綿矢りささんの『激しく煌めく短い命』(2025年8月25日発売)は、久乃と綸という二人の女性の約20年にわたる関係を描く小説です。「女性同士の恋愛はこの小説で描き切った」と綿矢さんが語るこの集大成的傑作、厚さにためらっていた方もぜひ冒頭74ページを体験してください。すいすい読め、続きが気になること必至です!


第一部 13歳、出会い

 和室の豆電球は黄ばんだ暗がりを部屋の中心に広げ、部屋の四隅の闇を、より一層濃くする。今夜もすぐ寝られへん。となりで目をつむる兄の顔は、バターでこしらえたように、とろりと輪かくがあいまいで、いまにも溶けそうで、細く開いたくちびるのすき間からは呼吸の音が聞こえなくて、屍(し)ろうという言葉を思い出す。豆電球の黄色い明かりの下で、人間の肌は死んで、ろうそく化したように見えるんや。こわくなって目をそらしたら、今度は目をそらした先の黒ずんだ畳の目から小さな虫がたくさんわいてきそうで、また兄の顔に目をもどす。

 ネグリジェのそで口のゴムをかんでいると、ツバがしみてきた生地がだんだんふんにゃりしてきて、ちょっと気持ちが落ち着いた。小さなウサギの絵がちらばるあかね色のネグリジェは、フリルのゴムの引きしぼりがきつくて、寝るまえに身体があったまると、いつも手首がかゆくなる。ワンピースを着た小さなうさぎのがらは、かわいいねんけど。

 

 兄がうっすらと目をひらいた。あんまり静かにひらくので、おどろくひまもない。兄も眠らずにただ目を閉じていただけだったみたいで、まっすぐな眉の下の瞳は、りりしく光っている。

「久乃(ひさの)はあの音、聞こえてんのか」

「え?」

 はじめなんのことか分からなかったけど、耳なれた音がすでに聞こえているのに気づいて、私はうなずいた。

「お兄ちゃんも聞こえてたんや。いっつも鳴ってるやんな」

 毎晩いっしょに寝ていたけど、この音について兄がふれたのは初めてだ。

 体温が布団に移ってほの温かくなるころ、今夜もまた、あの音が響いてる。ふつうの雑音とはちがい、ごくささやかなのに窓を閉じていても外からじんわりしみてきて、こまくをすり抜けてさらに深く奥へ入り込み、低い振動で奥歯を細かくゆすぶる。兄と二人で寝起きしてる和室部屋で、思い出せないほどの昔から、聞こえていた。毎晩聞こえるわけやない。もしかしたら聞こえる曜日は決まってるのかも、確かめたことはないけど。

「気になっててん、いっつもこの時間帯になると聞こえるやろ? ほら、ボーッて鳴ってる」

 兄は布団をはい出ると、立ち上がって障子と窓を開けた。私も起きて兄の隣に立ち、開け放した窓から少し身を乗り出す。

 夜の外の音を聞くなんて、大みそかの除夜の鐘のとき以来や。

 注意しないと気づかないくらいかすかに、止んだり、始まったり。止んだり、始まったりしながら、音は眠りかけの町に、うすくかぶさってる。ふしぎと、外だから大きく聞こえ、家の中だから小さく聞こえるということもない。

「船が出発するときの音みたい」

「汽笛か、たしかに似てるな。でもこの近くに海なんてあらへん」

 山に囲まれた盆地の京都で、たしかに私は海なんて見たことがない。でも聞こえる、汽笛の音が。もしかして、空から鳴っている? うみへび座より大きく形作られた帆船の星座が、夜空をゆっくり移動して、他の星座に接近するときに鳴らす汽笛が、遠く下の方で不眠をもて余してる私たち兄妹の耳にまで、届いたのだろうか。

 兄は左大文字があるらへんの、くろぐろとした山を指さした。

「山から鳴ってるんかもな。反響してる音にも似てるし」

「山でだれかがさけんで、そのやまびこがうちまで届いてるん?」

 兄が軽く笑う。

「こんな夜中に度々山行って叫んでる奴、頭おかしいな。こわっ。でも人の声っていうか、人工と自然の、ちょうど中間みたいな音とちゃうか、これ」

 さっき屍ろうのように見えたとは思えないほど、兄は生き生きとしゃべっている。中学生になってからバスケの部活が始まり、つかれているのか床につくとすぐ眠りほうけるようになった兄との久しぶりの会話が、私はうれしい。

「そうやな、人の声って感じはしいひんな。なんやろ、じゃあこだまかな? 『もののけ姫』に出てきた、あの白くて小ぃちゃくて、目がまっ黒のこだまの精みたいなんが、たくさんに木に座っていっせいに、この音を出してる?」

「あれはもっと、カタカタした音やったやろ。これはもっと、ボーッとした音やん。聴力検査のとき、ヘッドホンから聴こえてくるみたいな」

「探偵ナイトスクープに、調査してもらおっか」

 私の言葉に兄が笑う。

「久乃はおもろい事言うな。桂小枝が調査しに来てほしいな。なぁ、オトンとオカンって、この音のこと知ってんのかな」

 兄は最近、父と母のことをオトン、オカンと呼びだしたけど、そのひびきはいまいち兄に似合ってない。

「気づいてないんちゃう」

「ありうるな。もしかして、これって子どもにだけ聞こえる音ちゃう? モスキート音って言ってな、蚊の出す超音波は、まだ耳がそだってない子どもにしか聞こえへんらしいねん」

 窓から身を乗り出す兄は興奮した口ぶりだ。兄は物知りで、よく科学の図かんシリーズを読んでいるから、きっとほんとなんだろう。それに、子どもだけが聞こえる音というより、私と兄にしか聞こえない音である方が、もっと良い。父と母など、どれだけ耳を澄ましてもこの音は聞こえない存在でいてほしい。

「お兄ちゃん、もしほんまにこの音が子どもにしか聞こえへんのやったら、私らだけのひみつにしとかへん?」

「ええよ、またこの音聞こえてきたら、目で合図送りあおな」

「どんな?」

 兄がウィンクをしようとして、両目つぶりになり目もとがしわくちゃになったから、私は笑った。

「そろそろねよか」

「うん」

 私たちは布団に入り直すと、おやすみも言わずに目を閉じた。豆電球の明かりも、もう怖くない。

 しばらくすると音はふっつりと消え、なにも聞こえない静けさが、逆に耳にむずがゆい。さっきまでの振動を、耳が恋しがってる。あの不思議な音は、私たちの指が届かない、届いても触ると痛いから触れることの叶わないこまくを、直接揺すぶってマッサージするのだ。空からか、山からか、どこからかもれてきて、うっかり受信した私と兄は、ある晩どこかへ連れて行かれてしまう、かもしれない。それがきっかけで私と兄は音の秘密を知ることができるけど、元の世界には帰れなくなる、かもしれない。

 それでもいい。だって今の家は、嫌だ。

 

 あのころ、私たちは良い香りなんかしなかった。

 よく汗をかき、塩ゆでした枝豆の匂いがした。

 私たちは純粋じゃなかった。

 自分が秀でるためには、平気で他人を貶(おとし)めた。

 

