4年の刑期を終えると、“シャバ”はすっかり変わっていた。部下には喫煙を咎められ、組長には「薬物。ダメ。ゼッタイ。」と言われる。
だいじょうぶか。
俺のいない4年間で、この組に、世間に、なにがあった?……
◇
「忖度」を合言葉に村おこしに励む由緒ただしき「忖度村」の面々に、マスク拒否男改め「ゴネラ」とマスク警察、改め「モンクコング」の真剣勝負など、荻原さんの筆が踊る7編の現代奇譚のうち、「ハードボイルド・ルール」を特別公開します。
1
中国製トカレフを使うなんて俺の流儀じゃない。
だが、渡されたもので仕事をするのが、この世界のルールだ。
故障が多いパチもんのオートマチックを、不発弾じゃないことを祈って、奴らの事務所にぶっ放す。
消費者金融を隠れ蓑にしている二階の窓だ。窓いっぱいのシール文字の『ローン』のロの字に一発。ンにもう一発。ンをツにしてやった。
騒ぎが聞こえはじめた。防弾カバンで顔を隠して窓に近寄ってくる奴の無防備なドテっ腹にもう一発お見舞いしたかったが、三下のタマを取ってもしかたない。俺は四年間のムショ暮らしからシャバに戻ったばかりで、これが出所後の初仕事だ。復帰のご挨拶ってことで、このくらいでかんべんしといてやろう。
走りながらハジキからサイレンサーをはずしてトレンチの内ポケットにしまいこみ、裏道に駆け込む。道の先には逃走用のセダンが待っている。開け放したままのドアから後部座席へ飛び込んだ。
「出せ」
運転役の若いのに命じて、フェイスマスクをかぶったままリアウインドウから背後を窺う。まだ姿は見えないが、複数の怒声が迫ってくるのがわかった。
「早く出せ」
だが、車は動かない。若いのはハンドルを握って前を見つめたままだ。
「なにしてる」
案山子みたいに瘦せ、前髪で鬱陶しく目を隠している、いまどきの小僧だ。四年前には組に居なかった部屋住みの見習いで、長尾峠では無敵だったゾクあがりっていうふれこみを信じて使ってみたのだが、まさか、ビビリすぎて体が動かなくなったんじゃないだろうな。
「おい」
俺は運転シートを蹴り上げる。小僧がルームミラー越しに俺に目を走らせて、ぼそぼそ声で何か言った。
「あ?」
「…シートベルトを」
「は?」
曲がり角の向こうから人影が姿を現した。ゴリラみてえにでかいのが鉄パイプを振り回している。
「くだらねえ冗談はよせ」
「シートベルトをお願いします」
曲がり角から次々と凶悪そうな連中が湧いてくる。俺は舌打ちをしてシートベルトを締める。後でこいつもシメてやる。
命知らずなのか防弾チョッキを着込んでいるのか、先頭の鉄パイプゴリラが突進してくる。リアウインドウを叩く寸前に車が発進した。
「待て、ごるあ」
「待てやあ、うらぁ」
口々に叫んでいるが、待てと言われて待つ馬鹿はいない。俺はリアウインドウに張りついてフェイスマスクの開いた口から舌を出し、ファックサインをしてやった。
表通りに出る。恐れていた渋滞はない。銀色のセダンは滑るように進み ――はしなかった。
「おい、急げ」
一秒でも早く、一メートルでも遠く犯行現場から離れるのが、正しい犯罪の鉄則だ。だが、小僧はカーステレオから音楽を流しながら、のんきなスピードでセダンを走らせる。
「ドライブに来たんじゃねえんだぞ」
「でも、前にバスが」
「抜け」俺はいつまでも出ないウインカー音のかわりに舌打ちをくり返した。「早く」
うなじに嫌な気配を感じた。ちりちりと毛が逆立つ。長く反社活動をしていると、こういう感覚が研ぎ澄まされちまう。
振り向くと、数台後方に黒塗りのワゴンが迫っていた。運転席と助手席に見える顔は、スキンヘッドとパンチパーマ。あきらかにカタギの人相じゃない。
「追ってきた。急げ」
小僧が両方のてのひらでハンドルを回す。手首をほんの少し動かしただけで、するりとバスを抜き去った。と今度は反対方向にてのひらをかたむける。一瞬で元の車線に戻った。マジシャンみたいな手つきだった。やればできるじゃねえか。が、峠族の片鱗を見せたのはそれだけで、またたらたら走りに戻る。
「もっとスピード出せや」
「ここは制限速度60キロなので」
「は?」
俺がシートを蹴るのと、奴の手先がまたほんの少し動き、前方の車両を追い越すのはほぼ同時だった。腹が立つがテクニックはたいしたものだ。
