憧れの大手出版社で文藝編集者を目指す入社二年目の日向子が、悪名高き「週刊千石」で芸能人のスキャンダルを追いかけ、事件現場の張り込みをする羽目に――ひよっこ週刊誌記者の奮闘を描く『スクープのたまご』(大崎梢原作・文春文庫)のドラマ化を記念して、スピンオフ新作短編「議員会館で昼食を」を期間限定公開!
参議院議員に当選した新人女性議員・三村に取材した日向子は、男社会で頑張るお互いの胸の内を語り合い意気投合したが――
議員会館で昼食を
永田町駅の改札口を出ると、自動販売機の横にカメラマンの州崎がいた。
歩み寄る日向子に気付いたのか、見入っていたスマホから顔を上げる。すかさずおはようございますと会釈した。今日は日向子の提案した企画の取材で、州崎はその様子を撮影してくれる。
「週刊千石」に異動になって一年半、未だにペーペーで使いっ走りが主な仕事だが、ちょっとした企画は通してもらえるようになった。これまで“至福の日帰り温泉”や“おすすめバル巡り”など、巻末に載せるカラーページをいくつか担当し、このたびの企画は“一年生のお昼ご飯”。さまざまな業界に参入して一年目という人たちが、どのような昼食を取っているかをレポする内容だ。すでに離島の内科医や裁判官、気象予報士は取材を終えている。今日はこの七月に参議院議員になったばかりの女性議員を訪ねる。
一番出口から地上に出れば議員会館はすぐそこ。平成二十二年に完成した建物で地上部分でいうと十二階建て。ほぼ同じ形の三棟が建ち並んでいる。そのうち二棟は衆議院議員会館、永田町駅から見て一番近い一棟が参議院議員会館だ。
日向子はこれまで衆議院議員会館には二回訪れているが、参議院の方は初めて。受付の形式や手荷物検査など、セキュリティーが厳重なところは変わらない。広々としたエントランスホールには制服姿の警備員やスーツ姿の男女の他、一般見学者や地方からとおぼしき陳情者一行が散見される。議員会館を訪ね、国会議事堂を見て歩くのが定番だ。
議員会館の中は会議室や食堂、各議員が執務する事務室で構成され、めでたく議員バッジを確保した先生たちに一室ずつ与えられる。任期中はそこを活動拠点とし、公約を実現すべく各所に働きかけたり研鑽を積んだり、打ち合わせを行ったり、陳情者の訴えに耳を傾けたり。
日向子が取材する相手もここにいる。今年三十一歳になる三村史佳議員。このたび野党第三党に躍進を遂げた清和党に所属し、東京都出身。主な公約は勤労者の税負担軽減と社会福祉の充実だ。
約束の時間は十一時三十分だったので、それより十分前に受付をすませセキュリティーゲートを抜けた。エレベーターに乗って六階で降り、長い廊下を歩く。目指すドアに到着してノックをすると、四、五十代とおぼしき男性がにこやかに出迎えてくれた。
「週刊千石の信田日向子と申します。今日は貴重なお時間をちょうだいし大変恐縮です」
「いえいえ、よい機会をいただいたと喜んでおります。どうぞ奥へ」
なめらかな誘導に従い中に入る。議員に与えられる部屋は100m²ほど。いくつかに仕切られ、入ってすぐのスペースには打ち合わせができるような机と椅子が置かれている。その奥の窓側が秘書たちの執務エリアだ。公設秘書は公費で三人まで雇える。スタッフ用のデスクが配置され、机の上に見えるのはパソコンやファイル、封筒の山。左側の壁一面にはずらりとキャビネットが並んでいた。
右側の壁にはドアがあり、日向子たちが秘書と言葉を交わしているとそこから女性が現れた。すらりとした容姿に、前髪をおろした軽やかなショートカット。清潔感のある風貌が硬すぎもせず柔らかすぎもせず、いい案配で親しみを感じさせる人だ。
これまで日向子は女性に限っていえば、ふたりの国会議員とやりとりしたことがある。どちらも大臣経験ありのベテランで、特別な自分に絶大なる自信を持っていて、ひとりはざっくばらん、自由闊達、弾けるような笑顔と共にいきなり距離を縮めてくる。「週刊誌は男の世界でしょう」「あなたも大変ね」と耳打ちするように言われ、心がくすぐられるどころか硬直してしまった。飲み込んでやる気満々の圧におののき、頭を抱え込みそうになるのを必死にこらえた。
もうひとりは記者など眼中にないと言わんばかりの横柄な人で、日向子が顔色をうかがいながら質問すると「聞こえない」と一喝された。頭が真っ白になってしまい、くるりと背を向けられてむしろ安堵の息が漏れかけた。「私の本を読んでから来なさい」「同じ質問をしない」が決まり文句だとあとから知る。
これに懲りて国会議員には苦手意識があったが、選挙の前後は政界を絡めた企画の方が通りやすい。実際にOKを出すときのデスクの指先は「国会議員」という文字を叩いていた。
苦い経験を踏まえて各党の新人議員を慎重に検討し、この人ならばと希望を託したのが三村議員だ。経歴は華々しすぎず、公約も控えめで、選挙演説の動画も初々しさが前面に出ていた。実際に会ってみると期待通りで胸をなで下ろす。服装は威圧感のまったくない白いブラウスにグレーのパンツスーツ。メイクはナチュラル系。清楚な雰囲気を引き立てている。
ひと通りの挨拶や名刺交換の後、奥の部屋へと招き入れられた。木目調の机を椅子が囲み、小さな会議室の趣だ。陳情者の意見や話を聞く場なのだと思う。
その部屋にはもうひとつドアがあり、開けて中に入ると真っ先に目に飛び込んできたのは窓際に設えられた立派なデスクとチェア。議員の執務室だ。広い窓からは都会の町並みが一望できる。
汗水垂らして選挙戦を戦い抜き、数十万、あるいは百万以上の票を得て、やっとたどり着ける場所だ。全候補者が喉から手が出るほどほしい椅子にちがいない。そう思うと感慨深いが、のんびり浸っている暇はない。与えられた時間は三十分だ。
デスク手前の応接セットが撮影にちょうどよいということになり、州崎がさっそく準備を始めた。三村議員の今日のランチは、議員会館まで来る途中で買ったおにぎり弁当だそうだ。カラフルな水玉模様の包装紙にくるまれた実物が登場すると、シャッター音がひとしきり続いた。
途切れたところで包みをほどいてもらう。蓋が開けられる。のぞき込んでいた日向子は思わず歓声をあげた。
「かわいい。おしゃれ」
小さなおにぎりがふたつにおかずが数種類。花形のにんじんや艶々の枝豆がキュートで彩り的にも美しい。
「でしょう。見た目だけじゃなくお味もいいの。ボリュームも手頃だし」
気さくに応じてもらいその場の空気がほぐれた。秘書の男性ふたりも笑顔で見守る。国会議員になっても傲ることなく身近で庶民派という、“うちの先生”の好感度アップに、週刊誌が一役買ってくれれば万々歳なのだ。