 それでも、恋をした。

 恋は、始まりでも終わりでもない。

 ちょうど人生の真ん中にある。

 それを教えてくれたのは、あなたです。

 

 満開を過ぎた桜並木は、体育館へ続く坂道に並ぶ新一年生たちに向かって、惜しげもなく花びらを散らした。桜の老木の幹は水分が抜けて引き締まり、乾いた木肌には縦筋が幾つも入って、ひび割れている。先割れの細い花びらは、枝の先で咲く姿は淡いピンクなのに、散って地面に落ちると真っ白に見えた。

 山の斜面に建つこの中学校は、校舎側と体育館側でずいぶん高低差がある。高い校舎側に立つ桜並木は、低い位置にいる私たちから見上げると、がけの縁に沿って生えているように見える。

 花びらは私たち新一年生のおろしたての制服や、散髪したての黒々とした頭にくっついたの以外は、道の側溝に他の落ち葉と一緒に吹きだまっている。クラス別で背の順に並んだ新一年生の列は、体育館脇から傾斜の激しい下り坂を経て、校門の近くまでずっと続いていた。

 配付された“入学式のしおり”の時間割通りに式が進んでいるとすれば、いまは校長先生が新入生の保護者にあいさつをしているはず。待ち時間のあいだ、新入生たちは互いに自己紹介し合ったり、小学校で同級生だった友達を見つけて話しかけたりして、さっそく友達作りに励んでいたが、静かにしなさいと先生に一喝されたあとは、おとなしくしていた。

「先頭の列に続いて、前へ進め!」

 先生の号令に従い、私たちはじりじりと二、三歩だけ歩き、前の人との距離をつめた。隣の列に並ぶ男子たちの制服はまっさらなのに、他人の服を借りてきたみたいに見えるほどぶかぶかで、ブレザーの袖は長すぎるし、ズボンの丈は余ってる。これから成長してゆくからと、いまの体格を無視したサイズを親に買われた彼らだけど、親の予想通りほんとに成長して背たけが伸びてゆくのを私は知っている。兄がそうだったからだ。入学当時はジャストサイズより2サイズも上だった兄の制服が、兄が中三になった今ではきゅう屈そうに兄の成長する身体を押さえ込んでいる。

 周りの新入生たちは新しい友達作りにだけ夢中で、入学式なのにあまり緊張感が無い。一月の試験会場に来ていた受験生たちと比べると、どうしても今の周りの子たちの顔が、ゆるんで間抜けそうに見えてしまう。

 こんな場所に、いるはずじゃなかったのに。

 ふいに後悔がおそってきて、唇をかんだ。まさか志望の中学校の試験に落ちるなんて思わず、公立のこの中学なんか、まったく下調べしてなかったから、いざ学校へ来ても入学の実感がわかないままだ。あんなに受験勉強をがんばったのに、まさか校区で区切られて決まるだけの、こんな中学校に入学するなんて。同じように中学受験に失敗した兄は、自分は公立中学に入りたかったからわざと落ちたんだ、なんて言ってたけど、私はちがう。本気で目指していた中学の、紺色に金の胸章がついた制服じゃなく、ただの白いポロシャツに灰色のプリーツスカートを着ている自分に、いまだになじめない。

 こんな早い段階で、人生の階段を踏み外しちゃったのかな。くやしくて、地面に落ちている花びらを新しい運動靴の裏で踏みにじり、やわらかな表面に茶色い筋をつけていると、黒いゴムがぽとっと足元に落ちた。

 空から降ってきた?

 違う、私のや。

 とっさに右手で髪をつかむ。あったはずのゴムがなくて、やっぱりほどけてる。まっすぐすぎる私の髪から、きちんと巻いたつもりだったゴムがすべり落ちたのだろう。どうしよう、肩につく髪は結べ、と生徒手帳の校則に明記されてるのに、私の毛先は紺のブレザーを着た肩に触れている。

「先頭の列に続いて、前へ進め!」

 先生の号令がかかり、列が動き出す。とっさにゴムを拾い、つかえないように前の生徒に続き、歩きながら髪を首の後ろで束ねようとしたが、あせっているせいで指先が上手く動かない。束ねるには毛が短すぎるのと、ゴムの輪が広すぎるのとで、結ぶ前から次々と毛がこぼれ落ち、ゴムが手のひらへ戻ってくる。じわっとにじんだ手汗から、ゆがいた枝豆の匂いがする。

 もう体育館の入り口のすぐ近くまで来てる。マイクを通した校長先生の声も聞こえる。新一年生の入場が始まってしまう。

 知らない手が後ろから伸びてきて、私からゴムを取った。

「髪、したげる」

 真後ろから声がして、手が今度は私の髪に触れる。素早くも優しい手つきでちっとも痛くないのに、どんどん髪が一つにまとまっていくのが分かる。どんな子が後ろに並んでいたか思い出せない。彼女の指は私の髪をおくれ毛も残さずすくい上げると、高い位置できつめに縛った。

「こんで、えーんちゃう」

 最後に手は私のポニーテールの房を根元からつかみ、優しく下へおろして毛並みを整え、私の首筋には心地の良い鳥肌が立った。

「ありがとう、えーと」

「一年生、入場!」

 振り向いて顔を確認してお礼を言おうとしたら、体育館の中からマイクを通した号令が聞こえて、あわてて前に向き直る。出入り口をふさいでいた紅白の縦ストライプの幕が、両開きに素早く上がり、自動のような正確さだったが、出入り口の両脇に先生が一人ずついて幕の端を持っていたので、手動だと分かった。

 体育館内に着席した数百人の父兄は、上半身をねじ曲げて、入場してくる私たちを見ながら割れんばかりの拍手だ。金屏風を飾った舞台の前にある空席を目指して、赤いじゅうたんの敷かれた真ん中の花道を、指先までかちこちにしながら、一直線に進む。

 私は他の子のように首を伸ばして保護者席にいるはずの自分の親を探したり、見つけたら小さく手を振る必要は無い。両親は“受験に失敗した私を見たくない”と言って、式に来てない。

 新入生が全員着席すると、校長先生による入学許可の宣言が始まった。座っている身体を少し前かがみにして、さっき私の髪を結んでくれた、隣に座っている女の子の顔をちら見しようとしたけど、距離が近すぎるせいで、ちょうど見えない。今まさに式が進行している壇上から大幅に視線をずらして真横を見る勇気はわかない。かわりにプリーツスカートに置かれた、彼女のふっくらした手だけが見えた。在校生の代表あいさつを聞きながら、その手はわずかに開いたり閉じたりしている。あの手があんなに器用に、私の髪の毛をまとめたのか。

 隣の女の子は最初こそ背すじをのばして舞台上の話を聞いていたけど、新入生の言葉が終わり学年部長のあいさつに差しかかると、だらけた姿勢になって椅子の背にもたれかかったので、ようやく顔がぼんやり見えた。

