新著『痛いところから見えるもの』で、極限的な痛みについて当事者の視点から記した文学紹介者・頭木弘樹さんと、障害と体の可能性を長年研究し続けてきた伊藤亜紗さんのオンライン対談が実現。「痛みを我慢すべき」という社会的な圧力から、「壊れた」体で生きる現実まで、痛みから見える世界の光景とは?

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頭木弘樹さん(左)と伊藤亜紗さん(右) ©文藝春秋

陣痛は“先輩が多い”世界なので安心していたら……

頭木 いきなりの質問で恐縮ですが、これまでに「痛かった体験」っておありですか? 

伊藤 そうですね、かなり強い痛みを経験されてきた頭木さんの前で言うのもおこがましいですけれど、中学生の頃に病気をしたときの痛みが記憶に残っていますね。でもやっぱり一番の痛みは、出産のときの陣痛です。

頭木 無痛分娩は選ばれなかったんですね?

伊藤 私が出産した当時はまだそれほど一般的ではなく、この数年で一気に一般化した印象があります。「痛みを伴って人は生まれてくること」が自然だった時代から、「痛みを回避できるなら回避しよう」という変化がいとも簡単に起こったのが不思議です。

 ただ、仮に当時の病院で選べたとしても、私自身は「産痛を経験しておきたい」という研究者としての好奇心のほうが勝った気がします。難病と違って、陣痛は“先輩が多い”世界じゃないですか。だから「先輩たちが通ってきた道だから大丈夫」という安心感があったようにも思います。でも実際に経験してみたら、助産師さんからアドバイスされていた様子とは全然違っていたので、「めっちゃ騙された」と思いましたね(笑)。

頭木 出産時の痛みは「障子の桟が見えなくなる」と表現されたりしますが、ぼくも以前、大腸の手術後の激痛で、窓のブラインドの横線が見えなくなったことがあって、出産ってこんなに痛いのかなって思いました。それで気になって、まわりの女性に聞いてみたら、「痛みが怖いから出産したくない。でもそうは言えない」という人が何人かいました。

痛みの話には2種類ある

伊藤 こういう「先輩多い系」の痛みの場合、生理的なレベルの話と、文化的なレベルの話の2つがある気がしています。陣痛の場合「これは赤ちゃんが生まれてくるためのパワーとして必要なんだ」といったことが育児書などにも書いてあって、 痛みそのものに価値を見出していく文化がある。

 それは痛くても出産してみようと背中をおす「ありがたい文化」だった半面、実際はそのような実感は持てなくて、それが出産に対する心のこりですね。

伊藤亜紗さん 撮影・橋本篤(文藝春秋)

頭木 痛みと文化で思うのは、病気や障害に関する「社会モデル」――障害をめぐる困りごとは個人の心身の問題ではなく社会の側がつくる障壁にある、という素晴らしい考え方がありますよね。でも「痛み」はそこからはみ出すな、と長年思っていたんです。社会がどう変わったって、やっぱり自分は痛いですから。

 でも今回、痛みについて書いていくなかで、痛みは社会的な慣習・文化と密接に関わっているなあと感じるようになりました。おっしゃるように「この痛みには価値があるから耐え抜くべきだ」と言われたり、痛みを克服した人間が偉いという価値観もあれば、患者と医者のあいだで、“痛みを乗り越える物語”を作って、両者で感動することもよくあります。「女性の痛みは軽視される」というのも、まさに男性社会の問題です。

伊藤 頭木さんの『痛いところから見えるもの』は、社会や文化が痛みに参入するときの“定番化した語り”――文化がかえって邪魔してしまう部分を、もう一回生理的なレベルに戻して、文化とつなぎ直している本だと思いました。経験からくる生理的な部分と、たくさんの文学や思想家のテキストの引用から、痛みと文化の関わり方をつないで「新たな道を作っている」と強く感じた一冊です。

頭木 ありがとうございます。今日ぜひお聞きしたかったのは、伊藤さんは障害や重い病を抱えた当事者に数多くインタビューされてきましたが、そのなかで痛みを抱えた人たちについてはどんなことを感じてこられましたか?