続けてもう一台を抜き去る。だが、追い越しをしたら、再びのろくさい速度に戻してしまう。気になって俺が振り返り、追手が後続車の列に埋まったままであるのを確かめてから、顔を戻すと、ルームミラーに映っている奴の目と視線が合った。笑ってやがる。怖いんですか、と言っているように俺には見えた。
そうか、俺の度胸を試しているのか。俺がいない間に組に入った野郎だから、舐めてやがるのだ。俺の鋼の心臓を、組内で「一人凶器準備集合罪」と呼ばれていることを、知らねえらしい。
俺は前のめりになっていた体を後部座席に預けて、貧乏ゆすりをしていた足をことさらゆったりと組む。フェイスマスクをつけたままであることを思い出して、ハロウィン用のスクリームのマスクをはずした。そのとたん、車が急停車した。
「なんだ、どうした」
ま、ま、まさかパンクじゃねえだろうな。マスクをはずしたのに、俺の顔はスクリームのお面になった。盗難車でナンバープレートはてんぷらだから、車からは身元がバレるわけはなく、奴らから逃げ切ればなんの問題もない。だが、もし捕まれば、コンクリートを抱かされて東京湾に沈む。俺の鋼の心臓が、鍛冶屋の槌のように激しく鳴った。
「パ、パ、パンク?」
「いえ」
若いのがハンドルを握った右手からひとさし指だけ突き出す。指さす先で、婆さんがのたのたと横断歩道を渡っていた。
「馬鹿やろ。ババアなんか轢いちまえ、どうせ長くねえ死にぞこないだ」
「ピー」
「んだよ、ピーって」
「ババアは差別用語です」
「ババアはババアだろ。老人って言えってか?」
「老人は放送不適切用語です」
「関係ねえ。黙って運転しろ。ボケ、カス、田舎もん」
「ピー、ピー、ピー」
舐めやがって、俺はドライブ小僧のこめかみにハジキをあてがった。
「死にてえか」
だが、小僧は、やけに冷静に言葉を返してきた。
「だいじょうぶっす。差は縮まってないんで」
え?
振り返る。奴らの車もこちらと同じぐらいの速度だ。あ、奴らも横断歩道で停まった。小学生が旗を手にして道を渡っているからだ。とんでもねえ連中だ。自分が追われてるのも忘れて、声を荒らげてしまった。
「馬鹿か、馬鹿なのか、ヤクザの風上にも置けねえ」
「ピー、ピー」
「るせえよ」足を振り上げて、ヘッドレストを蹴っ飛ばしてやろうかと思ったが、これ以上運転に差しさわりがあるとまずいから、自重する。
逃走車は制限速度で道を行く。でも追手も同じ速度だから距離は縮まらない。ああ、尻がこそばゆい。あんまり嬉しくねえ。そうか、下手に違反してサツにパクられたら元も子もねえからか ――って、違うだろ。ヤクザがそれでいいのか。
脇道に逸れた。こっちほど追い越しテクのない追手の姿はもう見えない。あの低速で追跡をまいた腕は認めてやっていい。俺は硬直していた全身の緊張をようやく解く。余裕を見せるために口笛を吹いてやった。
若いのが音楽のボリュームを大きくする。さっきからエンドレスで流れている、甘ったれた歌詞の曲だ。
「最近はこういうのが流行ってるのか」ムショではクラシックばかりかかる。
「LA・RLA♪リルレさんの新曲っす」
「ララリルレ?」
「いえ、ラ・ラッラ~リルレさんっす」
「ラ、ラ、ラリルレ?」
「ラッラララ~リルレさん」
さっきと違ってねえか。「さん、って、知り合いか?」
「いえ」
「んなもん、呼び捨てでいいんだよ」
「ミュージシャンさんに、そんな失礼なことできませんよ」
「馬鹿か」
今度こそ、ヘッドレストを蹴っ飛ばしてやった。
2
社長室のドアを開けると、ゴルフボールがころがってきた。
「ファー」
組長のおどけ声が聞こえた。どうやら機嫌は悪くないようだった。俺はボールを拾い上げて、パターを手にした組長の足もとへ投げ返す。
「ワンオン。おみごとです」
「おお、ご苦労。どうだった」
ケルマンの絨毯を敷きつめた部屋に入って、グータッチができる距離に歩み寄った。
「二発ぶちこんできました」
「よっしゃ、よくやった」
オヤジは上機嫌でパターを振りまわす。危ねえっす、オヤジさん。
「これで顔が立つ。奴らの面子を潰せる」
喜んでもらって何よりだが、どうして組長の顔が立つのか、奴らの面子が潰れるのか、俺は知らない。ハジキを渡され、行く先を指定されただけだ。何のために弾丸を撃ち込むのかは聞かなかったし、興味もなかった。四年のブランクがあっても腕がなまってないことを証明できればそれでいい。