 丸いりんかくの、眉の下がった眠たげな顔。瞳を半分閉じそうな、間のびした表情をしている。新入生の証に胸元に赤い花のバッヂをつけた彼女は、頬をひくひくさせて、奥歯をかみしめて、あくびをかみ殺し始めた。それを見ていると、私までこみ上げてきて、耳の気圧を変える内側だけのあくびに鼻の穴が少しふくらんで、涙がうっすら浮かぶ。きっと私の鼻の頭は我慢のせいで、少しうす赤くなっているだろう。私たちはほぼ同時に、圧縮したあくびの残がいを鼻息で外へ出した。

 そのとき初めて私の視線に気づいた彼女は、あくびのせいでうっすら涙のたまった目で、鼻の穴をわずかにふくらませたまま私にほほ笑んだ。ふてぶてしい笑みだった。てっきり手先が器用な優しい子だと思っていた、彼女の意外な迫力に驚いた私は、顔に笑みを張りつかせたまま、ゆっくりと瞳を壇上にもどした。

 期待したより、仲良くなれなそうかも……。

 入学式が進むにつれ、彼女の姿勢はますますだらしなくなり、両脚は開きすぎてがに股になり、こらえきれなくなったあくびの音も何度も大っぴらに聞こえ、次第にびんぼう揺すりも始まり、震度1くらいになった。

 

 中学生になってから初めての中間テストが終わると、ちょっと気が楽になった。どの教科のテストも拍子抜けするほど簡単だったけど、それがこの学校のレベルだからか、はじめてのテストで先生が手加減してるからか分からない。たぶん次回の試験からは応用問題が増えて、高度な暗記や複雑な思考の能力が試されるはずだから、油断はできない。レベルが低いと思っている場所ですら高得点を取れないなんて、プライドがずたずたになるから絶対に阻止しなあかん。

 今日は朝から特別授業で、教室にかばんを置いたあと、授業を受ける教室のある校舎へ向かう。雨だれの伝う校舎は入学のときはベージュ色だったけど、梅雨入りしてからは地面に近い下の方が苔むして、うすいグリーンになっている。

 傘をさして武道場の近くを通ると、足元になにか落ちていて拾った。まだ青い梅の実だ。見上げると木には同じ実がたくさんなっている。

 果肉は指で押すと弾力が返ってくるくらいのやわらかさで、うす黄緑色の皮にはすべらかな短いうぶ毛が生えている。泥を指でぬぐってから実を鼻先へ持ってくると、梅干しのような酸っぱさはなく、甘くさわやかな桃に似た香りが鼻孔に行き渡った。また同じ場所へ置くと他の生徒に踏まれそうだから、武道場前の低い縁石に置いたら、同じ考えの人がいたようで、すでに2つの梅の実が並んでいた。

 ふだんは茶道部が使ってる和室を借りて始まった浴衣の着付けの授業は、女子だけがいる。男子はとなりの、多目的室で授業を受けている。家庭科の上野先生と、きもの教室からボランティアで来た特別講師の先生は、たった一時間で男子と女子両方の着付けを完了しなければいけないので、大いそがしだ。

 家庭科部の私は特別講師の補助として同じ部員の千賀子ちゃんとヘルプに出てくれと、この前部活の顧問からお達しがあったから、ずっと緊張していた。

「クラスの子らの着付け、手伝わなあかんの嫌やんなぁ」

 と千賀子ちゃんに言ったら、

「私はちょっと楽しみかも。私のおばあちゃん日本舞踊してるねんけど、けいこでいつも浴衣着たはんねん。私もよく着せてもらってたけど、着せる側もやってみたいと思ってたし、うれしいわ」

 と返ってきた。部活で習って一夜漬けの私と、千賀子ちゃんは意欲も経験もちがう。京都では家業であったり習い事であったり、なんらかの形で着物や茶道に触れた経験のある子たちが多くいるけど、私は家庭科部での活動で初めて着物、というか浴衣を着た。

 少し鼻にかかった小さな声で話す千賀子ちゃんは、中学で初めてできた友達だ。彼女に出会えたことだけでも、家庭科部に入部した意味があった。彼女は私にとっては天然の加湿器の存在で、部室で作品制作をしていると、おたがい何もしゃべらなくても一緒にいるだけで心が潤い、落ち着く。

 千賀子ちゃんは薄いレンズの丸い眼鏡をかけていて、頭頂部から入念に編み込まれた、密度の濃い三つ編みは天然のあめ色をしている。本当に蜜が染み込んでるみたいにしっとり光沢がある。

 家庭科の先生が畳の上に置いた二つの木製の乱れ箱には、うす紅や淡黄色、空色などの生地に四季折々の花が描かれた浴衣がうずたかく積み上がっていて、クラスの女子たちから歓声がもれた。

「このなかから皆さん好きな浴衣を選んでください。中学生の学習用に新しく買ったんもあれば、着付け教室の生徒さんが寄付してくれたんも混じってます。色や柄の好みだけやのうて、自分の背丈に合った浴衣を選びや! 早いもん勝ちやで!」

 特別講師のおばあさんの言葉に、たちまちみんな浴衣の山に群がる。いきなりバーゲン会場と化したその場の雰囲気についていけず、遠巻きにながめていると、みんながいなくなったあとの乱れ箱には、地味な麻の葉模様の紺の浴衣しか残ってなかった。

「あんた、残りものには福やな。それは寄付してもらった紺のかすりで、一番上等の生地やで」

 講師はそう声をかけてくれるけど、私の手にある浴衣は七十歳くらいに見えるその講師の着ている浴衣とそっくりだ。渋すぎやろ。他の女子たちが手に持ってるパステル調の淡い色合いで可愛いデザインの浴衣とはずいぶん差がある。

 なんとか女子のみんなが肌じゅばんを着終えたころ、だれかがドアをノックした。

「先生すみません、男子の方が収拾つきません。ふざけてる人が多すぎて」

 学級委員長の小林君は、着替えてる女子に配慮して、ドアを開けずに外から叫んだけど、残念ながらその声だけでも、下着が透けるほど薄いじゅばんしか着ていない状態の女子たちから悲鳴が上がった。小学四年生まで普通の体育の授業だけでなく、プールの授業のときも男女いっしょに着替えていたのに、たった二年と少しの間で、着替えするときの女子と男子の間には、越えるのが絶対にご法度な仕切りができ上がっている。机に置かれた女子のパンツを取り上げて男子がボール代わりにして教室で野球をしていた小学生のころの光景なんて、中学生の今では考えられない。家庭科の先生がドアの外へ出て小林君と話してからまた戻ってきた。

「男子が先生のいない間に遊び回っているようなので、私はあちらへ行きますね。みなさん帯をつける直前の工程までは進んでおいて。もし上手く着れない人がいたら、家庭科部の吉村さんと悠木(ゆうき)さんに助けてもらって下さい。二人は部活動で着付けの練習をしてて、もうプロ並みやねんよ」