「お昼はよくお弁当を召し上がるんですか」
「会食の入っていない日はだいたい。お気に入りのお店がいくつかあって、どれにしようかと迷うのも楽しみで。昔の私からしたらとっても贅沢な話です。以前はチープな手作り弁当の一択でした」
彼女は大学の社会福祉学部に進み、児童館や子ども食堂にボランティアとして参加する一方、各種手当ての仕組みや問題点について学び、未来に向けての提言をまとめた卒論は学長賞を得ている。
けれど新卒で入社した一般企業はわずか三年で経営難に陥り解雇を告げられる。その後は正社員になかなか就けず、ようやく入れた二社目はセクハラ行為や残業代の未払いに堪えかね退職。続く数年は派遣で働きながら過重労働や低賃金に苦しんだ。
そんな折り、学生時代の先輩に誘われて市議会議員候補の選挙戦を手伝い、政治の世界に足を踏み入れる。
「これからちょうどお昼時ですが、午前中はどのように過ごされましたか。午後のスケジュールなども答えられる範囲でかまわないのでお聞かせください」
州崎の要望に応えさまざまなポーズを取っていた三村議員が快活にうなずく。
「午前中は官民共同の勉強会に参加していました。中学生の居場所について考える会です。児童館だけでは対応できないので、この先どうすればいいのかを話し合いました。午後は法改正についての資料読み。勉強しなければならないことがたくさんあって、毎日しっかり積み重ねています。そういった時間のあと、夕方には新しくできたケア施設を訪問して、現場のスタッフさんからご意見をうかがう予定です」
まるで練習してきたような模範解答だ。すらすらとよどみなく言われて物足りなさを感じないでもないが、載るのは巻末近くに彩りを添えるページだ。問題提起はなくていい。文字数も少ない。
ありがとうございますと返し、日向子は和やかな空気を壊さぬよう撮影を見守る。取材は順調に進み、州崎のOKサインが出ると撤収作業はあっという間だった。三村議員やふたりの秘書に礼を言い、記事の確認は後日あらためてと伝え、日向子たちは事務室をあとにした。
「いつもこんなふうだと助かりますね」
「社からも近いしな」
地下鉄に乗れば日向子の勤務先である千石社までほんの二駅だ。
州崎はこれから別の仕事に向かうと言う。一階のセキュリティーゲートの手前で別れた。日向子はトイレに寄り、人気のないところでスマホに届いたメールをチェックする。急ぎの用事はないのでついでにネットニュースも眺めていると新着メッセージがあった。
それを見てぎょっとする。三村議員からで、名刺入れを落としていませんかとある。すぐに鞄や上着のポケットをあさったが見つからない。続けて画像が送られてきて、「うわっ」と仰け反る。
「私のです。取りに戻ってもかまいませんか」
あわてて送ったメッセージには「どうぞ」と返ってきた。
ついさっき失礼したばかりの廊下に立ち、ためらいがちにノックをすると議員本人がドアを開けてくれた。
「お世話をかけてすみません」
「応接セットのソファーの脇に落ちてました」
「見つけてくださってありがとうございます」
「カメラマンさんは?」
「次の仕事があるので先に帰りました。私は急ぎの用もなく、まだ館内におりまして」
議員はほんの数秒、間を開けたのちに言った。
「もしよかったらお茶でも飲んでいきません?」
身体をずらしてドアをさらに開ける。
「誰もいませんし」
その言葉に手招きされるようにして日向子は部屋に入った。確かにがらんとして人の気配がない。政策秘書は出張中だそうで最初から不在だったが、さっきまでいた秘書たちは昼食を取りに出たという。
「ここにいるときはほとんど執務室にひとりで、お昼ご飯もそう。さっきのあれは演出でもなんでもないんです」
三村議員はキャビネット横のミニキッチンに入ると紅茶でいいかと尋ね、うなずく日向子を見て花柄のカップを取り出した。ティーバッグを入れてポットからお湯を注ぐ。トレイに載せて執務室に運んでくれる。
「たまには誰かとしゃべりたくなって。急に誘ったりしてごめんなさい。驚きましたよね」
「いいえ。しばらく用事がないのはほんとうです。声をかけていただいたのも嬉しかったですし」
応接セットのテーブルには先ほどのお弁当に蓋がされていた。日向子の視線に気付いた議員はあとで食べると言う。
「ああでも、信田さんも昼の時間なのに」
「朝が遅かったのでランチはまだ先です。先生にいれていただいて恐縮ですが、紅茶、ご馳走になります」
「『先生』はやめてください。柄じゃないので」
「そんなことはないでしょうが。でしたら三村さん? いいんですか?」
にっこり微笑む彼女に会釈して、日向子はソファーに腰を下ろす。ティーカップを手に取って温かい紅茶で喉を潤した。突然の展開や相手に合わせることには週刊誌の仕事を通じてだいぶ慣れてきたけれど、もともと社交性に富んだ性分ではない。如才ない会話ってどういうものだっけ。二口目の紅茶を飲みながら考えていると、三村の方から「私ね」と話しかけてくれた。
「週刊千石の記者さんってどういう人かと、朝から緊張していました。でも現れたのがふんわりした優しそうな人でひと安心。もっとパキパキしたしっかり者の敏腕女性をイメージしてたから。あ、私、もしかしたら失礼なことを……」
「大丈夫です。いつも言われていますし、自分自身が一番そう思っています。まさかこの私が週刊誌、それも週刊千石の記者だなんて。五年前、十年前の自分に言ったら大笑いして信じてくれません」
「信田さんは記者を目指していたわけではないの?」
強く首を横に振り、「ちがいます」と否定する。子どもの頃から本が好きで出版社は憧れの就職先だった。けれど成長するにつれ、愛読している本の会社は高望みだと思い知り、記念受験ならぬ記念就活をしていると、総合出版社である千石社から内定が出てびっくり仰天。入れたからには頑張ろうと心に誓い、じっさい初めての配属先では頑張った。けれど二年目に異動が言い渡され、新たな職場は週刊千石だった。
「千石社に週刊誌があるのはもちろん知っていました。とても自分には務まらないハードな部署だと恐れる気持ちはありましたけど、どうせ入社できないからと棚上げし、入ってからは夢見心地で引き続き棚の上に。そしたらいきなり大音響と共に落ちてきたんです」
「たしかに稲妻並みのインパクトがあるわね」
「ですよね。私、事件班に配属されたので聞き込みも張り込みもやるんですよ。あるときは深夜の墓地で怪しい人物を待ち伏せしましたし、容疑者の実家近くでは『一昨日来やがれ』とバケツの水をかけられそうになったことも」