「顔は見られなかっただろうな」
「もちろん。でも、危ねえとこでした」
受けた仕事がどんな無理難題でも言いわけをしないのが、この稼業で生きていく上での俺のルールだが、今日ばかりは我慢ができなかった。運転役の小僧のことを話す。
「なんすか、あれは」
俺らしくもなく、愚痴る口調になってしまった。唇もつい尖る。
つるりと禿げた頭と小太りの体は一見、好々爺ふうだが、オヤジは誰より気が短い。あの小僧のせいで、自分の顔が立たなくなりかけたと知ったら、奴は腕の一本や二本、肋骨の三本や四本じゃ済まないだろう。
「シートベルトをしろだとか、制限速度以上は出せねえとか。あんなの使いもんにならねえでしょう。オヤジさんの推薦じゃなかったら、ボコボコにしてやるとこです」
車を降りたら、ぶん殴ってやろうと思ったのだが、奴は俺を降ろすなり、逃げるようにどこかへ車を走らせた。
「シートベルト?」
オヤジが心底呆れたというふうに太い首をかしげた。
「ええ、呆れたもんす」
「シートベルト、大切よ」
「……はい?」
「だいじな命を乗せているわけだもの」
「……大事な命もなにも、オヤジさん、奴らに追いつかれたら、命取られてましたよ。あいつ、きっちりシメときますんで」
「まあ、まだ若いんだ。大目に見てやってくれい」
驚いた。オヤジの言葉とも思えない。この四年間で丸くなったのだろうか。四年前の俺が同じヘタをこいたら、指が飛んだかもしれねえ。親戚の子か?
「しかし、あんなのに運転やらせてたら、オヤジさんだって ――」
「まあまあ、そうカリカリするなや。イライラしている時には、これを飲め」
オヤジが俺の目の前にスチール缶を突き出してきた。
「なんすか、それ」
細長い青色の缶だ。
「オックスブルー」
栄養ドリンクか。
「オックスブルー、力よ漲れ! どうだ、ひと缶」
俺のシャバでの飲み物は、コーヒーとアルコールだけだ。手渡されたが、手の中でころがして儀礼的に迷ったふりをしてから、オヤジの机の上に戻した。そして気づいた。
両袖のエグゼクティブデスクの上にも同じ缶が置かれている。しかも六缶。六缶がピラミッドをつくっている。六缶ともロゴがこちらに向けられていた。
「お体でも悪いんすか」
「いや。より前向きな飲料習慣よ。オックスブルーには不足しがちなたんぱく質が一日の必要量の三分の一も含まれている。コラーゲンはなんとスッポンのえんぺらの二倍。睡眠を改善する効果もあり」
「誰と話してるんすか」
オヤジは聞こえないふりをして、青い缶のひとつを手に取って、中空に掲げてみせた。
「失う前に飲れ。これ一本であなたが変わる」
なるほど。そういうことか。
指定暴力団である俺たちの組は、警察から徹底的にマークされている。盗聴を恐れて、オヤジは遠回しに俺に何かを伝えようとしているのだ。
失う前に、やれ。つまりチャンスを失う前に、もう一度あそこへ行って、ハジキをぶっ放せってことか。二度目は当然、警告ではなくタマを狙う。むこうの組長か若頭クラスを殺れば、『あなたが変わる』。つまり、この一件で、俺は金バッジに昇格できるってえ絵図だ。
「承知っす。俺に任せてください」
胸を叩いてみせると、オヤジが目を丸くした。「え」いまさら驚かないでくだせえ、俺の俠気を。
「みなまで言わんでください。こんな汚ねえ首で良かったら、いつでも差し出しますんで。懲役、何度でも行きますから」
「あ?」
自分のせりふに酔いしれて、部屋の奥の窓に映る自分の姿に見惚れてしまった。オヤジの机の端に腰を落とし、煙草のパッケージを取り出して、一本を振り出す。
「おい」
オヤジが鋭い声を出す。丸い目が尖って見えた。
おっと。いくら盃を交わして二十五年のつきあいでも、社長室で断りなく煙草を吸うのは、調子に乗りすぎか。親分と子分の分をわきまえねえと。
俺は煙草をくわえたまま、断りを入れる。
「すいません」
「うんうん、吸いません、だよ」
「は…?」
「ここは禁煙だ」
「うそ」
思わず声に出してしまった。オヤジは俺以上のヘビースモーカーだ。花粉症用のマスクをしている時も、マスクに穴を開けて吸っていた。
「煙草をやめられたんで?」
俺がムショに行っているあいだに流行っていたというコロナってやつのせいか?