 家庭科の先生であり、家庭科部の顧問でもある彼女は私たちのハードルを上げきったあと、特別講師も連れて教室を出て行ってしまった。浴衣と格闘する女子たちから次々に声がかかり、急に私たちはいそがしくなった。一夜漬けの私はなるべく目立たないように千賀子ちゃんの後ろへ隠れて、色とりどりの腰ひもを首にぶら下げたまま、やみくもに立ったり座ったりしてみんなの姿を鏡でながめ、手伝ってるふりをした。

「久乃、こっち来て手伝って。裾の高さが合わへん」

 田村美穂のドスのきいた声が遠くから飛んできて、逆らえずすぐに向かう。彼女とは小学校が一緒で、家も同じ町内だったので、集団登校は毎朝一緒だった。美穂は小学生のころは普通だったのに、中学に入ってからどんどん派手になって、近所の人たちはバイクを爆音で乗り回すグレ気味のお兄さんの影響があるんだろうとうわさしている。それに付随して、私に対する態度もでかくなった。

 彼女が自己紹介のとき、自分の名前の由来は中山美穂じゃなくて、親の好きやった美保純です、と言ったときは、美保純を知ってる子が教室にほとんどいなくて、先生だけがうなずいていた。

 バレーをやっていたからか背が高くて肉付きも良いから、見下ろされると、仁和寺の門前に立つ金剛力士像なみに迫力がある。長い前髪をコギャル風にふわふわしたヘアゴムで頭のてっぺんに集めてまとめているのも、仁王への空目を後押ししていた。

 美穂は私が彼女の足下にしゃがんで浴衣の裾を整えている間、うっとりと姿見をのぞき込んでいた。

「なぁ、うちってなんでこんなカワイイんやろな。まつ毛くるんってしてんの、これ天然なんやで。マスカラもビューラーも使ってないから!」

 小学生の頃はこんなこと言うタイプじゃなかったのに、いきなりどうした? スポ教のバレー部で、汗かいて体育館を走り回ってたやん、紺色のちょうちんブルマ履いて、洗濯で縮んだ“田村”のゼッケンつけた体操服着て。鏡のなかの上目遣いの美穂は、限界まで上も下もそった細眉のせいで、眉近くの筋肉の盛り上がりが目立ち、メンチを切っているように見える。

「悠木さん、こっちもおねがい。おはしょり処理できひん」

 すぐ隣から声がかかり、移動した私は声の主の、ピンク地に朝顔の柄の浴衣のおはしょり部分を下へ引っ張って、たるみを整えた。

「へえ、髪束ねるのは下手やのに、浴衣着せるのは上手なんやな」

 腰ひもを締め直しながら視線を上げると、こちらをのぞきこむ朱村綸(あけむらりん)と目が合った。入学式の席は隣同士だったけど、私たちの教室の席は離れているうえ、同じクラスでも違う女子グループに入ったから、入学式以来今まで一言も話したことがなかった。朱村綸の声はよく通り、授業中でも先生がしゃべってる最中でもおかまいなしにおちゃらけた発言をするので、クラス内での存在感は際立っていた。先生をバカにしてるというより、とにかく人なつこいのだ。たちまち人気も出て、クラスの子たちだけでなく、他クラスの子たちも彼女とあわよくば話したいと思っているようだったが、私はもし運悪く彼女を敵に回し、目をつけられていじめられたらかなわないと思い、慎重に避けていた。

「あのときは急いでたから、うまく髪がまとめられへんかってん」

「なんであんなにあせってたん?」

 体育館に入る前に校則を守りたかったから、と言おうとしたけど、朱村さんが髪を肩より下の長さなのに余裕で下ろしたままなのが目に入って、言葉を変えた。

「入学式前で緊張してたから」

「そっか、たしかに保護者もいっぱい来てたし、自分の親にも見られるもんなぁ」

 入学式くらいで緊張すんなや、とかなんとか言われると思ったのに、意外と理解のある返答をされて、黙々と着付けを手伝いながらも、私は密かに驚いていた。

 美穂と親友になった朱村さんは新入生の初々しさをとっくに捨てて、制服のスカートを腰で幾重にも巻き折り、膝のだいぶ上までまくり上げていた。高校生を真似てるんだろうけど、短くしすぎて裾が広がったプリーツスカートは、サザエさんのワカメちゃんみたいで、かえって幼く見える。美穂が一気に派手になったのは、お兄さんの影響だけじゃなく、きっと彼女と友達になったせいもあるだろう。

 グループのメンバーだけで行動する女子が多いなかで、朱村さんはわりとクラス全員の子に気軽に話しかける。話しかけられたクラスの子たちは普通の子たちよりもワントーン鮮やかな色彩の朱村さんのテンションにつられるから、話し終わったあとも、みんなちょっとしたプレゼントをもらったあとみたいにはしゃいでる。

 でも私は朱村さんがやはり少しこわい。美穂が分かりやすく人を威かくするのに比べて、朱村さんはあっけらかんと、無邪気に人を傷つけそうだ。興味あるものをじっと見る、好奇心に満ちた、恐れを知らない目つき。よく考えるより先に行動して、思ったことをそのまま口に出す危なっかしさ。朝の学活でも授業中でも先生の顔色を気にせず自由におどけて発言し、クラスのみんなを笑わせる明るい彼女を、自分とは別の世界の人間と感じてた。

「前向いて、えり元整えるから」

 おはしょりを引っ張り過ぎたせいで開いてきた朱村さんのたもとを引き寄せ、見えていたピンクの肌じゅばんを隠す。手を離すとすぐまた開いてきて、何度も引っ張っているうちに、私の息が首のふもとにかかったのか、彼女が笑って首をすくめた。

「こしょばい、息せんといて」

「息しぃひんかったら死ぬわ。たもとの線ずれてるからじっとして」

「なぁ悠木さん、ちょっと聞いてもいい? あのさ、家庭科部ってどんな活動してんの? 私ずっとふしぎやってん。ほら私とかソフトボール部やし、ソフトボールばっかりやってるやんか。でも家庭科部って、具体的に言うと、どんな活動してるん?」

「ミシンでパッチワークのコースターを作ったり、きなこ山もりのわらびもちを作ったり。この、着付けも教えてもらったし」

「へえ、家庭科的なことを幅広く色々やってるねんな。おもしろそう」

 家庭科部をなぞに思う気持ちは、ちょっと分かる。まだどこの部に入るか決めていない四月の時点で開かれた部活動発表会でも、床に体育座りして眺める新一年生たちに、他の運動部や吹奏楽部の先輩が体育館のコートを使って派手に演習してみせるなか、家庭科部は部長が一人だけ出てきて、一年間の活動内容を小さな声で説明しただけですぐ引っ込んだ。短すぎて、メモを取るひまもなかった。

 第四校舎の奥にある家庭科室に見学に行ったとき、自分以外の新一年生が見学の席に座っていたのに驚いたくらいだ。四人しかいない先輩たちが目の前で作ってくれた焼きたてのクッキーをほおばりながら、私はもう入部を決めていた。そのとき一緒に見学したのが千賀子ちゃんで、私たちは事前に示し合わせたあと、そろって入部した。

