントや、大橋巨泉さんが司会の『11PM』にも出演したりとがむしゃらに働きました。その後、太田プロダクションに入りました。

 当時の太田プロの同期には、モノマネ芸人として大ブレイクする松村邦洋くんや、これもアントニオ猪木さんのモノマネで一世を風靡した春ちゃんこと春一番、そして爆笑問題の二人がいたのです。これは方々で話していますが、同期芸人たちで合同コントを新年のライブでやってみようということになり、打ち合わせのために私のアパートに集まることになりました。打ち合わせもそこそこに飲み会になり、みんながワイワイ騒いで、一人帰り、二人帰りとなっているなか、最後まで残った太田と春ちゃんが朝方に帰ったのに、なぜか太田だけがまた戻ってきて、そのまま居着いてしまったのです。

出会った頃の2人 ©タイタン

 その後、太田との出会いから1年半ほどで結婚しましたが、そのことを母に告げても、ただ一言、「ふーん、そう」と短く答えるだけでした。いつもの反応です。相手はどんな人なのかを聞くこともなければ、2人で顔を見せなさいと言うこともない。結婚式をやりたくないと考えていた私は、干渉してこなかった母はありがたかったのです。

 太田と結婚したのは爆笑問題の独立騒動の渦中で、太田の仕事がまったくなくなった時期。駆け出しの頃の勢いのまま爆笑問題が売れていくと思っていた私たちは、家賃が20万円ほどする家に引っ越したばかり。みるみる減っていく収入の大半は家賃と光熱費、日々の生活費に消えていき、家計は自転車操業でした。このままでは持たないと思って、私は田中(裕二)と同じくコンビニでバイトを始め、高価なものは質屋に入れていたというのはここまでにも語ってきた通りです。

爆笑問題 ©タイタン

「支払いがまだなんだけど」

 そこにまた母がやってきます。保険料の取り立てです。

 結婚を告げても、ただ一言、「ふーん、そう」と短く答えるだけだったあの母が、私たちの住む家に突然やってきたのです。当時の母は定年の六十歳を超えていましたが、成績優秀だったため契約を延長して働いていました。家出をしてから私が毎月支払っていた保険料は2万円弱です。稼いでいるときはさほど気にならない支出でしたが、収入が減ってしまう時期には実に痛い。一体何のために生命保険をかけているのか。いざという時のために、というのが保険の売り文句ですが、私のいざという時は今ではないかと思っていました。この頃になるといよいよ預金も底をついてしまい、引き落としでの支払いができない状態になっていました。

 母は実の娘を不払いの可能性がある“要警戒”人物扱いして、自ら保険料の回収に乗り出してきたのです。街に人もまばらな夜に突然、我が家のインターホンが鳴りました。扉を開けると、久しぶりに見る母が一人で立っています。

「どうしたの? 急に来て」

 そんなことはお構いなしに、母は堂々と家に入ってきて言いました。

「あなた、保険の支払いがまだなんだけど」

 普通の親子が交わすような「最近の生活はどうか」といった話題は一切ありません。ビジネストークでも、だいたい社交辞令の一つぐらいは言うだろうに、母と娘の関係だからこそ一気に本題に入ってきます。そうだ母はこういう人なんだった……。こうなると一歩も譲らない人であることは私が一番よくわかっています。2万円を必死になって家から探さないと、母は絶対にここから帰らないということだけはわかりました。

 私は覚悟を決めました。

「あれは親じゃないな」

 まずは私の財布に入っているお金をすべて出します。手持ちの現金だけでは足りず、貯金箱をひっくり返します。それでも、やっぱりお金が足りない。次に、家の中に転がっていた小銭を100円でも5円でもいいのでかき集めます。太田は手伝うこともできず、その光景をただ茫然と見ているだけでした。

 時間にして1時間ほどでしょうか、集めたお金を居間に座っている母の前に持って行きました。

「ごめん、手持ちはこれしかないの」

 2万円の満額に届かないことは私自身、わかっていました。

 母は私が出した小銭を手早く仕分けして、1円単位まできっちり数え上げていきます。やはり2万円には届きませんでした。

「1000円足りないけど、今月はまあいいわ。来月にしっかり払いなさいよ」

 そして、去り際に太田に向かって、「あなたがしっかりしないからこうなるの。ちゃんとしなさいよ」。

太田光代さんと太田光さん夫妻 ©平松市聖/文藝春秋

 そう言い放ったのです。太田には私の生い立ちを話していましたから、母がどんな人かはだいたい知っています。それまでは私が母のエピソードを語ると、太田は決まって「みっちゃん、実のお母さんをそんなにひどく言っちゃダメだよ」と優しく諭すような口調で返していましたが、いよいよわかったのでしょう。

 太田もその日、母が帰るなり「あれは親じゃないな」と思わず漏らしていました。

 あのときはさすがの私もこたえましたが、太田はどこかのラジオに出演したときに「すごいんだよ、みっちゃんのお母さんは~」と面白おかしくネタにしていて、まあ談志師匠のようにきちんとオチをつけてネタにしていたので結果オーライです。

「ウチの光は一人息子なんだぞ」子どもができず義父の不満が妻の光代へ…太田光が珍しく言い返した“毅然とした一言”とは〉へ続く