「待って。そういうのって外部の専門家に頼むんじゃないの?」
「よそは知りませんが週刊千石は社員がやります」
えーっと奇声を出されて日向子はうなずく。
「私も異動になる前は、どこかのベテランがやってるんだとばかり思っていました」
「それは大変だ」
「なので今日みたいな仕事は天国です。穏やかで平和で安全で」
おまけにお茶まで飲ませてもらっている。帰れば何が待ち受けているかわからない。一寸先はなんとかの世界だ。
「天国と喩えてもらったあとに言いづらいけど。でも、私にとっては国会議員がいきなりの稲妻だったなあ」
「は?」
「私もぜんぜん考えていなかったの。五年前、十年前の自分に言ったら、なんの冗談と笑われるだけよ。未だに私自身、まさかと思っている」
三村はそう言って小さく息をついた。
「誰にだって今の社会への不満はあるんじゃないかな。信田さんにも。私のそれは賃金格差や福祉制度に対する不満というか憤りだった。そういう気持ちを抱えて人の選挙を手伝っていたら、あなたも動きなさいよと焚きつけられて、清和党の候補者募集に応募してしまったの。出馬が決まり引くに引けなくなって頑張りはしたけれど、まさか当選するなんて。まわりも私も思っていなかった」
追い風という言葉が日向子の脳裏によぎった。選挙活動はほとんどすべての立候補者が死に物狂いで力を出し尽くす。朝から晩まで駆け回る。そして、当選を手中に収める者がいれば落選に甘んじる者もいる。結果を分けるのは各人のさまざまな力によるだろうが、選挙中、時代の風が吹くことがある。人々の不平不満、期待、気分が巨大な風となって候補者にぶつかる。前からならば勢いを潰され、背後からなら押し上げられる。
七月の選挙において清和党は追い風を受け、多くの候補者を当選させた。三村もそのひとりだ。
「でも、三村さんの訴えがたくさんの人の心に刺さったのは事実ですよ。期日前投票も含め、投票所に足を運び、用紙に名前を書き込んだ人が数十万人いたんです。すごいことですよ。私のは単なる配置転換で、なんの努力もしていません」
日向子の言葉に三村は頭を少し動かしたが、うなずいたというより礼を伝える仕草だ。
「気を遣わせて申し訳ない。こんな話をしたかったわけじゃないんだけど、私、自分が思うよりずっとめげているのかもしれないな」
「無理ないですよ。慣れないことばかりでしょう? 期待されてのプレッシャーもあると思います。疲れるのは当たり前ですよ」
「日々の活動については田中さんたちが教えてくれるから、困ることはないんだけれど」
田中とは第一秘書の名だ。
「あの方たちとはいつ頃からの付き合いなんですか?」
「当選してここに入ってきたときよ。党が付けてくれた人たちで、なんでもよく知っている。言われた通りにしていればまちがいないというのはよくわかる。ただ、あるとき聞いてしまったの。私が近くにいるとは思っていなかったみたいで、他の先生の秘書さんと雑談していた田中さん、『お嬢さんのお守りはどうよ』と聞かれて、『ある日突然、辞めると言い出すんじゃないかとひやひやだよ』って」
なんと。
「『へそを曲げたら厄介だよね』と返され、『女性、若い、ハケン。こんなに売り出しやすいセンセイは貴重だよ。大事にしなきゃ』と笑ってた」
日向子は目を見張る。「お嬢さん」や「へそを曲げる」は軽く見ている典型だ。支えてくれるはずの秘書まで、若い女性なら誰でもいいという口ぶり。
執務室にひとりでこもりたくもなるだろう。その執務室はいかにも上質そうな重厚感のある調度でまとめられている。昼食のお弁当を見る限り、三村はかわいらしいものが嫌いではなさそうだ。けれど部屋には余計なものは花ひとつ、マスコットひとつない。ここで内面を覗かせてなるものかと決めているようなシンプルさだ。
彼女の置かれている境遇と、彼女の口惜しさを物語って余りあった。
秘書たちが戻ってくる前に失礼して日向子は千石社に向かった。地下の社員食堂で炒飯を食べてから週刊千石の編集部に戻り、自分のデスクに荷物を置く。デスクの北浜が席にいたので報告がてら三村とのやりとりを話した。
若い女性である国会議員が慣れない環境の中、疲弊している現状を訴えたかった。同世代の女性として共感しかない日向子の憤りを、デスクが受け止めてくれるかどうかはさておき、班のメンバーは出払っていてデスクに報告するしかない。
「まあね、そんなものだろうね」というのが第一声で、少し安堵する。「何甘っちょろいこと言ってんだ」と、呆れられるような気もしていたので。
「叩き上げの秘書がいかにも言いそうだ。お嬢さん議員のお守りを仰せつかって、参議院議員の任期である六年間、何事もなく自党の議席を守り通すのがそいつの役目だ。ひょっとしたら六年後、その議席に秘書本人が取って代わる可能性だってあるんだし」
「えっ、そうなんですか。ってか、ひどいじゃないですか。ひどい話ですよね」
「瓢箪から駒で転がり込んできた議席だ。党幹部にしてみても有意義に使いたいさ。お嬢さんは余計な意見を持たず、おとなしく党の方針通り決議に参加して、清く正しくかわいい票集めパンダでいてもらわなきゃ。スキャンダルは全力回避。妻子持ち議員と親密な関係ってのが一番まずい。好感度がた落ちで、せっかくの選挙区一議席が泡と消える」
やけに嬉しそうに相好を崩すデスクに、日向子は冷ややかな一瞥を送った。
「今の発言、女性蔑視が端々に」
「いやいや、おれの意見じゃないよ。連中はそう考えるだろうなってことで。いずれにしても急速に議席を伸ばした清和党ってのは、今後、実に見物であって……あ」
ふんぞり返って気持ちよさそうにしゃべっていたデスクが不意に固まる。背もたれから身体を起こす。
「どうしたんですか」
「そうか、清和党。ついさっき、となりの神尾さんが来てさ」
にわかに声を落とし、まわりを気にするようにして言う。
「先週の金曜日に、清和党の中堅議員が新人議員相手に勉強会を開いた。気構えやノウハウをレクチャーするよくある会だ。ところが今週になって急に、あのとき聞いたことを外に漏らすなと、参加者全員にメールで通達があった。箝口令が敷かれたんだよ」
今日が水曜日なので、一昨日か昨日のお達しか。
「何かあったんですか」
「漏れたらまずいことを講師役がしゃべったんだろうな」
なるほどと日向子は口を開けて首を縦に振る。よっぽど間が抜けた顔になっていたのか、北浜は鼻に皺を寄せて舌打ちする雰囲気だ。
「神尾班が情報の切れ端を掴み、深掘りすべく本腰を入れた。うちにも清和党に伝手のあるやつがいないかと聞いてきたわけだ」
「まずいことって、たとえば?」