「おおよ」
そういえば、机の上に灰皿がなかった。若い頃は何度もそれで殴られた、ガラス製のでかくて重い灰皿だ。部屋もヤニ臭くない。部屋の奥では空気清浄機が低く唸っていた。
「お前もやめたらどうだ。意志がないなら医師に相談」
しかたなく煙草をパッケージの中へ戻す。
「ドクターストップってやつですか」
オヤジが首を横に振った。
「上がそう言ってるんだ」
上? オヤジの上なんて誰もいないはずだが。本家筋のことか?
「ところで、俺は、前のシノギに戻っていいんで?」
俺の復帰の第一条件は、組のためにひと仕事をすることだった。つまりさっきの一件だ。メリットで仕事をするわけじゃないが、メリットは好きだ。首尾よくこなせば、もとのシマとシノギを取り戻せるという約束だ。
「ああ、もちろん」
オヤジがオックスブルーとやらをひと口飲んでから言った。
「お前のシノギって、なんだっけ」
水臭いな。俺はこの組では、長く、アレの担当だ。
「お忘れにならんでください。アレです」
「アレってのは、アレか」
「そうっす、アレはアレです」
盗聴を恐れてか、オヤジははっきり言わない。俺も口に出さないが、「アレ」とは薬物のことだ。覚醒剤、コカイン、ヘロイン、非合法ドラッグ。俺のシノギは、主にそれらの販売。懲役を食らったのも、覚醒剤取締法違反だ。
「まだやってるのか、お前も」
「ええ、まあ」なにしろムショで四年間も我慢してきたのだ。今日も殴り込みに行く前に、打ってきた。シャブをやりゃあ、恐怖心が薄れて仕事がしやすくなる。
「やめろ」
「はあ」確かに、ヤクは売っても打つな、が組の方針だ。だが、それはあくまでも建前。いまでも組の重要な収入源だし、扱っている以上、自分たちもやる。寿司屋が寿司を食わねえでどうするって話だ。オヤジだってコカインのやりすぎで鼻の穴の壁がだいぶ溶けているはずだ。
「ま、ほどほどにしときますんで」
「ばかもん。アレにほどほどなんてあるものか。覚醒剤、麻薬、危険ドラッグ等の乱用は貴方の心と体を壊し、周囲の人も傷つけます。一度破壊された心と体は戻りません」
「……いまなんと?」
オヤジが太い首をかしげた。
「あなたの未来、壊していいの?」
「な、な、なにをおっしゃいます。ご冗談を」
「ダメ。ゼッタイ。」
うっそぉ。
おかしいのは、さっきの小僧だけじゃない。だいじょうぶか、オヤジさん。俺のいない四年間で、この組に、世間に、なにがあった?
