9月に『おまえレベルの話はしてない』を刊行した芦沢央あしざわようさんと、10月に『家族』を刊行した葉真中顕はまなかあきさん。普段から創作について議論を交わす二人が、お互いの最新作について語りあいました。それぞれの挑戦から、小説という表現形式の可能性が見えてきます。

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同業者と小説の話をしたいタイプの人が集まって

葉真中 まず私と芦沢さんがどこで出会って、どういう風に仲良くなったかというと、2015年に「オール讀物」で行われた座談会ですね。同じ頃にデビューした作家を集めた企画があって、そこでご一緒したのが初対面でした。

芦沢 そうそう。はじめはそのときのメンバーで連絡を取り合うようになったんです。

葉真中 のちに、その座談会にはいなかったんですけど、呉勝浩(ごかつひろ)という作家がハブになってさらに交流が深まりました。彼は作家と話すのが好きな人で。意外と作家同士って小説の話をしなかったりするんですよね。お互いの作品のことをああだこうだ言ったりは結構危ないところがあるから。でも呉さんは割とざっくばらんに小説の話をしたがるんです。実は私も、多分芦沢さんもそういう風に同業者と小説の話をしたいタイプで。

芦沢 ちょっと「ここどうなの」みたいな、ダメ出しぎみの話でも怒らないメンツが揃っていったという感じですね。

葉真中 あと重要なのは3人とも将棋に興味があるというところ。私は指すのも好きなんだけど、芦沢さんと呉さんはいわゆる「観る将」で。将棋の話をする飲み会をやったり、タイトル戦の時にZoomを使って3人でウォッチパーティーみたいなことをしたりしました。

芦沢 でも途中からやっぱり小説の話になるんですよね。

葉真中 共通の趣味があって、あとは作家同士の話って、当たり前だけど作家にしかできないから。作家なりの生活の話とかを、割と気兼ねなく言い合える相手として芦沢さんと呉さんがいて、さらに呉さんを介して何人かの作家が集まって小グループみたいなのができている感じです。

 

それぞれの小説へのこだわりは『法律』

芦沢 話をする中で、それぞれがお互いの小説へのこだわりを「法律」という言い回しで表現するんです。例えば小川哲(おがわさとし)さんの「ご都合主義法違反」みたいな。

葉真中 作家ってそれぞれ自分なりの価値観やルールを持って小説と向き合っているわけで、それをお互い戦わせるだけでも興味深いというか。自分がめちゃくちゃ気になるようなことも、意外と他の人からは「それ関係ないでしょ」みたいなニュアンスで返ってくる。たとえば私はミステリーにおける警察の描写はわりと気にするんですが、「読者が気にしなければいいんじゃないの」というスタンスの人も多い。それでいて私はご都合主義にはだいぶ甘かったりもする。小説って多かれ少なかれ作者の都合で動いていくものだと思っているので、「程度問題じゃん」と思ってしまう。

芦沢 小川さんなんかはその辺厳しくて、「小説の文章は全て伏線であるべき」みたいなことも言ったりします。ただ、彼の場合は様々な試行錯誤をする中で法改正をする柔軟さもあるんですが。

葉真中 みんなそれぞれに活躍している作家なので「そうなんだ」と発見になるんです。こういう何でも話せる同業者が複数いるというのはありがたいと思います。

『短歌』を武器に、自分の文体を壊そうとした

葉真中 今回の『おまえレベルの話はしてない』については、私は芦沢さんが小説を書いている時から「今こんなの書いてるんだ」という話を聞いていました。作家には今書いている作品の話をしたい人としたくない人がいて、芦沢さんは多分したい人なんです。その時「純文学をやりたいんだ」と言っていて。これはこの小説が出来上がった今だから言えることなんですけど、私は密かに「迷走してるんじゃないの?」と思っていました(笑)。

『おまえレベルの話はしてない』(河出書房新社)

芦沢 それ、リアルタイムでも言ってましたよ(笑)。

葉真中 芦沢さんはエンターテインメント、それもミステリーの分野でかなりの読者を獲得されている作家なので、「わざわざ読者の少ないところに突撃していく必要あるの?」と思ったんです。「将棋だったら将棋のエンタメ小説を書けばいいじゃない」と。さらに芦沢さんは「自分の文体に悩みがあるから、文体を壊したいんだ」と言っていて。あんまりエンタメ作家はそういうこと考えないから、「大丈夫かなあ」と。

芦沢 どこ行くの? ってね。

葉真中 そもそも「文体を壊す」ってところから疑問で、「壊すために何をやっているんだ」と聞いたら「今短歌作ってる」と言い出して、「これは本格的にやばい、どうなっちゃうんだろう」と。小説を書くために短歌を詠むなんて、少年漫画の特訓篇みたいな話じゃないですか。謎の特訓を始めたという感じ。でも完成した作品を読んだら、これまでの芦沢さんの作品とは文章の密度が違う。この本の最初の一段落を読んだだけでも、本当に修業して、パワーアップしてると感じました。正直、私は小説って、プロのレベルまでくると、努力したから上手くなるもんでもないと思っていたんです。でも、実際に出てきたものを見て「芦沢さんくらい上手い人でも努力でさらに向上するんだな」と。ある意味勇気をもらったというか、だったら、自分にもやれる努力があるはずだと思えました。