「ここしばらく清和党でスキャンダルは出てない。となると、うまくもみ消した不祥事があったのかもしれない。どこかのキャバレーで暴力事件を起こした議員がいたとか、セクハラ行為で訴えられそうになった議員がいたとか、それこそ不倫してたのがいたとか。でなきゃ金絡み。帳簿に不記載の政治献金や選挙活動費ってのもありえる。もみ消しは大変だから君たちも気をつけるようにと、えらそうにお説教でもしたんじゃないか」
どれもこれもありえそうなネタだ。週刊千石の見出しでおなじみの不祥事とも言える。
「こちらの読みが当たれば、当たりだらけのくじ引きみたいなもんだよ。ちょっと待て。確認してくる」
北浜は立ち上がり、編集部内を見回すと素早い身のこなしでどこかに行ってしまった。日向子は自分の席に戻り、何も手につかずぼんやりした。今の話を反芻する。清和党にスクープのネタがありそうだ。詳しい情報を引き出すべく、所属議員に伝手のある者を探している。もしもいたら、さっそく当たるようデスクは檄を飛ばすのだろう。
会ったばかりの三村の顔と、がらんとした執務室が日向子の脳裏に浮かんだ。自分のことを「女性、若い、ハケン」としか見ていない人たちに囲まれ、息の詰まる日々を過ごしている。そんな三村を少しでも元気づけたくて、秘書たちが昼食から戻るまでの短い時間、日向子は新米記者の悪戦苦闘ぶりを披露した。脱税容疑のかかる会社経営者に話を聞くべく食い下がると、相手は「女の子はあんみつでも食べてろ」「週刊千石も落ちたもんだ」と鼻で笑ったが、とっさの揶揄にしては具体的な「あんみつ」が引っかかり、重点的に調べた結果、彼が出資した和カフェで働く女性が元愛人と判明。彼への恨み辛みが溜まっていたらしく、面白い話を聞くことができた。
男の発した言葉に憤慨してくれた三村は、思わぬところからの形勢逆転に手を叩いて喜んでくれた。別れ際、何かあったらいつでも連絡してくださいと日向子が言うと、「信田さんもね」と返され胸が熱くなる。心に灯がともるような交流が、つかの間とはいえ生まれた気がするのに、それをへし折る指示がほんの数時間後に下るなんて。
ふいにスマホが震動する。北浜からの電話だ。打ち合わせ室にすぐ来いと言う。“室”といっても編集部フロアの奥まった場所にあって簡単に仕切られただけのコーナーだ。
行ってみると中にいたのは北浜ととなりの班の神尾だけ。神尾は北浜よりいくつか年上で、痩せた北浜と対照的にかなりふくよかで顔もでっぷりしている。これまで挨拶程度のやりとりしかしていなかったので、至近距離で向き合って話すのは初めてだ。北浜を含め三人で立ち話になる。
「今、うちが追ってるネタについて、おおよそのことは北浜くんから聞いたと思う。君が今日、三村議員に会って来たというのはすごいタイミングだ。彼女はまさしく問題の勉強会に参加している」
日向子は目を合わさずうなずいた。
「講師役を務めたのは堂島辰郎議員。今年四十八歳になる清和党の出世頭だ。勢力を拡大している最中で、新人を抱き込みたい思惑もあったんじゃないか。議員の心得なんかをあれこれ語ったはいいが、しゃべりすぎてついうっかり口を滑らせた。箝口令を敷くからには相応の内容にまちがいない。他に嗅ぎつけられる前に、なんとしてでも押さえなくては。それには君の協力が必要だ。すぐ三村議員にコンタクトを取り、探りを入れてほしい」
熱っぽく畳みかけられて後ずさりそうになる。神尾はもともと政界ネタに強く、民間企業への国有地売却の件で、仲介役を果たした議員を告発している。巨額の利権を得て私腹を肥やしていたのだ。事情を知っている側近への口止めも悪辣で、スクープした号は完売。第二弾、第三弾と巻頭特集は続いた。
「君が行った取材は、巻末のグラビアページだったっけ」
「はい。あらかじめ三十分以内と言われてまして、今日のスケジュールやお弁当の内容についてやりとりしただけです」
横から北浜が口を挟む。
「取材のあと、議員に誘われて執務室でお茶を飲んだんだろう。君の話からすると相手はかなり深い本音を漏らしている。現状について苦しい胸の内を明かしているんだ。うまくアプローチすればきっと何か引き出せる。記者として腕の見せ所だよ」
返事に窮することを言わないでほしい。ついこの前も、奥さんと別居の噂が流れる大御所歌手への追及が手ぬるいと、なじられたばかりだ。大した腕を持っていないことは一番よく知っているだろうに。その北浜がさらに言う。
「おい。君は今日、なんのために議員会館に行ったんだ。人のお弁当を見て楽しく笑ってくるだけが仕事じゃないぞ。しっかりパイプを作る。いずれそれを有意義に使う。これだよ、これ。作るとこまではできたんだから、次は使うだ。『いずれ』が早まっただけだな」
少しくらいは言い返してもいいだろうか。北浜相手に顔を曇らせていると、神尾が先に口を開いた。
「となりの班から見てて前から思っていたけれど、信田さんは相手に警戒心を持たせない人だよね。裏でずる賢いことを考えていない、うまくやろうと計算していない、そう思わせる人だ。だから相手は心を開いてくれる。私や北浜くんにはない資質で、ちょっとだけ羨ましいよ。ないものねだりってやつだね。ちょっとだけと言ったのは、そういう性格ならではの苦労もあるだろうと思うから。そして本人が作為的ではない分、私や北浜くんが都合良く使うこともできない」
北浜は肩をすくめ、苦笑いを浮かべたまま黙っている。
「君は君の判断で情報収集に励んでくれれば十分だ」
神尾の言葉に「え?」と聞き返す。
「無理しろとは言わないよ。電話やメールではなく、直に会って話を聞いてくれると助かるが。先週の勉強会でどんな話があったのかを尋ね、三村議員がどういう顔をするのか、何を言うのか、注意深く見定めてほしい。私からの要望はそれだけだ」
丁寧な口調で穏やかに言われ、どこか拍子抜けする一方、何が何でも絶対でないならばと消極的なやる気もほんの少しもたげる。一〇〇メートルを十秒で走れと命じられたら逃げ出すしかないが、遅くてもいいから走ってみてよと言われれば、ほんとうに大丈夫かと疑いながらもスタートラインに向かう。そんな感じ。
「いろいろ気遣っていただきありがとうございます。どこまでできるかわかりませんが、頑張ってみます」
「おお、よかった。助かるよ。信田さんの報告を楽しみに待っている」
長居は無用だ。ふたりのデスクに見送られ日向子は打ち合わせ室を出た。
「頑張ります」とは言い切れず「精一杯」も「私なりに」も付けられなかった。ためらいや戸惑いはまだくすぶっている。けれどフロアに戻ると不思議と肩の力が抜け、まっすぐ前が向けた。