頭木弘樹さん 撮影・杉山拓也(文藝春秋)

痛い人がたびたび口にする動詞――「壊れる」

伊藤 実は、私はいろんな方にお話を聞くなかで、言葉のとくに「動詞」が気になってしまうんです。動詞って、ひときわ使う人の実感がこもりますから。痛い人がたびたび口にする動詞で、頭木さんもさらっと使っている動詞が「壊れる」。

 本書では、難病の歌人、笹井宏之さんの「廃品になってはじめて本当の空を映せるのだね、テレビは」(『えーえんとくちから』所収)という短歌を引きつつ、入院中に窓の空を眺めて、「『壊れたねえ』と友達に言われ、本当に壊れてしまったなあと自分でも思っていた」と振りかえる記述が出てきます。

 この「壊れる」「廃品になる」という自分の体にたいする感じ方が衝撃的で、実際、私がインタビューをした方々のあいだでも「体が壊れる」という表現を何度か耳にしてきました。「壊す」ならわかるのですが、「壊れる」という言葉には、どこか自分のあずかり知らないところで、自分というマシンが不可逆的な形でシステム崩壊してる、というニュアンスがあり、そういう表現を使わざるを得ないほど追い込まれていると感じます。

 つまり、私の見えている世界って、「生きていたら治る」ことが想定されているレベルですが、「壊れる」はもう「治らない」感じが伝わってきて、ショックを受けてしまう動詞のひとつです。

頭木 「動詞」が気になるって面白いですね。ぼくにとって「壊れる」という言葉は、実感としてすごくぴったりきます。潰瘍性大腸炎になってすぐの頃、友達が「お前、壊れちゃったな」って言ったんです。そのとき、ああ本当にそうだな、と思いました。

 大江健三郎の評論に『壊れものとしての人間』という本があって、元はレヴィナスから来ている言葉のようですが、じつにしびれるタイトルです。人間はガラスのランプのようで「いずれ割れる」、壊れていないほうがむしろ不思議という感じすらします。だから、家のなかの壊れかけたものがぜんぜん捨てられないんですよね。テレビにしろパソコンにしろ。破れた普段着も限界まで着ています。

――なるほど。

明けない夜を生きていく「治らない」人々

頭木 普通の人は病気って「治る」か「死ぬ」かだと思っています。そして、多くの人は風邪などで「病気になって治る」という体験をくり返してきています。そこから、明けない夜はない、つらいこともいつか乗り越えられるという実感を身に着けています。ところが、ぼくらみたいに「治らない」と宣言された者たちは、明けない夜を生きていくわけです。乗り越えられないまま生きていくわけです。そういう生き方のロールモデルはなかなかありません。世の中に流布する物語のほとんどは、困難克服物語なので。

伊藤 壊れたまま生きるというのは、たとえば自分のスマホが故障したときのように騙し騙し使うような感覚なのか、あるいは壊れたなかでも「こことここは使える」と解像度を高めて付き合っていく感覚なのでしょうか。

頭木 本でも少し引用した古今亭志ん朝の落語に、ボロボロな長屋の戸が開かないんだけど「上を叩いて下を蹴って真ん中をしっかりと持ってスウーって引くと開く」といった表現があります。もうダメといえばダメだけど、どうにかこうにか工夫すれば出入りできる、みたいな感じですね。

伊藤 ここまでのお話を聞いてふと思い出したのが、アーティストの片山真理さんの言葉です。彼女は生まれつき両手足に形成不全があって義足を使っているんですが、「足尾銅山」にすごく親近感を覚える、と対談のときに語っていました。

頭木 足尾銅山に!?