「部活を決めるとき私は、バレー部にするかソフトボール部にするかで最後まで迷ってんけど、美穂と相談して結局ソフトボール部に決めてん。私らな、新入部員やのに、四月の末にあった春季の体育大会で、さっそく選手として出場してんで! うちのソフトボール部はいままで部員が少なすぎて大会には出られへんかってんけどな、私とか美穂とか他の一年生が入部したから、めっちゃ久しぶりに大会に出場できてさ。一点も入れられへんボロ負けで、一回戦敗退やったけどな。でもええねん、これから一年生のうちらが盛り上げて強くしてくから」

 熱のこもった朱村さんのおしゃべりに適当にあいづちを打ちながらも、私はそれどころじゃない。裾から背中へ回すつもりだったコーリンベルトの先っぽを見失った、濃いピンクのベルトだし目立つはずなのに。彼女の後ろに立ち、身八つ口から入れて背中をまわり脇へ通すはずのコーリンベルトを、彼女の浴衣のあちこちに手をつっこんで探す。朱村さんがくすぐったそうに身をよじる。

「だから、こしょばいって。そんでな、次の夏季の体育大会の試合までには一年生にもユニフォーム配られるらしいから、いまから楽しみにしてる。白とえんじ色の野球選手っぽいのが、うちのユニフォームなんやけど、そでがラグランスリーブになってて、ださ可愛いねん」

 ようやくコーリンベルトを見つけてクリップで止めると、腰ひもをきつくしめ直した。彼女がうっと息を吐き、私の前髪が揺れる。

「きっつ! 肋骨折れそう」

「ちょっとの間、我慢して。これで完成やし」

 出来上がりを見た朱村さんは爆笑した。

「なにこれ、ぐさぐさやん。全然ちゃんと着れてない、すぐ脱げそう」

 私も鏡を見てがく然とした。整えたつもりがえり元はまだはだけてるし、おはしょりは不自然に膨らみ、裾の高さもそろってない。あんなにきつく腰ひもを結んだのに、いや、だから歪んだのか。

「綸なんなん、そのカッコ! めっちゃだらしないやん。久乃、着付け下手くそすぎ!」

 隣の美穂がげらげら笑い出す。

「んなことありまへん! ウチは祇園イチの舞妓どすぅ。お客さん寄ってっておくれやしてごめんやっしゃ~!」

「ハハハ、綸、舞妓と新喜劇が混ざってるで」

「そやお客さん、ウチのお座敷来たら野球拳する決まりどすえ、やりまひょ、やりまひょ! ハイ野球~するなら、こういう具合にしやしゃんせ。アウト! セーフ! よよいのよい! 負けた! 脱ぐで!」

 周りの女子たちも拍手して盛り上がる。戻ってきた先生が、じゃれ合って浴衣をしわくちゃにしている二人を見つけて怒声を上げ、着付けを笑われてくやしかった私の気もようやく済んだ。

 すっかり制服に着替え終わったとき、朱村さんが近くに来る気配を感じ、顔がこわばった。彼女が言ったわけではないが、“久乃、着付け下手くそすぎ!”という声がまた耳元で聞こえた気がした。

「あのさ、さっき家庭科部のこと聞いたやん。あれな、私もほんまは家庭科部に興味あって、入りたいなって思ってたからやねん。でも私には似合わへんかなーって思って、やめた。でも、きなこ山盛りのわらびもち、やっぱ作ってみたいわ」

 若干顔をそむけ気味の私に朱村さんはそう言い、照れた笑い顔のまま、そそくさと家庭科室を出て行った。へこんでる私の気持ちを、フォローしたのだろうか。

 

 八時三十分までに登校して教室へ行き、本鈴が鳴ると始まる朝読書は、一日の時間割のなかでもっとも好きな時間だ。読む本は自由に決められるから、イギリスの児童文学作家が書いたイギリスの小学校が舞台のシリーズものばかり読んで、もう三冊目。中1が読むにはちょっと幼い内容だけど、最近の私は子ども返りしてるのか、こんな小学生向けの本がちょうど良い。おてんばエリザベスは念願のラクロスの試合に出られるのか、性悪ロバートはちゃんと馬の世話をするのか。思いっきり日本の教室の風景の中にいるのに、気持ちは寄宿学校に通うイギリス人と同化している。

 あともうちょっとでおしまいというときに時間がきて、全部読んじゃいたい気持ちを必死でおさえつつ、かもめが飛ぶ形に開いた文庫本を机の上に伏せる。文庫本の表紙には古本屋が保護のためにつけた、薄いパラフィン紙がまだかぶさったままだ。熱心に読むうちに汗ばんだ腕の裏が机に張りついてしまったのを、ゆっくりとはがす。もう十五分も経ったなんて信じられない、朝読書の時間は短すぎる。もうすぐ先生が来て授業が始まると分かっていても、またページを開きたくてたまらない。

 昼休み、千賀子ちゃんが部活でやりかけの刺しゅうを完成させたいと部室の家庭科室へ行ってしまった。普通ならさびしいけど、今日はチャンスだ。さっそく本を取り出して朝読書の続きを開く。

 読みながら、モールス信号に似た音が聞こえるなとは思っていた。ただ遠くの離れた場所で鳴っているようだったので、ふと本から目を離したときに知らない人差し指が自分の机を叩いてるのを見てびっくりした。

 ワタシヲ ミテ

「やっと気づいた」

 顔を上げると朱村さんがいて、私の前の席に座った。

「すごい熱心に読んでたな。なんていう本?」

「大したものちゃうよ」

 彼女は傾いている私の本を指で持ち上げて表紙を見て、

「マンガみたいな本読んでるな」

 と、つぶやいた。

「悠木さん、まえに真藤先生が言ったこと、おぼえてるやんな?」

 朱村さんは気まずそうに早口で、私の顔を見ずに言った。少し斜めを向いたまま私に話しかけてる彼女の身体の向きからも、いやいや私のところへ来たのが見てとれる。

「英語の勉強の話やんな」

「うん。じゃあまぁ、今日の昼休みにテキトーに教えてよ。早よ済まそ」

 少しぶっきらぼうに、彼女は自分の採点済みの答案を私の机に置いた。点数の部分は慎重に三角に折って隠している。

 勇気の鈴がりんりんりん。

 先週英語の授業のあとに、朱村さんは私たちの担任で英語も教えている真藤先生に呼び出されていた。ふだん笑顔の朱村さんが話している先生の顔も見ず、不機嫌そうにうつむいてるから、何があったのかと他の子たちもちらちら見てて、けっこう目立ってた。

 先生と朱村さんはしばらく話していたが、ふいに朱村さんが少し離れた場所にいる私を指差した。後ろをふりむいたけど誰もいなくて、まさかと思っていると、先生が私を手招きした。

「悠木さん、来てくれる」

 教壇まで歩いていくと、朱村さんはそっぽを向きこっちを見ようともしない。

「悠木さん、朱村さんに勉強教えてやってくれる?」

「私がですか」

「朱村さんの中間の結果が、笑えんレベルでな。とくに英語。一年でこれやったら、早々に脱落してまうわ」

 家では姑の介護が大変だという真藤先生は、学校でもよく家庭の愚痴を言ってて、それがけっこう辛らつで笑える。無神経ってわけじゃないけど、プライバシーの意識はおおらかだから、どこか思わぬ方向から矢を飛ばしてこないか、生徒たちは内心おそれている。

 今回はその矢が朱村さんの頭にささってるみたいだ。

「クラスメイトのだれかにみっちり教えてもらいって言うたら、あんたが良いねんて。どうや、見てやってくれる?」

「はい」

 朱村さんから指名が来たことに心底驚いていたけど、無表情で返事した。

 なんで、私?

