10月8日に発売されたばかりの窪美澄さん『宙色のハレルヤ』は、6編の短編が収められた恋愛小説集だ。恋愛や性愛についての作品も多い窪さんは、編集者からの本作の依頼に何を感じたのか。刊行に寄せた書き下ろし特別エッセイをお届けします。
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宙色の空の下で
『宙色のハレルヤ』に収められた6つの短編は、「恋愛小説を書いてください」という「オール讀物」編集部からの依頼があって書いた作品だ。
私は小説家としてデビューしてから恋愛や性愛についてたくさん作品を書いてきたので、さぞかし、そういうことにはくわしいのでしょうね、と思われがちだが、まったくそんなことはなくて、未だにそれがどういうものなのか、わかっていない。
正直なことを言うと、年齢を重ねてきて、自分の人生からは、恋愛、というものが遠くなっている。加齢というものにも個人差があるので一概には言えないが、だんだんと、昔のように無防備に人を好きになる、ということも少なくなってくる。
そんな私が書く恋愛って? うーん、うーん、と頭を悩ませながら書いたのがこの作品たちである。
「恋愛小説を」と言われて、すぐさまそれほど年齢差のない男女の恋愛を書いてしまう自分……。そういう自分の奥底にある価値観を、今一度揺さぶってみるということを、この『宙色のハレルヤ』ではやってみた。
恋愛っていったい何? 恋と愛との違いとは? とか、訳知り顔で語ってみたいが、私には明確な答えがない。負け惜しみで言うわけではないが、たくさんの人を瞬時に納得させてしまう短くて強い言葉は怖い。そういう言葉に慣れてしまうと、心のどこかも麻痺していくような気がする。
「恋愛ってこういうものなんですよ」などと発する力が今の私にはないけれど、「恋愛にはこういう形もあるかもしれない」と思いながら文章を重ねて、小説、という形にすることはできる。短時間に強力に効く薬ではなくて、遠赤外線のようにじわじわと、読む人の心をあたためていく言葉を紡いでいくこと。それが小説でできたらいいな、と思いながら書き続けてきた。
それでも、あえて言わせていただくのであれば、恋や愛には、固有の色があるわけではなくて、それは瞬時に色を変えていくものだと思う。時には、にじんだり、ぼやけたりもする。人に理解されないことなんて日常茶飯事で、誰かに非難を受けることだって多い。
誰かが好き、という感情も、大きな島が動くようなときもあれば、一瞬のまばたきのうちに生まれることもある。そんな感情がすぐに消えてしまうことも珍しいことではない。好きだという気持ちを相手に伝えたとしても、うまくいかないことのほうが多いのかもしれない。そんな経験をしても、人は誰かを好きになってしまう生きものだ。
ひどく傷ついた経験があったとしても、また同じことをくり返したりする。それを愚かなことだと言える人など、この世界にはいないはず。私のそういう思いが、この短編集のどこかにひそんでいて、読者の方が受け取ってくれたら、これ以上の喜びはない。
「宙」という文字はいつかタイトルに使いたいと思っていた。
空を超えて、宇宙に近づくほどに硬質な色を帯びる青をイメージした。
「パスピエ」や「雪が踊っている」など、ドビュッシーの曲名からタイトルを使わせていただいた作品もあるので、宙色の空の下で、皆がダンスをしているイメージで、とデザインをお願いし、装画の宮岡瑞樹さんと装丁の大久保明子さんが素晴らしい表紙に仕上げてくださった。
カトリックの学校に通っていたので、クリスマスの時期が近づくと、毎年ハレルヤコーラスの練習があった。上手に歌えていた、とは思えないけれど、あの歌には妙な高揚感があって、歌っているうちに体と心にたまっている澱が燃やされていくような思いがしたものだ。そんな大げさなものではなくても、この本を読んだ方の体温が、ほんの少し、上がってくれたらいいな、と心から思う。これから年末に向かって、忙しい日々が続くのだろう。季節の合間、深呼吸するように読んでほしい。