伊藤 昔、開発されまくって公害にもなり、今は植林されて「人工的な自然」みたいになっている足尾銅山は、医療やテクノロジーに介入された自分の体と非常に似ている。自然さとか元々の姿とかはもうよくわからない、と。「人工的な美しさ」を探していく体に対するスタンス、そこに仲間を見出すんだ、という話に衝撃を受けました。

伊藤亜紗さん

 ほかにも、原因不明の体調不良が何十年も続いている方は、現代医療の言語では説明がつかず「仲間がいない」。そうすると、例えば「戦争に行ったおじいさんの苦労が、父を経て自分に影響してるんじゃないか」とか、戦争経験者や遠い国で独立運動をしているような人たちに親近感をもって、思いがけない仲間を引き寄せていくんです。そこには文学的な想像力に近いものを感じることがありますね。

「この痛みを知っている人がほかにもいる」ことが救いになった

頭木 痛みはすごく孤独を感じさせるものです。この痛みや苦しみを感じているのは、もしかすると世界で自分だけかもと思ってしまうと本当にやりきれない。そんな気持ちのとき、ある医師から「誰とは言えないけれど、じつは病院内にもうひとり同じ状態の人がいますよ」と言われて、天から光がさしてきたように感じたことがあります。

伊藤 とても不思議なことですね。

頭木 不思議です。それで自分の痛みが減るわけではないのに、「この痛みを知っている人がほかにもいる」と思うと、とても救われた気持ちになりました。

伊藤 本のなかでけっこう印象的だったのが、病室が同じだった人が頭木さんを訪ねてきたシーンでした。退院した人がお見舞いに来ているつながりに少しびっくりして。

頭木 退院後も薬や検査で通院があるので、そのついでに来てくれるんですよ。生き死にの時間を共に過ごした独特のつながりから、こういう言葉はあまり好きでないのですが“戦友”のような感じになるんですよね。気が合ったりしなくても、それどころかぜんぜん気が合わなくても、強いつながりができることがあります。

伊藤 一方、いろいろな方のインタビューをしてきたなかで、同じ障害や病気を抱えた者同士で深くわかりあえる部分があるのと同時に、コミュニティによっては互いの仲が悪くなってしまうケースもよく聞いてきました。たとえば社会の側が同じ「視聴覚障害者」とくくるなかでも、全盲と弱視の方はかなり違います。だから普段友達としては仲がよくても、互いの立場で話す場面になると喧嘩になるようなこともあります。

 どういうコミュニティが当事者にとってちょうどいいのかは永遠の課題ですが、病院の大部屋というのはとても興味深い関係性ですね。

自分の理解を超えた“ままならない体”の可能性

頭木 同病相憐れむと言ったりしますが、同じ病気だと互いの差異が気になってしまうんですよね。相手のほうが軽いとか、病状がちがうとか。ぜんぜんちがう病気の人と話をすると、かえって共感し合えることがあります。困りごとって共通することも多いんですよね。そして、自分の病気や相手の病気に対する見方が変わることもあります。

 病気とか障害って、やっぱり否応なしに、自分の体をコントロールできないもどかしさを強く意識させられます。でも伊藤さんはご著書の『体はゆく』のなかで、「自分の体を完全にはコントロールできないからこそ、新しいことができるようになる」と書かれていて、すごく感動したんです。“ままならない体”の可能性を、新しい視点から見せてくださいました。

頭木弘樹さん

伊藤 私は常にどこかで「体にびっくりさせられたい」と思っているんです。自分の理解できる範囲を体が超えている状態に可能性を見出したい。もちろんそれが痛みとして現れるのは困るのですが、体の持っているポテンシャルに任せたときに何か新しいことができるようになったり、自分が思ってもみなかったような出会いがあると思っています。

 体の障害や事故や病気というテーマも、そう捉えることで自分の中で整理してきたところがあって、常に「体には先にいってて」ほしい。

頭木 障害や病気が体の別の可能性を開く可能性って、たしかにあるのかもしれませんね。いろいろな問題を体が乗り越えようとすることで、思いがけないことが起きるかもしれませんから。そこはできれば期待したいですね。

伊藤 私の考え方は「体性善説」というか、体を信じてあげるタイプの付き合い方だとは思っていて、もちろんそれでは済まない部分も沢山あると思います。毎日の体調の変化や痛みなどが予測もつかない度合いで大きくなった場合、そんなことも言ってられないですよね。ままならぬ体は本当に厄介ですが、それを面白く生きたいなとは思いますよね。

頭木 体は壊れものだし、ままならないし、でも、びっくりさせてくれて、先に行ってくれるかもしれないわけですね。今日は体をめぐる新鮮な視点をいろいろうかがえて、とても楽しかったです。

伊藤 こちらこそありがとうございました。