そういえば、四年前には『七生報國』と書かれていた額が、『和顔愛語』に変わっていた。
3
この店は四年前と変わっちゃいなかった。
事務所近くの中華屋だ。
煙に燻されて変色した壁の品書きも書かれた値段も、覚えているままだった。ビニールのテーブルクロスに煙草の焦げ跡がついているような小汚い店だが、味はいい。ムショにいる間に何度も思い描いたのは、シマ内のクラブのレミーマルタンでもステーキハウスのミディアムレアの大田原牛でもなく、ここのよく冷えた瓶ビールと熱々の餃子だった。
一人で飯を食うのも味気ない。翔太と黒崎を呼び出した。どっちも俺の弟分だ。
翔太が先に来た。のれんをくぐるなり、俺に直角のお辞儀を寄こしてくる。金髪の坊主頭が満月のようだ。
「おツトメご苦労さまでした。網走まで行けなくてすんません」
「おお、気にすんな。遠いからな」気にしてる。ムショの門を出たら、ブラックスーツがずらりと並び、俺に煙草を差し出すシーンを夢見て懲役に耐えてきたのに、門の外には誰もいなかった。ひさしぶりのビールはやけに苦い。
「どうだ、ここの餃子は」
「うまいっす。甘ぁい、肉汁がとってもジューシー、あ、個人の感想です」
翔太が二本目のビールを俺に注いでいると、男が一人入ってきた。いい年をしたリーゼントと鋭い目つきは、あきらかにカタギじゃない。そいつは俺に一礼すると、俺たちのテーブルに座った。誰だ、こいつ。
翔太はカウンターからコップを持ってきて、そいつにもビールを注いでやっている。俺は野犬のように唸った。
「誰だ、てめえ」
俺のせりふに、その男は顔を強張らせた。
「誰って、兄貴。お忘れですか、俺です」
「オレーデス? 外人か? おめえなんか知らねえよ」
「やだなあ、黒崎ですよ」
「あ?」
いくら四年ぶりだって、自分の舎弟を見間違えるわけがねえ。舐めてるのか。殴ったろか。俺はテーブルにグラスを叩きつける。ことさら大きな音を立てたつもりだったのだが、その音はスマホの着メロにかき消された。
黒崎の名をかたる野郎が蛇柄のジャケットの内ポケットを探る。奴の着メロは、本物の黒崎と同じ長渕の『とんぼ』だった。
「すんません」怪しい野郎は俺にまた一礼し、スマホを耳にあてて店の外へ消えた。
「なんなんだ、あいつ」
翔太は困り顔になった。
「黒崎、かわっちまいましたからね」
「変わっちまったって、あれ、別人だろが」
三十後半の年格好と、ポマードの臭いをぷんぷんさせたリーゼントは同じだが、顔が似ても似つかねえ。背も十センチは高い。
「だから、替わっちまったんです」
「なにを言ってる。黒崎はどうしたんだ」
「前の黒崎は、ちょっと問題がありまして」
「前の黒崎? さっきのも黒崎って名か? 親戚?」
翔太はそれには答えず、また俺のグラスを満たす。
「いろいろありまして」
「なんかやらかしたのか、黒崎」
翔太が眉のない眉を寄せて、首を左右に振る。
「まあ、ちょっと」
「パクられたか」奴にもヤクの売人をやらせていたからな。
「いや、刑事事件ってわけじゃねえんすけど」
「ならなんだ。破門?」
「まあ、そんな感じっすかね」
「なにをやった」
翔太が顔を寄せて耳打ちをしてくる。餃子臭えよ。
「フリン」
「え? なに? もう一度」
「不倫です。若い女と寝ちまったんで」
「それがどうかしたのか」
俺は首をかしげた。かしげたまま餃子をつまんだ。
「だって、黒崎には、れっきとしたパートナーがいるじゃないですか」
「パートナー? 嫁のことか? あのデブの。元看護婦だっけ」
「まずいっすまずいっす。デブはだめ。看護婦も」
「は? なに言ってんだ、お前。気でも違」
「しーしー」
「しーってなんだよ。なによ、その指。唇にあてて。ひ・み・つ? 女とセックスしたのがどうした。ごく自然な行為じゃねえか」
「まずいっす。声が大きいです。でも、ほら、既婚者の場合、裏切られたパートナーの気持ちの問題もありますし」
んなもん、よく知っている。俺も前の前の懲役の時、女を寝取られた。
「夫婦喧嘩になろうが、離婚しようが、黒崎と嫁の問題だろが。赤の他人が外からごちゃごちゃ言ったってしょうがねえじゃねえか」
「でも、上からのお達しなんで」
上、上。上ってのは誰なんだ。本当に上なんているのか?