異動から一年半。いつの間にか慣れ親しんだ職場が目の前に広がっている。外から戻ってくる人と出て行く人が通路ですれちがい、無人の机の上にはファイルや雑誌がごちゃごちゃ積まれ、椅子を寄せ合い熱心にしゃべっている人たちもいれば、閉じたノートパソコンに突っ伏して寝ている人もいる。
いつも何かを追いかけて、無茶ばかりしている雑誌を作り続け、ときに人を傷つけ自分も傷つく。暴いたスキャンダルのせいで贔屓のタレントが引退に追い込まれたと、馴染みの中華料理店で叱責されたこともある。それまで「大変な仕事だね」と声をかけられていたので驚いた。自然と足が遠のき、おそらくもうあの暖簾はくぐれない。事件の被害者宅のインターフォンが押せなくて、いつまでも立ち尽くしていたら不審者として通報されたこともある。暴力事件を起こした俳優の実家では、思いやりのある優しい子だと必死に庇う祖母の姿に、胸が詰まって涙をこらえるのがやっとだった。
こんな仕事はたくさんと、叫びたくなった人は少なくないだろう。もしかしたら大なり小なりみんな思っている。でも目の前には任された仕事に取り組み、没になりそうな小ネタでも掴みきれない大スクープでも、記事の精度を上げるべく努力を重ねている人がいて、それぞれの背中に教えられる。どんなにしんどくても、自分はひとりじゃないのだと。
日向子も席に戻る。座る。急ぎの仕事から順に取りかかる。精一杯、頑張る。
三村への連絡は交換したばかりのIDを使ってLINEでメッセージを送った。
文面は慎重に考えた。
〈今日会ったばかりで恐縮ですが、お目にかかってお話ししたいことができました。近日中にお時間をいただけないでしょうか。どちらでも、何時でも、参ります〉
夕方からケア施設に行くと聞いていたので、夜の八時過ぎに送付する。二時間後に既読マークがついて返信があった。
〈内容がとても気になりますが、会って話した方がよさそうですね〉
メッセージには翌々日の金曜日、夜九時前後、三軒茶屋にあるカフェバーと、日時や場所が指定されていた。さっそく北浜に報告する。北浜から神尾に連絡が行くだろう。
三軒茶屋にはまったく詳しくないので、カフェバーの名前で検索し、マップ上で細かく確認した。駅前の賑わいから離れ、路地裏のひっそりとした場所にある雑居ビルの一階。狭い間口だが奥行きがありそうだ。
約束の金曜日、指定された時間の少し前にたどり着く。店の人には自分の名前を伝えるようLINEにあったのでそうすると、一番奥にあるテーブル席に案内された。
観葉植物が置かれているので密談にはもってこいだ。いい店を知っている。感心していると五分ほどして三村が現れた。お互いに如才なく挨拶し、雨が降るかと思ったけれど大丈夫そう、朝晩は冷えてきましたね、などとあたりさわりのない話をして、それぞれビールを頼んだ。前菜盛り合わせも注文する。
「ここは知り合いの店なの。いい感じに放っておいてくれるから、込み入った話もできるのよ」
含みのある視線を向けられ、ありがとうございますと日向子は居住まいを正した。国会議員の貴重な時間をもらっている。雑談はほどほどにして本題を切り出した。
「先週、清和党さんで新人議員対象の勉強会があったそうですね」
とたんに三村の顔つきが変わる。驚きの表情ではないので見当は付いていたらしい。
「一昨日の昼間にお会いしたときは私自身、まったく知りませんでした。けれど帰社してデスクから聞かされまして。堂島議員がお話しになった内容を、外に漏らさないようにとお達しがあったとか。なぜなのか、三村さんに心当たりはありますか」
「ずいぶん単刀直入ね」
「ぐいぐい過ぎますか」
「ううん。率直に話せた方が私も助かる」
ビールと料理が運ばれてきたので場所を作っておしぼりで手を拭く。前菜はひと皿ずつに盛り付けてある。まずはひと口と三村が言ってくれたので、冷たいビールで喉を潤す。
「信田さんは上司に言われ、私に連絡を入れたのね」
「はい」
「ちょうどいい情報源があった。使わない手はない。行けっ、てところ?」
「申し訳ありません」
「いいのよ。それがあなたの仕事なんだろうから」
物わかりの良いことを言われて心苦しい。
「ただ、一昨日の昼間は週刊千石への異動を大災難のように言っていたでしょ。その割に上から言われれば、何の迷いもなく取材対象から話を引き出そうとする。もう立派な一人前の記者じゃない」
「とんでもない。まだまだ半人前もいいとこです」
日向子が真顔で返すと三村はくすっと笑った。
「今のちょっと嫌味のつもりだったんだけどな。でもそうね、一人前をどこに置くのかは人それぞれで、自分なりに目指したい場所があるか」
「今回は政界に関する事案だったので、私みたいな小物でも頑張らなきゃという気持ちになりました。うちの編集部はみんな、政治ネタには目の色が変わるんです。政治じゃなくても大企業とか大病院とか芸能界の大ボスとか、相手が強くて大きいほど何くそと思うみたいで。大きいものはひずみを生みやすく、見えないところで虐げられる人がいる。皺寄せを食らって泣きを見る人がいる。そういうものに活字の力で牙を剥くのが週刊千石だと、しょっちゅう熱く語られます」
「でも週刊誌ってゴシップ記事がメインじゃない? 大物に立ち向かう記事より、誰それの不倫とか密会写真とかが大きくページを割いて、これでもかってくらい騒ぎ立てるでしょ。話題になるのもそっちだし」
三村はそう言って前菜を食べ始めビールを飲み干した。日向子もつられてサーモンマリネや生ハムを口に入れ、三村と一緒にビールのおかわりを頼む。
「できる記者ほど、いつかは巨悪を告発する記事を書きたいと思っています。でもそういう記事には時間も労力もかかります。雑誌の売れ行きが落ちれば巨悪を追いかける資金もなくなりますし。そんなこんなで売れるゴシップ記事も載せますし、載せるからには手を抜かず、週刊千石の全力でやり切ります」
話を咀嚼するように三村は小さくうなずき、追加でサラダとピザを注文した。
「あなたの話を聞いてると、私なんかすぐ『ふーん』『なるほど』って思ってしまう。こういうところを甘いと言われ、実際そうなのよね」
「ちゃんと耳を傾けてくださるのでありがたいです。週刊千石が正しくて品のある雑誌だなんて、私も含めて編集部員はおそらく誰も思っていません。むしろ低俗と非難されてかまわないと、開き直りすら感じます」
目を丸くした三村は、照明の当たる角度のせいか顔全体が明るく見えた。
「低俗だの品がないだの言われたくなくて、必死に取り繕おうとするのが人間や組織って気がするけど。そう思われてもかまわないって、初めて聞いたかも」