「そうか、ありがとう。よかったな、朱村さん」

 朱村さんは口をとがらせて、目線をやや下げたまま、動かない。もしかして、いくら勉強を教えてもらうだけの関係といっても、クラスで存在感のない、他の派手な子たちからはちょっと下に見られてる私とは、話したくないとか?

「どうしたんや。悠木さん引き受けてくれたんやし、お礼言いや」

「だって先生の言い出したことやし。私やない」

「なんやそれ、せっかく救済措置とってあげたのに。まあええわ。悠木久乃と朱村綸か、めずらしい組み合わせやな。あんたら、クラスでは違うグループ同士やんな? ま、勇気りんりんチームで頑張り」

 アンパンマンのエンディングテーマが頭のなかで流れるなか、朱村さんと私は顔を見合わせた。

 勇気の鈴がりんりんりん。ふしぎな冒険るんるんるん。

 もし指定校推せんなどで高校を目指す場合、まだ中一でも受験のときの内申点に関わる可能性もあるから、先生に逆らう気はない。でもいざ朱村さんに教えるとなると気づまりで自分から言い出すこともなく、なんで彼女に私が指名されたのかも分からないまま一週間ぐらい過ぎていた。

 でもついに、朱村さんの方から私のところへ来た。もしこのときが来たら伝えようと思っていたことの箇条書きのメモを思い出しながら、少しずつ朱村さんに伝える。本当はメモを見ながら言った方が正確だけど、そのメモを見たときに彼女のプライドが傷ついてしまったら、と思うと出せない。暗記しておいて良かった。分かっているのかいないのか、朱村さんはふんふんとうなずきながら、私の言うことを直接教科書に書き込んでいる。

「動詞が入ってきたときの、語順が分からへん。イズとかアーとか、疑問文になったらあちこち動くやろ。あれがめっちゃ、ややこしいねん」

 朱村さんはチェック印がいっぱいのテストの赤点答案を私の机の上に堂々とさらし、シャーペンの先で該当箇所をつついた。だいぶ序盤でつまずいてるなーと思いつつ、できるだけ丁寧に説明していたら、学習に飽きたのか、朱村さんが教科書から顔を上げ、ニコニコしながら私を見た。

「なぁ、なぁ」

「なに?」

「悠木さんから私に、なんか質問無いのん? 私ばっか聞くのやと悪いしさ。あ、勉強以外のクエスチョンでお願いな」

 朱村さんの言葉にちょっと考え込んだあと、私は質問した。

「英語を教える人に、なんで私を指名したん?」

 朱村さんは女子にも男子にも友達が多いし、そのなかには勉強を聞ける人もいたはずだ。

「だって悠木さんって英語の発音上手いやん? 教科書の文を先生に当てられて読んだことあったやろ」

 学習塾の他に週一でネイティブの先生の英会話レッスンを受けていたから、発音はよく訓練していた。学校の授業でメリッサ仕込みの発音を披露すると、気取ってると冷やかされるかもしれないから控えめにしてたけど、この間当てられたとき緊張して、習った通りの発音で読んでしまった。でもたった一度だけだったはずやけど。

「私もネイティブみたいな英語の発音をマスターしたいねん! そうそう、勉強のほかにも教えてほしいことがあってさ」

 頬づえをついて私の説明を聞いてた勉強のときとはうってかわって笑顔になった朱村さんは、スカートのポケットから折りたたんだ紙きれを取りだした。

「この英語の歌をカラオケで歌えるようになりたいねん」

 それはレンタルのCDについてた歌詞カードを自宅のFAX機でコピーしたようなぺらぺらの感熱紙で、並んでいる細かな英字はところどころインクが剥げて見づらい。

「英語の歌の発音とか、早口で難しそうやな。私、うまいこと教えられへんよ。真藤先生に聞いたら?」

「嫌や、真藤は日本語英語の発音しかできひんもん。英語っぽい発音になるコツだけでも教えてよ。今度の日曜パパと従業員の人たちと一緒に、もぐらのうたに行くねん。そのとき英語の歌うたえたらかっこいいやろ」

 もぐらのうたは新装開店したカラオケボックスだ。カラオケは最近まで専用機器があるスナックでしかできなかったのが、徒歩圏内にカラオケ専用ボックスがいくつか出来てから身近な存在になった。もぐらのうたもそのうちの一つだ。大人しか行けない場所と思ってたけど、子どもも行けるのか。

「綸、おれの席勝手に座んなや」

 袖をまくった腕が伸びてきて、朱村さんの後ろ頭を軽くはたく。私の前の席の橋本くんだ。

「将太、邪魔せんといて。悠木さんに英語教えてもらってるんやから」

「まじで?! 綸が勉強するとか、ありえへんやろ! 拒否反応でじんましん出てへんか?」

「うるさいわ将太、早よサッカーやってき」

 こっわと呟いたあと、橋本くんは教室のドア近くでボールを持って待っていた仲間と共に教室を飛び出した。

 橋本くんと朱村さんは入学当初から仲が良かったので、みんな注目していたが、同じ小学校だっただけじゃなく、ご近所同士だった二人は赤ちゃんのころから友達だったらしい。“矢沢あいの『ご近所物語』みたい!”とりぼんに連載中の漫画を例に出して、千賀子ちゃんは憧れていたけど、朱村さんと橋本くんの間には恋愛のムードはまったく無い。橋本くんのあっけらかんとしたトゲのない雰囲気が、朱村さんと似てる気がする。

 一週間ぐらい前のできごとだけど、橋本くんの後ろに座る私はある日の授業中、彼の耳たぶの裏に、薄緑色のもやもやが張り付いているのを見つけた。

 へえ、人体にあんなふわふわしたカビ生えるんや。

 カビだと思ったそれはよく見ると膿うみで、背中をシャーペンでつっつき教えてあげると、

『やっぱり! なんか痛いなと思ってたんや!』

 橋本くんがティッシュで耳たぶの裏を拭きとると、耳たぶが福耳みたいに二倍の大きさに腫れあがっていた。ピアッサーで穴を開け、ピアスをつけてからずっと外さずに、寝るときも枕に押しつけてたせいで膿んだと、あとで教えてくれた。今、きれいに傷口が治った耳たぶには、黒い輪っかのピアスが揺れている。もちろん校則では禁止だ。

 橋本くんは他にも、春には花粉症のため箱ティッシュを教室に持ちこみ、それでも追い付かずに鼻水をたらしながら授業を受けていた。私がポケットティッシュを渡すと、両穴から太い鼻水を垂らしたまま、