「上ってのはなんだ」
「じつは俺もよく知らねえんで。オヤジさんに聞いてください」
俺を黙らせるために、オヤジの名前を出したんだろう。腹立たしいが、奴の思惑どおり、俺は追及するのをやめた。
「で、黒崎はいまはいねえと」
「まあ、休業ですかね。運が良ければ何年か後には戻れるかも」
「じゃあ、さっきのはなんだ」
「かわりの黒崎です」
「代理? 親戚かなにかか」
翔太は口ごもったまま俺のグラスにビールを注ぐ。減ってねえのに注ぐから、こぼれちまった。
「ああ、すんません」
そう言う翔太はビールを飲んでいなかった。グラスに入っているのは薄青い飲み物だ。「お前、さっきから何飲んでんだ」
「ああ、これっす」
どこから取り出したのか、いきなり青色の缶を掲げてみせる。
「オックスブルーっす。これ一本に一日に必要なたんぱく質の三分の一が含有されているんです。コラーゲンはなんとフカヒレの三倍。睡眠を改善する効果もありです」
またこれか。俺がムショにいるあいだに大流行したのか。それともオヤジに無理やり勧められてしかたなく飲んでいるのか。
「餃子にゃ合わねえだろが」
「ところが、オックスブルーはどんな食品にも合う合う♪」
翔太が歌うように言い、両手の親指を立てて前後させた。俺じゃない誰かにアピールしているようなしぐさだった。噓つけ。餃子をこれみよがしにオックスブルーとやらで流し込もうとしているが、いまにも吐き出しそうな顔だった。
「失礼しました」
黒崎と名乗る男が戻ってきた。こいつもいつのまにかオックスブルーを手にしていた。
どうもおかしい。尻の穴がむずむずする。
店内に有線放送が流れている。この店じゃあ演歌が定番のはずだが、流れているのは、いまどきの歌だった。「♪君は僕のブルーエナジー」と甲高い声のボーカルが、甘ったるい歌詞を歌ってる。あれだ。運転手の小僧が聞いていた、ラ・ララ・リルレだ。
気に食わねえ。何もかも。俺は煙草を取り出した。ライターは持ってきていない。下っぱのどちらかがライターの火を差し出すのが俺らのルールだからだ。
俺は待った。だが、翔太も黒崎も火をつけようとしない。唇で煙草を上下させて、催促した。
「ああ、気づかんで、すんません」
黒崎が手を伸ばしてきた。火をつけたわけじゃなかった。やんわりと俺の口から煙草を取り去っただけだった。
「こらえてつかあさい。ここは禁煙なんで」
4
俺の一日は日が暮れてから始まる。シマ内の夜の店を巡回するのが日課だからだ。夜行性の絶滅危惧種ってとこだな。
それにしても、どいつもこいつもどうしちまったんだ。
極彩色のネオンの海を泳ぎながら、俺は頭の中でぼやき続けていた。
俺がムショに入っている間に何が起きた。コロナってやつのせいか? ムショの中でもマスクはしていたが、シャバがどうなっているのかは、ラジオのニュースでしかわからなかった。
まあいいや。ゲン直しだ。ひさしぶりに女を抱こう。ソープ行こうか。だが、その前に酒だ。どうせ飲むなら、ウォーミングアップもしておこう。女にお触りできる、あれもこれもできる、本番以外はなんでもオーケーの店へ行くことにした。
なじみだった店は変わらない場所にあったが、店名が変わっていた。あの手この手で露出した女たちの写真を掲げていた看板も、アニメ風のイラストに変わっている。
初めて見る顔の黒服に、組と俺の名を告げると、目を伏せて水飲み鳥のようにせわしなく頭を下げた。そんなに怯えなくてもいい。シマ内の店でも俺はちゃんと金を払うし、チップもはずむ。いまのご時世、ミカジメを要求するにも、企業努力が必要なのだ。
「誰でもいいや。出勤してる中のナンバーワンを出せ」
「そりゃあ、もう、いちばんいいコを」
やってきたのは、画像補正したようなメイクの女だった。歯ブラシみたいなまつ毛と、カラコンで異様に大きくなった黒目。五割増しに加工ったような髪をしていた。紐ばかりの下着をつけた、こればかりは補正が効かない体はけっこう太めで、メリハリのない体に紐が食い込んだ様子は、チャーシューのようだ。
「こんにちわ~、社長さん」
まあいいや。これはこれでオツなもんだ。四年ぶりの女だ。贅沢は言ってらんねえ。ロックの焼酎を一気に呷った俺は、乾杯をしようとする女の名前も聞かずに、メリハリの乏しい体にむしゃぶりついた。