「普通はそうですよね」
「もしかしたら開き直りがすごい力を生むのかな。週刊千石は強いもの。開き直りを力に変えて、自分の目指すものを何が何でも追いかける、てこと?」
だといいなと思い、日向子は控えめにうなずく。ひるまず臆せず巨悪に立ち向かってほしい。他人事にせず自分自身も。
「でもここ最近、そのスタンスが揺らいでいるんです」
サラダをシェアして食べているとピザが運ばれてきた。夜の十時にこれは悪魔のメニューだが手を伸ばさずにいられない。
「何が週刊千石を揺るがすの?」
「SNSです」
熱々のピザに振りかけられたタバスコのように、いやもっと苦くて強い刺激に現実社会は浸食されている。
不倫ネタや密会写真がちまたの話題をさらうのは今も昔も変わらない。多くの人が掲載雑誌を買い求めたり立ち読みしたりして、当事者たちに失望したり悪口その他を言い尽くしたあとは、反動で擁護論が出てきてスクープした雑誌が叩かれる、というのがこれまでよくある流れだった。
ところがSNSの普及により個人攻撃は激烈の一途をたどり、当事者を追い詰める。絶望へと押しやる。その力と、反動が生じる隙もないスピード感は今現在、一介の週刊誌に制御しきれるものではない。
「たしかにSNSの力は大きいのよね。私の当選も、SNSによる盛り上がりが勝因って言われている。好意的な応援の言葉が拡散され、認知度が上がって得票に結びついたと。ちょっと前なら考えられないよ。もちろんありがたいと思っている。感謝もしてる。でもすごさを知っている分、恐いとも思う」
三村はそう言い、声を落として続けた。
「この店もね、店長は私の従兄弟なの」
知り合いの店と最初に言われたが、従兄弟ならばかなりの身内だ。
「昔から仲のよかった従兄弟で、念願叶ってお店を出したときは自分のことみたいに嬉しかった。少しでも売り上げに貢献したいと、友だち連れて何度も食事に来たのよ。でも私の出馬が決まったら、『店長が従兄弟』というのは伏せてほしいと言われた。前に働いていた子が問題を起こし、そのときは平和的な解決で落ち着いたんだけど、この先も何があるかわからない、迷惑をかけたくないと言われて。私はぜんぜん大丈夫と返したけれど、逆に私の方が迷惑をかけるかもしれないでしょ。些細なことで揚げ足を取ったり、他人を攻撃するきっかけを探している人はどこにでもいるもの。何をするかわからない。ひとりの力は小さくても、SNSが大きな力を貸すときがある」
まさに身をもって知る脅威だ。三村は著名人として世に躍り出た。大事な人が匿名の悪意の被害に晒されないよう距離を取る。自分もトラブルに巻き込まれないよう人付き合いに警戒する。どちらも賢明な予防策になりうる。けれど親しい人を遠ざけ、心許せる人を減らすばかりでは、失うものも多そうだ。知らず知らず孤立して、本音も悩みも飲み込んで、どこまでひた走れるのだろう。
日向子の頭には執務室でひっそり昼食を取る三村がちらついた。彼女の秘書たちにはあれが歓迎すべき姿なのだろうが。
「厄介ですよね。SNSの力を侮ることはできない。かといって縮こまっていては本来の活動が難しくなります」
「ほんとうにそう。私の悩みと週刊千石のそれと、重なるところがあるなんて。思いもしなかった」
うなずく三村を見て、話を本筋に戻すべく日向子は言葉に力を入れた。
「下品だ低俗だと言われても雑誌を作っているのは、縮こまらずに社会に問うべきことを問うため。それができるかどうかの正念場に、うちの編集部は突入しています。口止めするほどの不祥事があるならぜひとも掴まなくては」
北浜や神尾が乗り移ったがごとく、日向子はフォークを持たない方の手で拳を作った。
三村は目を細め小首を傾げる。
「その言葉に共感し、私が口を割るとでも?」
「いえ、その、あの」
「何かあったと仮定して、すっぱ抜きの記事が週刊誌に載ったらうちの党は世間からバッシングを浴び、みんな火消しに大わらわ。堂島先生の進退問題にも発展しかねない。リーク元探しにやっきになる人もいるでしょうね。私とバレたら裏切り者もいいとこよ。ただじゃすまない。そうなるとわかっていてなぜ打ち明けるの? 信田さんに教えるだけのメリットが私にあるのかな」
もっともなことを言われ、ひるみそうになるも全身に力を入れる。
「守秘義務は必ず果たします。三村さんに私がコンタクトを取っていることは、担当している班の長である神尾デスクと、直属の上司である北浜デスクしか知りません。班員たちとの情報共有はありませんし、私もしゃべりません。逆にそもそもの情報、勉強会のあと口止めのメールが送信されたことを、いつ誰がうちの記者に漏らしたのかは伏せられていて私も知りません。そういうものだと心得ているので各自の活動ができます」
「今さらだけど勉強会は和気藹々としたものだったのよ。堂島先生はお話もうまくて楽しくて、何度となく笑い声が沸き起こるような盛り上がりだった。私も終わったあと秘書から気軽にどうでしたかと聞かれた。翌週になって口止めのメールが来るとは思いもしなかった」
「何人くらいが出席したのですか」
「今年だけじゃなく数年以内の新人議員が対象だから、現場のスタッフも含めると二十人前後が会場にいたと思う」
「それは漏れますよ。内容についても、箝口令の敷かれる前にしゃべっていた人がいておかしくないです」
この先もしも内容についてのスクープが出たとしても、リークしたのが誰なのか特定するのは難しい。そう日向子は言いたかった。三村にとって安心材料になるはずだ。けれど自分が進んで口を開くかどうかは別問題。バレるリスクが低いとしても、リークした三村にどういう得があるだろう。所属する党を窮地に陥れる、その張本人になるだけのメリットを日向子は示せない。未熟もいいとこだ。
なす術もなく三村をうかがうと、彼女はじっと考え込んでいた。テーブルに置いた手がときどき動く。指先が開いたり、握り込まれたり。冷ややかで厳しい目つきは実年齢よりも彼女を年上に見せる。
「堂島先生の話は、予定通りに小一時間くらいあった。中にはボイレコで録っていた人もいたと思う」
音声録音、それがあれば一目瞭然ならぬ一聴瞭然。加えて動かぬ証拠になる。
「私も録っていたの」
続けて、三村はさらに言う。
「守秘義務を約束してくれるなら、渡してもいい」
告げられた言葉の意味を理解するのに時間がかかる。
隠そうとした内容が暴かれれば所属の党は大騒ぎになる。堂島議員の立場も危うくなる。取り返しの付かないことになる。三村は十分承知している。
なのに何故。
「どうしたの? 信田さんは受け取らないの?」
「いいえ。ぜひともお願いします」