 

小説にはまだこんな可能性がある

芦沢 葉真中さんにそんなふうに言っていただけて嬉しいです。短歌を作ることにしたのは、自分の文体を壊そうと思っても、あまりにも強固に壊れなかったからなんです。純文学に近づこうとしても、ただ描写が濃いだけのエンタメ小説になってしまう。そこでイメージを短歌の形で描写することにしたんです。そうすると31文字しかないから、この言葉で本当にいいのか? みたいな感じで、言葉の精度が上がっていく。

 まずは一つの言葉にどれだけの意味を複合的に持たせられるかを試すために短歌を作って、できた短歌を全部捨て、その過程で出てきた言葉を使って小説を書くことによって、筋ではなく、そこにあるものを掘るということができた。自分が作った31文字がツルハシになって、「これがあれば掘れるぞ」という感じです。

葉真中 実際、前半の「芝篇」は形式としては純文学だと思います。一冊の本に「芝篇」っていうプロ棋士の話と、そのあと「大島篇」っていうプロをあきらめた元奨励会員の話があるんですけど、「大島篇」はわりと分かりやすいエンターテインメントの小説で、文体もがらっと変わるんですね。

芦沢 本当は「芝篇」だけを1本で本にするって話もあったんだけど、「大島篇」はいつもの文体なので、これだけ文体と書き方が違うものが一緒に入った場合、登場人物の声の違い、世界観とか物の見方、時間感覚の違いを文体から表現するというのは、小説ならではの試みとして面白いんじゃないかと。

 ジャンル分けは最終的にはあまり関係なく、せっかく違う文体のものができたんだし、それを活かした本にしようという感じですね。

葉真中 「大島篇」の最後の一行、フレーズがやっぱりこの本全体を綺麗に閉じさせている。これはすごいエンタメ的な発想だと思います。でも純文学の手法で書かれている「芝篇」は、こういう綺麗な終わり方は多分できないはずだから、1冊の本として考えた時は後ろに「大島篇」が入って、うまく閉じている感じがとても良いなと感じます。この形式は多分他にやっている人はいないし、小説というものの一つの可能性を掘っているんじゃないかな。

芦沢 小説って面白いですよね。

葉真中 面白い。その面白いというのは話の内容の面白さの話じゃなくて、いろんなことができるということ。小説って表現形式として実はまだまだ可能性があるんだって思える。そう思わせられることが芦沢さんの強みだと思うんですよね。私なんかは小説に、ある種の不自由さを感じることが多いから、ポジティブに「まだまだいろんなことができる」と思えることはすごい強さだし、実際これまで自分がやってこなかったこと、やれなかったことをやって見せて、それを証明している感じもしました。

「どうやってこの構成を作ったんですか?」

──芦沢さんは、葉真中さんの『家族』を読んでどう思われましたか?

芦沢 葉真中さん相手にこういう言い方をするのは失礼かもしれないんですが、改めて葉真中さんって本当に小説うまいんだなあと思って。この登場人物の量、いくつ家族が出てくるんだっていう人間関係の複雑さを読ませちゃう力がある。私はレシピが見えない小説がすごく好きなんですけど、これは本当にレシピが見えなくて。どうやってこの構成を作ったんですか?

『家族』(文藝春秋)

葉真中 これは何度も試行錯誤しまして。この複雑な話を最後までちゃんと読ませて理解させる、ということが、この小説で考えたことの8割です。

 尼崎連続変死事件自体はとても有名で、なんとなく何が起きたか知っている人は多いですが、例えばWikipediaで概要を調べても、複雑すぎて一発で理解できる人はほとんどいないと思います。

 モデル小説として書く上では、どういう人たちがいて何が起きたかが分かるような作りにしたいと思いました。最初は事件そのものを単純化して飲み込みやすいものにしようとしたんですけど、単純化してしまうとこの事件の異常性みたいなものが削がれてしまう。極力現実の複雑さを、そのまま読者に理解できるように書きたくて構成については相当苦心したんです。

芦沢 でも、分かりやすくしようとした構成の作り方じゃないんですよ。結果的に分かりやすく読めるんだけど、かなり時系列が入れ替えられている。私はタランティーノの『パルプ・フィクション』を想起しました。

葉真中 時系列通りに事件の経過を書くことも考えたんですが、そうすると同じような家族乗っ取りの話を3回くらい繰り返すことになる。どうしても冗長になるし「この方法ではうまくいかないな」と思って、まずは主人公を作ろうと。そしてそいつは最初から最後まで全部に関わっている人間ではなくて、途中から巻き込まれてしまった人にしよう、と決めました。それが主人公の宗太(そうた)です。

 宗太を中心に据えて、彼が「家族」に取り込まれる前にこの「家族」の中で何があったかが照射されていく構成にすると、読んでいく中では主人公の軸をまず理解していって、そこにいろいろな形で過去の話の枝が入ってくることによって、勝手に整理されるんじゃないかと。このやり方なら複雑な話をコンパクトに構成することができるんじゃないかと思いました。