そのとたん、女が悲鳴をあげた。
「なにすんのっ」
俺が引き下げたブラジャーをずり上げて睨みつけてくる。
「なにって、ナニをするんだよ。するこたあひとつだろ」
この店の看板に書かれた『素人多数在籍』というのは噓八百だと思っていたのだが、ほんとに素人がいやがった。同じ看板にはこうも書いてある。
『BTし放題。DKオーケー』
BTはボディタッチ、DKはディープキッスの略だ。俺がそのことを口にすると、女はコーラルピンクの唇をはじけさせた。
「なに言ってるの。BTは、ぶっちゃけトーク。DKは、ドラマチックな駆け引きの略よ」
「なんだその、ドラマチックな駆け引きってのは」
「女と男の駆け引きよ。女性をその気にさせれば、店外デートも可能。ただし結婚が前提じゃなきゃダメ」
馬鹿言ってんじゃねえよ。そういう駆け引きが面倒くさい俺みたいな男とか、そもそも女と駆け引きなんてもんができねえ野郎どもが、ここに来るんじゃねえか。
「お前、新入りか? 初日か? ここがどういうところかわかってねえんだな」
「わかってるにきまってる。セクシーな大人の女性と知的な会話を楽しむ場所よ」
「なあにが知的だ。セクシーな女性だ。このブス」
女の目が丸くふくらんだ。カラコンが落ちたのが見えた。二人がけのソファから飛びのいて叫んだ。
「なになになに、いまの言葉。どういう意味?」
「もう一回、言ってやるよ、ブゥゥス!」
店内に流れていた音楽が止み、全席同じ方向に向けられている周囲のソファから女たちが一斉に立ち上がり、口々に声をあげた。
「ひどーい」
「あいつ、いまなんて言った」
「シュガーちゃんの容姿を描写したのよ、克明に」
「チャーシューみたいだって」
それは言ってねえ。思っただけだ。
「さいてー」
「謝罪を要求します」
俺は言葉の弾丸の集中砲火を浴びた。それぞれの席で俺と同じようにいやらしいことをしていたはずの男たちも立ち上がった。ソファから飛び出した中年の小男が俺を指さす。
「君、女性を外見で判断するのは、いかがなものか」
ズボンを降ろして、ブリーフの前をてんぱらせてやがるくせに、なにを言う。
「うっせえ、チビ「ピー」
俺が叫び終えないうちに小男が背伸びをしてペナルティに鳴らすホイッスルみたいな声を出す。「ピー、ピー」
女たちが唱和した。
「ピー」「ピー」「ピー」
背後からも男の声がした。
「誰だ、この店にこんな男を入れたのは。オーナーの見識を疑うよ」
こんな店に来といて、どの口が言う。毛のない頭にキスマークがついてるぞ。
「黙れ、は
俺が「げ」と言う前に、またピーの合唱が始まった。
チャーシュー女はいつのまにか消えていた。くそっ。俺は独りでソファに沈み込み、焼酎のグラスを手に取った。空か。舌打ちをして、煙草に火をつける。おかわりだ。酒も女も。
腕を高く伸ばして指を鳴らすと、黒服がすっとんできた。俺が新しい酒と女を要求するより先に、そいつが言った。
「お客さん、店内は禁煙でお願いします」
「なに言ってんだ、灰皿が置いてあるじゃねえか」
「それは演出上の小道具でして」
ざけんな。
「……それと、揉め事は勘弁してください」
「心配すんな、もう帰る」
俺はポテトチップスや棒チョコが盛られたチャージの皿に煙草を放り込む。
「あーっ」黒服が叫んだ。
「あんだよ。んなもんどうせ、誰も食わねえ使いまわしだろ」
「……んぼうの……しくいた………」
黒服は乾きものの皿を下げながら、ぶつぶつと呟き続ける。なにを言っているのかと思ったら、同じせりふを呪文のようにくり返していた。
「食いしん坊のスタッフがおいしくいただきました。食いしん坊のスタッフがおいしくいただきました」
気色悪い。こんな店、出よう。俺は万札を気前よくテーブルに叩きつけて、立ち上がる。
「あのぉ」
黒服が申し訳なさそうに呼び止めてきた。あんだよ、いまさら詫びても遅えよ。
「お金、足りません」
暴れようと思ったが、ムショから出てきたばかりだ。こんなくだらねえことでパクられたくはない。財布からもう一枚、万札を取り出していたら、入り口のほうからやかましい声が聞こえてきた。
と思ったら、次の瞬間には店の中に何人もの男たちが乱入していた。どいつもこいつも人相が悪い。
やべえ、昼間の奴らか。なぜここがわかった?