まっすぐ視線を向けてくる三村に、日向子もまっすぐ返す。
データはその場で日向子のスマホに送られた。
ほんとうだろうかと自分の頬をつねりたい。これは夢ではないと、どうすれば確かめられるのだろう。
三村はまだしばらく店にいると言うので、ここまでの会計をすませて日向子は外に出た。
三軒茶屋駅のホームから北浜に電話する。ただちに社に戻るよう言われた。時間は二十三時に近い。社に着く頃には直接会議室に来るよう指示があった。通用口から社屋に入り、編集部のフロアに上がる。
会議室には神尾しかいなかった。追いかけるようにして北浜が飛び込んでくる。ドアを閉めるやいなや、日向子は三村とのやり取りをかいつまんで話した。上司の命を受けてのこのこ来たことに軽く皮肉を言われてから、録音のデータを渡してくれるまで。
「どうしてその決断に踏み切ったのか、私にはわかりません。三村さんはとても冷静に、スクープ記事が出たときの影響を考えていました。大ごとになると承知しているんです。ある種の裏切り行為になってしまいますよね」
デスクふたりは「とにかく聞いてみよう」と声を揃える。もとより行動の早い人たちだ。机の角に椅子を三脚集め、机に置いたスマホを囲む形になる。日向子は画面を操作し、デスクたちは固唾をのんで見守る。
間もなく深夜の会議室に、清和党主催新人勉強会の内容が流れ始めた。咳払いや椅子の軋み、名前を連呼する声、紙のめくられる音など混じるが、それも含めて明瞭で聞き取りやすい。
マイクを通じての進行役の挨拶があり、講師役を紹介すると拍手が起きた。堂島議員が現れ、壇上に進んだのだろう。面白いリアクションでも取ったのか、笑い声が起きる。聴衆を前にした講師役の余裕が見えるかのよう。やがて聞こえてくる声は生き生きとしてテンポも良く、聞き手の気持ちをそらさない話術はさすがとしか言えない。
堂島議員は三重県の出身。東京の大学を出て証券会社に入り、海外赴任も経験している。その後、三十歳で与党議員の第一秘書に就き、二年後に都議会議員に立候補するも落選。三十六歳で清和党から参院選に出馬して初当選を果たす。二〇一七年に行われた衆院選では小選挙区を勝ち抜き、衆議院議員に転身。両院を合わせると今は四期目だ。
得意分野は経済や外交、人心掌握に長け人脈が豊富であることでも知られている。各界に強いパイプを持ち、清和党躍進の功労者と言う人もいて、いずれ党の顔、代表も夢ではないと評価を上げている。
新人を相手にした話も軽快だ。自身の経験談に失敗も混ぜるので、どっと沸く瞬間もある。超党派と呼ばれる党の垣根を越えた集まりや各種勉強会の話は、具体的な特徴や注意点がわかりやすく語られ、新人にはもってこいの内容だと門外漢の日向子でも思う。頼れる兄貴分として、若い議員たちの信望を集めそう。
前半の三十分はこれといった引っかかりもなく過ぎていく。ところが後半、にわかに雲行きが怪しくなる。
「今の日本は昔とちがうんですよ。こつこつ努力して額に汗して働けば、衣食住に困る国ではない」と言われて、日向子は眉をひそめる。現実では今まさに困っている人が多くいる。
続く「努力した人の貴重な賃金を注ぎ込んだのが税金であり、努力してない人が生活保護や手当の名目でかすめ取るのを、歯がゆく思っているんですよね。未来ある優秀な若者が、コソ泥を養うために疲弊することにもなりかねない」に唖然とする。かすめ取る? コソ泥?
話はさらに続き、「皆さんには下ばかり向いてないで顔を上げてほしい。停滞ではなく前進を目指してほしい。国会議員は国を動かすのが本分ですよ。私も同じ。新人もベテランもない。限りある時間の中で互いに切磋琢磨して、有権者の信任に答えていきましょう」と仲間意識を煽る。
会場のあちこちから歓声が上がったようだ。参加者たちの向上心をくすぐり、一体感を醸し出すことに成功している。
このあとは国会審議のノウハウや、他党議員との付き合いなど話題がそれていく。やがて時間が来て閉会が告げられると、それまでで一番大きな拍手が起きた。
録音はそこで途切れ、深夜の会議室は一瞬シーンと静まり返る。先ほど、日向子が驚いた場面で北浜も神尾も目を見張っていた。他に問題と思われる箇所はない。つまり。
「もみ消した不祥事について、口を滑らせたんじゃないのか」
北浜が苦虫を噛みつぶしたような顔で言い、神尾が続ける。
「講師本人の失言だな」
日向子も加わる。
「今まさに、もみ消そうとしてるんですね」
顔を見合わせそれぞれうなずく。スイッチが入ったかのごとく、デスクたちは口々に言い始める。
「努力した人の賃金を、努力してない人がかすめ取るのが、生活保護であり各種手当てだとよ」
「コソ泥は完璧アウトだろ」
「堂島の本音だよな。失言ではない」
「この発言を問題視せず、もみ消そうとするのが清和党の方針か」
日向子はふたりの傍らで三村に思いを馳せていた。データを渡してくれた理由がわかる気がする。
個人の努力ではどうにもならない現実があることを三村は知っている。二十代の彼女の努力はハラスメントやブラック企業によって不当につぶされたのだ。堂島議員の言葉を耳にしたとき、浮かんだ場面はたくさんあったはず。だからこそ彼女は出馬を決意し、生活苦にあえいでいる人たちの救済や格差社会の改革を目指しているのに、暴言の数々を放置するようでは今後の活動が危ぶまれる。
清和党は何を考えているのだと、問いただしたくなったのではないか。
「信田さん」
神尾に呼びかけられる。
「ほんとうにありがとう。助かった。あとのことは任せてもらえるかな」
「はい」
お願いしますと頭を下げる。三村の真意をデスクたちはきっと読み取っている。
ここから先、週刊千石の本分を、自分にも三村にも見せてほしい。
翌週の木曜日、週刊千石最新号には堂島議員の発言がトップで報じられた。
“生活弱者を盗人呼ばわり”“下を見ないで上を見ろと新人議員に喝!”と個人を糾弾しつつ、“清和党内部にはびこる選民意識”“口止めにやっきの隠蔽体質”と党の態勢に鋭く切り込んでいる。
ネットはここぞとばかりに清和党を叩き、識者の解説やら有権者の憤慨やらが拡散していく。テレビのワイドショーでも取り上げられ、生活保護受給者である病身の男性が涙ながらに現状を訴える。児童養護施設の窮状も報道される。その一方、堂島議員の発言に、表現は問題だが内容はもっともだ、とする意見も出てきて混迷はしばらく続きそうだ。