『ありあと。助かるわー』

 と言って、もらったティッシュでハナをぶひーんとかんだ。だから私のなかの彼は、“よく体液がもれてる人”のイメージだ。

 文句を言いながら橋本くんが去ったあと、私はふたたび朱村さんの持ってきた歌詞カードに目を落とした。

「エターナル・フレームっていう曲なんや。私は知らんけど、有名な曲なん? なんでこの歌がいいん?」

「うち中華料理屋やってるんやけどさ、店内BGMによく流れてて、好きやねん。昔の洋楽の有線チャンネルな。アメリカのガールズバンドが歌ってるらしい。でも英語分からんし、どんな意味か知らんけど。なぁどうやったら英語の発音ぽく聞こえるように歌える?」

「とりあえず発音記号を意識して発音してみたら」

「発音記号ってなに? 習ったような気もするけど、覚えてへん」

 歌詞にhandの文字を見つけたから、発音記号のæをノートに書いた。

「へえ! こんなんあるんや」

「最初の方の授業で習ったで」

「どんな発音なん?」

「AとEを足したような発音。アとエをくっつけて、ねちゃっこく発音する」

 からりとした響きの日本語に比べて、英語は、いつもチューイングガムを噛みながらしゃべってるみたいな、あいまいな口の開け方だ。日本語を話すときには使わない口の形に、唇と舌が筋肉痛になりそうになる。

「うーん、想像だけやと追いつかへんわ。悠木さん、声に出してゆってみて」

「えー、恥ずかしい」

「でもお手本聞かんと練習できひんやんか」

 それもそうや。私が不恰好にならないよう、慎重に唇を引き伸ばして「æ」と発音すると、朱村さんが首をかしげた。

「普通のエとどう違うの?」

「æ」

 恥ずかしさを捨てて、思いきり唇を広げて誇張すると、朱村さんも同じ唇の形になる。

「そうか、エにちょっとアが混じってんねんな。æ!」

「そう、できたやん」

「それはそうと、悠木さんって、ひよこみたいな唇の形してんな」

「発音してたからやろ」

「ううん、普通のときも上くちびるがとがって、ぴよぴよ言いそう。グロスぬったら、はえるかも」

 思わず唇を触る。自分の上くちびるの形なんて、いままで考えたこともなかった。

「すごい可愛い形やと思うで。悠木さんはリップ何使ってるん」

 私が筆箱から、町の文具店で売っていた、レモンケーキ味の小さなリップクリームを取り出すと、彼女は首を振った。

「あかん、こんなんオモチャやん。だからかさついてるねん。イズミヤの近くにシミズドラッグストアあるやろ、あそこリップの種類豊富やし、今日学校終わったら買いに行こ」

「やめとく。制服姿でうろついて、先生に見つかるとこわいし」

 放課後生徒たちが好き勝手しないように、生活指導の先生が自転車で校区をパトロールしている。

「じゃ、家で制服を着がえてから行けばええやん」

「それもちょっと、無理かも……」

 うちはいったん帰ったら、また外に遊びに行くのは難しい。母親に外出の理由を説明しないといけないからだ。そして説明したら、“それは学校や塾の宿題するより大切なことなん?”と聞かれる。審判のような厳しい表情の母に、いかに自分が外出したいかをプレゼンしているうちに、自分の中の本当に行きたい気持ちが消失してしまい、たいてい不発に終わるのだ。

「それよりこのエターナル・フレームってどんなメロディの歌なん?」

 話をそらしたくて聞くと彼女は、教える必要が無いほどこなれた発音で歌の一節を口ずさんだ。

「上手いやん! ネイティブが歌ってるみたい」

 彼女はニッと唇の両端を引っ張り上げた。

「耳コピ。ここだけ、何回も聞いて練習してん。でも耳で聴いて覚えただけやし、だいぶ間違ってるやろ。だって単語の一つ一つを読むことすらできひんし。そや、サビのとこだけでいいし、カタカナでルビふってくれへん?」

「あかん、そんなことしたら自然に出来てる発音が台無しになる。このまま耳コピで全部覚えた方が綺麗に歌えるって」

 私が英単語にカタカナをふろうとすると、カタカナで覚えるから日本人の英語の発音は下手になると、すごく怒ったメリッサの顔を思い出しながら言った。

「ふうん、分かった」

 私の熱心さに気圧(けお)されたように朱村さんは身体を引き、椅子の背にもたれた。

「でもどうやって覚えればいいん」

「何回も聴くしかないな」

「うわ、大変やなぁ」

「カセットテープすり切れるほど聞いたら、きっとできるようになるよ。カタカナ書きこまへんようにこの歌詞カードは私があずかっておくな。テスト問題の復習に戻ろう」

 朱村さんのきれいな発音と、しゃべっているときとはまるで別人みたいな彼女の澄んだ歌声を聞いて、私は最初より教えることにやる気が出てきたけど、歌詞カードの方が目当てだったとすぐ見抜けるほど、朱村さんは分かりやすく、やる気を失い、答案に顎がつくぐらい、姿勢をだらけさせた。

「はぁー、文法ってなんでこんなややこしいんやろ」

「初め面倒なだけで、覚えたらすぐ使えるようになるよ」

「んなわけないやん、私がこのクラスで一番英語のテストの点数悪かったのに」

「えっ、べったやったん?!」

 アカン、と私は言ってしまった後に口を押さえたが、朱村さんはじとっとした目つきになり、さらに情けない表情に変わった。朱村さんはばつが悪そうにくちびるをとがらせた。

「これがばれるのがイヤやってん。べったなんて、うちのことほんまのアホやと思ったやろ。ほんまはもっと早く悠木さんに教えてもらいに来たかったけど、軽べつされたらどうしようと思って話しかけられへんかった」

「そうやったんや。先生に呼び出されたときの朱村さんが怒ってるぽく見えたから、私に教わるのが嫌なんかなと思ってた」

「イヤなわけないやん、私から指名したんやし。でもなぁ、先生とか先輩からならともかく、同級生から勉強習うってめっちゃ恥ずかしいで、べったでも」

 朱村さんの気持ちがよく伝わってきて、思わずほほ笑んだ。私だって、いきなり先生に言われて戸惑いはあったけれど、彼女に勉強を教えること自体が嫌なわけじゃない。

「誰にでも得意不得意はあるから、テストの点数は気にせんでええと思うよ。ていうか次は私が朱村さんから英語の耳コピの術を習いたいわ」

 私の言葉に朱村さんが笑顔になる。

「ええよ、いくらでも教えてあげる。コツはな、カセットデッキで聞くんやなくて、ウォークマンのイヤホンで聞いて、歌声を直接耳に送り込むこと。そしたらラクに早く覚えられて、寝言でも歌えるようになるで!」

 

 四限目、全校生徒が体育館で受ける人権学習の前に、学習委員の私は一足早く体育館へ行き、二階の窓を全部開けた。二階の足場は狭く、手すりにもたれて下を見れば、バスケットゴールやみんなが座る用の長いすが遥か下に見えて、ちょっとこわい。長いすは他の学習委員の子たちがならべていた。全校生徒分だからけっこうな量だ。開いた窓からは期待したほどの風はこなくて、館内は蒸し暑いまま。