芦沢 時系列でないからこそ感じられるやるせなさとか、焦燥感がありますよね。モデルがある作品って、そのモデルになった事件がすごく魅力的だと、現実の事件の面白さなのか、それとも小説の面白さなのか分からなくなるものがよくあるじゃないですか。その点、この作品は小説としての面白さがすごく出ていると感じました。『事件発覚の〇年と〇日前」という書き方も、どこか神話的というか。運命論みたいな話も重なってきますよね。

葉真中 これだけ元の事件が強いと、「小説だからこそ」をどこで担保するのかは大変悩ましい。この事件に自分なりの工夫で何を持ち込めば小説になるかと考えて、一つの軸として思いついたのが「運命論」だったんです。おっしゃるとおりある種神話的な要素です。主犯の瑠璃子を神とした神話を紡ぐような感じ。気づく人は気づくと思いますが、聖書からエピソードの引用もしています。これは元の尼崎事件の構図にもマッチする上に、ノンフィクションとは違う小説ならではの読み味を持たせることができるんじゃないかなと。現実の事件の複雑さを極力残したまま、想像の余地がある部分を広げて小説として成立させるというのは自分なりに苦労したところなので、そこを面白いと言っていただけると、今日は安心して眠れます。

 

「愛」なるものを疑っていきたい

芦沢 この作品には「愛」とはなんだ、ということが繰り返し出てきます。でも、「愛=性欲」になっている部分がいくつもあるし、「愛」なるものの具体例がエピソードや物語の共有で積まれたものでなくて、わざと薄っぺらく書かれているような気がして。

葉真中 この小説を書くうえでの裏テーマというか、愛なるものとか家族なるもの、つまり世間的に「良きもの」とされていることを疑っていきたいという想いがありました。本作の中で「愛」という言葉を使った時、それが指すものはみんながストレートに想像する青春小説的な「友愛」や家族小説的な「親愛」とは違うんです。はた目には「それは愛なの?」と思われるようなものにしています。分かりやすいのは性欲の話だし、執着と思われるものもある。全面的には肯定できない使い方にしたいなと。

芦沢 特に主人公の宗太の愛はすごくひとりよがりなものだと思いながら読んでいました。

葉真中 かなり不適切なかかわり方ですよね。

芦沢 結婚相手である(すみ)を守りたい、といいながら全然守っていない。「守りたい」と思いながら守れない人間の弱さ、人間臭さはすごく好きです。でも恋愛的な意味でいうと、こんな男、絶対いやですよね。

葉真中 私は宗太と澄のラブストーリーを書いているつもりでいて、でも途中から「汚いラブストーリー」にしたいなと思ったんです。「汚い」というのは、自分勝手な愛情の持ち方・持たれ方ということ。ただひとりよがりであるにせよ、宗太は澄を愛してるし、澄も最終的には宗太を愛しちゃってる瞬間がある。善悪とか適切、不適切関係なく、人が自分じゃない他者に対して愛情を抱いた瞬間って、どんな形でもその瞬間だけの尊さってあるんじゃないかということを、この作品に込めたかった。だから、物語の終盤で宗太が澄の手を握るシーンがあるんですけど、実はここを結末にしたかったんです。でも担当編集者から「つらすぎます」と言われて。

芦沢 そうだと思いますよ。あの部分は若干の自己陶酔感があるから、いいと感じる読者と、気持ち悪いと思う読者がいる。

葉真中 その気持ち悪さで終わるのもいいと思っていたんですよね。

芦沢 読者が受け入れがたくて「なんだこいつ」と思って終わるのも一つの小説の力だと思うんですけど、私は現状のラストが、主人公の宗太をも肯定することになったのを感じて、ざわざわした気持ちが少し落ち着いたんですよ。『鼓動』の時にも思ったんですけど、葉真中さんは「生きるということ」をとにかく大事にしている印象があって。この小説のラストを、時系列上の最後のシーンにするのではなく、生への肯定感が際立つシーンに据えたのが意外だし、いいなと思いました。

葉真中 そう読んでいただけたならよかったです。ここまでいろいろ話しておいてこんなことを言うのも変ですが、私、作者が何を思って書いたかは、小説の読まれ方に関係ないと思ってるんです。これから読む方にも、自分なりの『家族』を味わってほしいですね。今日は芦沢さんとお話ができてよかったです。ありがとうございました。

【プロフィール】

芦沢央(あしざわ・よう)
1984年東京都生まれ。2012年『罪の余白』で野性時代フロンティア文学賞を受賞しデビュー。同作は15年に映画化。23年『夜の道標』で日本推理作家協会賞を受賞。近著に『汚れた手をそこで拭かない』『嘘と隣人』など。

 

葉真中顕(はまなか・あき)
1976年東京都生まれ。2013年『ロスト・ケア』で日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞しデビュー。19年『凍てつく太陽』で大藪春彦賞および日本推理作家協会賞を、22年『灼熱』で渡辺淳一文学賞を受賞。近著に『鼓動』など。