騒動のただ中に置かれた清和党は、週刊千石からの問い合わせに対し、素早い反応を見せている。誤解を生じさせる発言があったことを認め、堂島議員本人には厳重注意を行ったとコメントしている。清和党にすれば問い合わせがあった時点で記事になるのを止めたかっただろうが、どうあがいても掲載は免れない。ならばと最善策が取られたのだ。清和党の代表による釈明会見も早い段階で開かれた。
週刊千石編集部では、続報を出さず一旦様子見という意見に傾いている。というのも代表の「我が党は決して弱者を見捨てません」というたびたびの訴えが、格好のパフォーマンスになりつつあるからだ。堂島議員も、不正受給の実態を目の当たりにしたばかりで偏った発言になってしまったと、いつもの強気姿勢を引っ込めわざとらしくうなだれている。編集部としては党の欺瞞を暴く記事を載せたのであって、宣伝材料を与えては本末転倒。失言を挽回したいだけのポーズに、同情や支持が集まるのはいただけない。
そんな中、日向子の担当した「一年生のお昼ご飯」のレイアウトができあがった。事前のチェックをお願いすべく取材相手にそれぞれメールすると、快諾やちょっとした修正希望など、次々に返事が届いた。三村からは二日経っても無反応だ。返事をお願いした期日までは間があったが気にせずにはいられない。件のカフェバーで別れたきり、三村とのやりとりは途切れている。その間、例のスクープ記事が党の屋台骨を大きく揺るがせた。週刊千石を嫌って掲載を見送られても致し方ない。
ところが三日目の昼前、何事もなかったかのように「写真も原稿も大丈夫です」と返事が舞い込んだ。日向子はさんざん迷ったあげく、電話で話せませんかと三村にLINEを送るとすぐにあちらからかかってきた。
「私もどうかなと思って党の事務局に相談してみたの。そしたら事務局は上と話し合ったみたいで、今日になって返事があった」
お昼の十二時をまわった時間、例によって三村は事務所にひとりらしい。日向子は千石社内に設けられたカフェコーナーに腰かけていた。はじっこの席なのでまわりに誰もいない。
「どんな返事だったんですか」
「掲載を取りやめるようなことを三村さんは何もしていない。清和党もしていない。だから気にしなくていいって。当然といえば当然よね。隠蔽体質なんてない、ちゃんと開かれた党、なんだもの」
週刊千石にむかっ腹を立てていたとしても、関係悪化は望まないということか。先般のあれは誤解だと主張している手前、自党の議員に鷹揚なところを見せたかったのかもしれない。
そして三村の口ぶりからして、リーク元と疑われるようなことはなかったようだ。彼女が言うようにボイスレコーダーに録音していた者は複数いたのだろう。勉強会終了後に秘書から感想を聞かれたときも、彼女はおそらく本音を明かしていない。当たり障りのない内容だけ話し、新人議員同士の会話があったとしても無難なやり取りに終始していれば、あとは若い女性に何ができるという偏見が鉄壁の防御になりうる。党を揺るがすような大それた裏切り行為をしでかす度胸はないという思い込みだ。
何より、暴露記事による悪いイメージを払拭するために、党としては公明正大をアピールし続けなくてはいけない。犯人捜しは大っぴらにできず、リーク元が判明したところで次のスキャンダルを恐れて処分は保留になるのではないか。ずっとうやむやも大いにありえそうだ。三村はそこまで見越していたのかもしれない。
「よかった。ほっとしました。掲載誌を送ってもかまいませんか」
「お願いします。楽しみにしてます」
「元気そうな声が聞けて、そこもほっとしてます」
三村は照れたように笑ったあと「あのね」と続ける。
「弱者を見捨てず今の政治を変える、というのがこれまで以上に党として重要な柱になったの。ゴタゴタもあったけど心機一転、気持ちを引き締め一丸となって成果を出していきましょうと、代表からみんなに話もあった」
少なくともここ数年、清和党は「弱者救済」を主軸に置かざるを得ない。これが、あのとき三村の見いだしたメリットだったのか。釈明会見からすると若手や女性を大いにもり立ててもくれるようだ。たとえポーズだとしても活動はしやすくなるだろう。
「私、めいっぱい頑張ろうと思ってる。任期は六年。大事な六年よ。腹を据えて学んで、精一杯動いて形にする。何も持っていない者なりに、よっしゃという開き直りを力に変えて、自分の目指すものを何が何でも追いかける」
開き直りを力に変えて? 何が何でも追いかける?
あの夜の会話に出てきた言葉だ。
逞しい。強い。賢くて熱い。本来の彼女はこういう人なのだと日向子は思う。でなければ出馬を決めたりしない。選挙戦は戦えない。追い風だけで掴めるほど議員バッジは容易くない。
「応援してます、陰ながら」
「あ、陰なんて言わないで。そのうちお昼ご飯を食べに来て。待っているから」
「いいんですか」
「信田さんに、合わせる顔がない人間になりたくない。ちょっと恐いの。政治家なんてやってたら自分が嫌な人間になりそうで。だからときどき確認させて」
日向子にはすとんとはまる言葉だ。言わんとする意味がよくわかる。
「私も乗っからせてください。週刊千石の記者をやっていて、三村さんに合わせる顔がなくならないよう、気をつけたいです」
だよねと声が合うような気がした。自分に職場の仲間がいるように、彼女にも良きブレーンができるのではないか。そうなるといいなと思う。話し相手として求められるのはいつまでか。わからないし、そんなことを気にしないのが大人の付き合いなのかもしれない。
でも今は他愛ないおしゃべりを楽しみたい。
「行くときは私もお弁当を持参しますね。どこかで買って」
「だったらそれを交換しない?」
「私が買ってきたのを三村さんが食べるんですか。それは責任重大というか。お気に入りのお店を探しとかなきゃ」
「期待している。頑張りましょう。でもやたら高価なのはダメよ」
「二千円以下ですね」
「リアルな提案だ」
「千円以上がOKなら選択肢が広がります」
おしゃれでかわいくて美味しくて食べやすくて量も手頃で。駅ビルの食料品売り場が頭に浮かび、頬がほころんだ。まずは試食に励まなくては。
カフェコーナーのプラスチックの椅子に座りながら、日向子は紙コップのコーヒーを傾ける。会社近くで店を広げるキッチンカーを思い出し、今日の昼食にどうかと思ったり。たしかテイクアウトもあったはず。
女子会ランチは早々に実現しそうな勢いだ。
(了)
ドラマストリーム「スクープのたまご」
主演 奥山葵
TBS系
毎週火曜 深夜0:58~ 放送中
※一部地域をのぞく。放送時間変更の場合あり
NETFLIXにて第1話~最新話まで全話配信中
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