松田 これだけ重いテーマの小説に、ひとつの結論なり決着をつけるのは非常に難しくて、作者としては書けるとことまで書いて、あとは読者の想像力に任せざるを得ないくらいのレベルだったと思うのですが、そこをあえてそれぞれの登場人物をそれなりに成仏させ、物語としてきっちり完結させた。それは読者にとっては満足感を感じられる反面、下手をすると予定調和的になってしまう恐れもあったと思います。
天童 そこは確かに難しいところですが、書いていて、きっと成立し得るだろうという確信はありました。とことん突き詰めて考えてきたし、七年かけて育ててきた根っこの太さもある。だから、ふだんは人が見られないはずの高みにある風景を、読者ときっと共有できるはずだし、人々が薄々気づきながら言葉にできなかった心の深みにある心象風景を、きっと言葉にして届けられるはずだ、と信じていました。ただそのためには、物語の締め方をあいまいにして、読者の想像力にお任せします、とするのは逆効果で、ちゃんと鮮明な光景というかビジョンを、しっかり練り上げて提示することで、読者はこちらを信頼し、自分の心を作品なり作家なりに預けてくれると思うんです。読者が心を預けてくれない限り、ともに高みへは登れないし、深みにも潜れません。そして、ともに高い場所へ登れれば、あるいは深い場所まで潜れれば、それで物語のテーマが閉じてしまうということはないはずなんです。だってそこまで来れたんですから。その場所が新しいステージの始まりになる。ラストがあいまいでは、共通するステージには立てないでしょ。そこからさらに始めること、新たに登ること潜ること、それを可能にするためにも、物語はいったん決着する必要があるんです。ただし、本当にいま言ったような場所まで行けるのか、予定調和に終わってしまわないかというのは、作り手として常に不安というか、恐れがつきまとうものです。でも、勇気をもって挑戦するしかない……そのとき支えになってくれるのも、これまで一緒に風景や言葉を共有しながら進んできた読者の存在なんです。
松田 やっぱり読者としては物語としても面白いし、内容的にもいろいろなことを考えさせられる深いテーマの小説を読みたいという、贅沢な願いを持っていて、『悼む人』がそういう作品であったことはひとりの読み手として読者冥利に尽きると思っています。そして物語の最後で、私たちの心の中にと言いますか、個人の生き方なり考え方なりに返ってくるような着地をしてくれた。思えば『永遠の仔』でも、あれだけの疾風怒濤の物語のラストに、「生きてていいんだよ」という言葉にしてしまえば当たり前のところに返ってきたというのが嬉しくて、本当の感動っていうのはそういうものなんじゃないかという気がしたものです。天童さんがこの物語の登場人物の内面に入り込んで生きたように、読者も蒔野になったり巡子になったり、まあ静人になるのはなかなか難しいかもしれませんが(笑)、様々な体験をして、最後には自分に返ることができるというのが素晴らしい小説なんだと思いました。
天童 読者に登場人物たちの内面に入ってもらって、物語内の現実を一緒に旅するように体験してほしいというのが一番の願いですから、そう言っていただいて本当に嬉しいです。
松田 ところで、この物語には続きがあるのでしょうか。
天童 いまは全部この作品に出し尽くしてしまって、頭が空っぽなもので(笑)。ただこの作品が内包するテーマはとても大事なものだから、今後もしばらくは追いかけることになるでしょう。松田さんはよくご存じのことですが、発表の順番が逆にはなったけれど、『包帯クラブ』は実は『悼む人』から派生した作品です。人が心に負った傷に対し、重い軽いを安直に分けず、どんな傷もその人の大切な経験として尊重することで、すべての人、すべての生を公平に尊重していくことへもつながるんじゃないかという『包帯クラブ』のテーマは、「傷」を「死」に置き換えることで、そのまま『悼む人』のテーマにも通じています。『包帯クラブ』の方向性をさらに追いかけていきたいのと同様に、『悼む人』における「死」へのアプローチを見極めてゆく過程で、さらにどんな風景が現れてくるのか、僕自身見てみたいと思っています。
松田 そういう意味では、『包帯クラブ』が『悼む人』の前に割り込んだのは必要なことだったんですね。
天童 とても意味あることでしたね。『永遠の仔』以後の読者からの声が自分には多大な影響を与えているけれど、『包帯クラブ』に関しては、これまであまり本を読んだことがないような子たちからもたくさんの手紙やメールをもらいました。そういう読者に対して、自分たちが平凡に過ごしている日常からだって聖なる一歩のようなものが生まれるんだということをしっかり届けたいという気持ちが、『悼む人』を書いている最中に確実にありましたから。また『包帯クラブ』は、それまでの自分の作品にはあまりなかった、笑いや軽妙さが取り入れられていて、それが今回の『悼む人』にもいい形で活かせたと思っています。『永遠の仔』『あふれた愛』『文庫版.家族狩り』ときて、次に『悼む人』がくると妙に堅苦しさを感じるけれど、あいだに『包帯クラブ』があることで、ある種の軽みがそこに生まれたし、僕だけでなく、読者にとってもよかったと思うんです。本来あとに来るはずの『包帯クラブ』を先に発表したのは、『悼む人』が下りてきたように、そうするべきだという声が聞こえた気がしたからなんですが、文春さんにはそのぶん迷惑をかけたけれど、『悼む人』という作品のためにも、この順番でよかったと思います。
ともかく、自分がこれまで学んできたことや技術、また読者との対話から得たもの、そのすべてをこの『悼む人』という一作に注ぎ込めたこと、そして納得できる形に結実できたことは、作家として本当に幸せなことだったと思っています。
書いている最中からずっと、『悼む人』は自分が書いているというより、書かせてもらっている感覚だったんです。インスピレーションが突然下りてきたことからしてそうですが、以後も『悼む人』の執筆のための支えや力づけとなるようなことが、自分の周囲でいろいろ起きつづけました。だから七年という時間がかかっても、くじけそうなことも、自信を失うこともなかった。自分にこの〈悼む人〉という存在が託されたことに、深い喜びと感謝を感じ続けていたんです。そして、ここに作品が完成して、読者のもとへ届けられるということに、重い使命を果たせたような安堵感をおぼえ、いっそうの幸福感に満たされています。
あとは、それぞれの読者の心の深い場所へ、この物語が届くことを、心の底から願っています。
天童荒太×松田哲夫 「この世界に一番いてほしい人」
第1回:プロローグ
第2回:読者の声と作家の決意
第3回:静かな作品世界(1)
第4回:静かな作品世界(2)
-
『赤毛のアン論』松本侑子・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/11/20~2024/11/28 賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。