そして希望だけが残った
「パンドラの箱を開ける」という言い回しは、現在でもよく使われる。開けてはならないものを開け、知らぬままのほうがよかったと後悔する場合の表現で、源はギリシャ神話だ。
主神ゼウスが人間世界を創ったが、最初は男だけだった。やがて男たちが増長するようになったので、それを止めるための「厄介者」(!)として女を創ることにした。その第一号がパンドラである。
パンドラとは「全てを与えられた者」の意で、文字どおり神々からさまざまな贈り物をもらって誕生している。
ヴィーナスからは「女神と見紛う美」を、アポロンからは「音楽のように心地良い声」を、ミネルヴァからは「糸紡ぎの技」を、ディアナからは「月の神秘」を、ヘルメスからは「嘘つきの能力」を、といった具合だ。では完璧な存在になったかと言えばそうでもないのが面白い。
パンドラがしでかした失敗は、夫であるエピメテウスの部屋に封印されていた箱を、好奇心からこっそり開けてみたことだ。
すると中からありとあらゆる災厄――老化、病気、苦痛、貧困、悪、嫉妬、煩悶、狂気、死、etc.――が湧いて出て、あっという間に人間世界に蔓延してしまう。
パンドラはあわてて蓋を閉めたが時すでに遅く、箱の底には「希望」だけが残った。「余計なことをして」という鑑賞者からの怨嗟の声が聞こえてくる。
ちなみに夫の名エピメテウスは、「後から考える者」「後知恵しかない者」「後悔する者」という意味だ。よく考えずにパンドラの美と魅力に負けて結婚してしまい、後悔することになる男の典型(?)と言えようか。
多くの画家がパンドラを描いているが、ウォーターハウス作品の、半裸のパンドラが美しい。なよやかな白い肌は良い香りを放ち、足の裏までやわらかそうだ。
背景は小さな滝のある森。華やかに装飾された大きな箱を岩棚に置き、恐る恐るといった様子で少しだけ開けてみる。すでに中から邪悪な煙が出てきているが、彼女はまだそれに気づいていないようだ。「希望」しか残されていないことを知ったとき、パンドラは何を思ったろう?
災厄をまき散らしたことを、彼女が大いに反省したという後日談は聞かない。あんがい開き直って、「見るなというからかえって見たくなったのよ。あなたのせいだわ」と、夫に文句を言ったのではないか。
それが女というものです。
<プロローグ そして希望だけが残った ウォーターハウス「パンドラ」>より