サングラスをかけたスキンヘッドが右手をダークスーツの内ポケットにつっこむ。やべえ。だが、そいつが取り出したのはハジキではなく、黒い手帳だった。
「警察だ。この中に、銃撃犯がまぎれこんでいるという密告があった」
密告? 誰が? 俺がやったことは、組長と運転役の小僧しか知らないはず。
考えるのは、あとだ。俺はとっさに入り口と反対方向の店の奥に後ずさりした。
「容疑者はどこだ」
客と女たちが一斉に俺を指さした。偏見だ。いや、当たってるけど。俺は背中を向けて走り出す。
『従業員専用』と書かれたドアを開けた。狭い通路の先には壁しかない。
左手のドアを開けると、女たちの悲鳴があがった。何人もの女たちが着替えをしている最中だった。しめた。部屋の奥には窓がある。
裸の女たちを搔き分けて腰高の窓を開け、下へ飛び降りた。
ポリバケツの上に落下する。裏露地だった。
露地を駆け抜ければ、表通りに出るはずだった。
が、抜け出た先は、なぜか倉庫街だった。闇の中に巨大なかまぼこ屋根だけが並んでいる。人けはまるでない。
ここはどこだ。
おかしい。やっぱり、おかしい。いくら四年の月日が長かったとしても、妙なことだらけだ。俺は夢を見ているのか。それとも街へ出る前に景気づけに打ったシャブのせいか? 四年間やってなかったから、効きすぎてるのか。かちかちだった肘の内側の皮膚が四年で柔らかくなったから、ぐんぐん入っちまった。
走り続けているうちに、脳味噌が酸欠になり、目の前が白くなった。故郷の雪景色みてえに。
だが、頭は冴え冴えとしている。そうか、ここは現実の世界じゃねえ。
逃走する犯人さえきちんとシートベルトをし、誰一人として煙草を吸わず、来るかどうかもわからねえクレームが恐くて、不自然な言葉を連発する。そんな世界に心当たりはひとつ。
ここはドラマの世界だ。
なんで俺がそんなとこに迷い込んだのかはわからない。まだムショに居てシャバに出た夢を見ているのか。
ムショを出る時に、変な門から出て、妙な世界に入りこんじまったのか。
ヤサで注射器をセットしながらテレビつけた時に、画面の中に吸い込まれた?
あれ、俺って、本当にヤクザだったっけ。
俳優なんじゃねえの。
いやいやありえない。だが、死んだ母親は言っていた。「あんたの父親はあの男じゃなくて、別のヒトなんだよ、だからあんたは俳優みたいに男前なのさ」
糞な田舎を出た時には、ビッグになるつもりだった。あん時、ピンサロの住み込みじゃなくて俳優養成所に入っていたら、違う人生があったかもしんねえ。
男と逃げた女房にも言われた。「あなた役者になれるよ、心にもないせりふを平気で口にするのうまいもんね」
ヤクザじゃなくて、俳優だったら、どんなにいいだろう。たとえ悪役でも。考えているうちに、本当にそうである気がしてきた。
なるほど。俺はシャ●中になったわけじゃないんだな。ここは現実とは違う世界だ。ほら、シャ●と言おうとすると、シャで喉が詰まってしまうのが、なによりの証拠。
背後から靴音が響いてきた。
倉庫街の乏しい灯の中に追いかけてくる人影が見え隠れしている。刑事か。一人だけだ。
俺はガキの頃から足だけは速かった。空腹に耐えられず、畑の作物を盗んで逃げまわっていたからだ。
暗いのに、なぜか相手の人相がはっきり見えた。若作りをしているが、定年退職してもおかしくはない年齢の刑事だった。あんなジ●イに、追いつかれるわけがねえ。
「待てぇ~、待たんかぁ~」
大げさな声をあげて追ってくる。待てと言われて、待つ奴などいるわけがない、はずなのに、シャ●のやりすぎか、刑事が驚異の身体能力を持つ設定なのか、俺はたちまち追いつかれてしまった。
「召し捕ったり~」
たぶん、こいつの専門は時代劇だな。
(続く)