 三限目を終えた生徒たちが続々と体育館へ入ってくる。生徒たちの履き替えた上履きが床の上で、きゅっきゅっと音を立てる。こうして上から見ていると、一年生と三年生では子どもと大人くらい体格が違う。三年生の列のなかに兄がいないかと探してみたけど見つからず、時間切れになって私は下へ降りた。

 舞台上のスクリーンに映し出された、同和教育がテーマの映画仕立てのビデオ教材が流れている間、生徒たちは終始うるさかった。教材は二十年前ぐらいに作られたのではないかと思うほど古く、制作費も安そうで、どう見ても成人してる男性が、部落出身なのが原因でいじめられる小学生から中学生までを演じていた。登場人物全員が関西弁ではなく標準語で話しているが、これは日本の中学生全員が見させられてるのだろうか? 映写機で舞台上の巨大なスクリーンに映し出される荒い映像の中で、自分のルーツを友達にからかわれ、黄色い学帽をかぶった青年が小学校の校庭にあるジャングルジムのてっぺんに座り、どうしてボクはいじめられるのかと泣きだしたとき、ちゃんと見ていた少ない生徒たちからも笑いのさざ波が起こった。年齢設定に、あまりにも無理がある。またその子がなぜいじめられるのかの説明も、ほとんど無くてサラッと話が進んでいくので、何かもどかしい気持ちが残った。本編の内容に集中できないほどキャストの年齢がおかしい作品なのに、新しいものは作られず、毎年新一年生がこれを見てると思うと、なんとなく違和感がある。

 うちのクラスは特に騒がしく、集中力を欠いている。橋本くんは中腰の姿勢でクラスの列を行ったり来たりしてせわしないし、朱村さんにいたってはスクリーンに完全に背を向けて、美穂や自分のグループの子と普通の音量の声で雑談している。他の生徒も似たりよったりで、誰とも話してない子だけが画面をながめたり、あとは三角座りのひざに額を埋めて寝ちゃってる子もいる。

 そのうち体育館内はさわがしくなりすぎて、映画の音声がほとんど聞こえなくなり、まじめに見ていた子さえ見続けるのをやめる始末だ。

 不思議なのがいつもの集会や特別合同授業のときは少しでも騒いでる生徒がいたら怒号を上げる先生たちが、今日はどれだけうるさくなっても舞台近くに立っているだけで、全然注意しない。普段なら血の気が多くて生徒から恐れられている体育の林先生も、いつものようにうるさい生徒のところに向かって歩かない。そんな先生たちを見ていると、この授業は内容を重視するというより、授業をした、という事実に価値があるのかなと思った。

 同じ道徳関連の授業でも、歴史背景や体験者の話が詳しく語られる戦争や原爆の授業とは違い、人権の授業は小学校のときから全体的にあいまいに、大事な部分が伏せられたまま進んでいた。人権学習のとき先生たちは、資料集やビデオ教材を生徒に与えたあとは、なんの教訓も垂れず奇妙に静かで、あんまり自分の意見を言わない。

 生徒たちも居心地の悪さを感じながらも深くは追求せず、ただ時間が過ぎて授業が終わるのを待ち、最後に書く感想には“差別は絶対になくすべきだと思いました”と先生受けしそうな優等生の言葉を連ねた。なんで彼らの書いた内容が分かるかと言うと、授業の最後に全員が順々に席を立って、一言発表をさせられるからだ。知らないと教えられ、知りたくなくても教えられるけど、もっと知ろうとすると、そこまで知らなくてもいいと押し返される。いつしかその距離も含めて“そういうもの”になった。

 もし詳しく勉強したい子がいるなら先生に聞くより図書館や資料館へ直接足を運んだ方が早いだろう。私もあまりにも解せなかったので、学校の図書室で大きなスペースを陣取っている“人権コーナー”に置いてある絵本を開いた。子どもが描いたような乱暴で勢いのある、でも実は大人が描いている絵と、いわれなき差別に苦しんでいる人々のストーリーは、強いメッセージ性を感じたけど、やっぱり“差別をやめよう”という言葉しか読んだ後浮かんでこなかった。図書室の“戦争と平和コーナー”に置いてある、トラウマになりそうなほど詳しく戦争の悲惨さを伝えている絵本とは、そこが違った。

 小学生のとき、クラスの保護者会で、ある生徒のお母さんが泣き出したと噂になった。保護者たちにも人権を話し合うことがテーマの会があって、そのときに自分も当事者だと告白して泣いたらしい。

「そのお母さんが泣いたとき、他の保護者はどんな感じやったん?」

 と母に聞くと母は、

「特に何も、誰もしゃべらへんかった。なんや“しらーっ”としてたわ」

 と語った。お母さんが“しらーっ”としていただけじゃないのかとも思ったけど、案外保護者のほとんどが“しらーっ”としていたのかもしれない。私たち子どもはいつだって、この問題を考えさせられる機会を与えられたとき、どう答えたらいいか分からずに、どうやり過ごせばいいかだけを考えていたが、大人も似たようなものかもしれない。

 家に帰ってくると開け放した窓から掃除機の音が聞こえて、ゆううつな気分になった。ちょうど私が帰ってくるタイミングで掃除をしている母の機嫌が良かったことは、一度も無い。どうせこの後塾やし、手っとり早く鞄と服だけ取り替えて家を出よう。持ってるかぎでドアを開け、掃除機の聞こえる一階を素早く通り抜けて、二階の自分の部屋に音も無く忍び込んだ。着替えていると、一階から声が聞こえた。

「久乃、帰ってきたん? 自分の部屋にいるん?」

「うん、ただいま」

「なんも言わんと家入ってきたら、泥棒やと思うやんか。ちゃんと声かけて」

「ごめん。お母さん掃除してたし、じゃまになるかなと思って」

 

 七夕の少し前、教室前の廊下に短冊や飾りのぶら下がった背の高い本物の笹が置かれた。中休みのさいちゅう、その笹の下に、朱村さんが一人で立っていた。彼女の周りにはいつも彼女のグループの女子たちがとりまいているから、めずらしい。

「こんなとこで何してんの」

「うち七夕好きやねん、笹の葉さらさらー」

 英語の勉強を何度か教えるうちに、いつの間にか朱村さんとは打ち解けて話せる仲になっていた。クラスで属しているグループの毛色は全然違うのに、不思議と話していても違和感を感じない。隣に立ち一緒に笹を見上げると、本当に竹林にいるみたいに、細長くとがって折り重なる笹の葉が、顔に木陰を作った。学校の裏山にある家からもらったという百九十センチほどの笹には、クラス全員の願いごとを書いた色とりどりの短冊がぶら下がっている。野生の笹はガーデニングショップで売ってるものと違い、がさがさとして繊細さはなく、葉焼けし茶色くなっていたけど、とがった葉先は確かに願いを叶えてくれそうな、神聖な気配があった。

「短冊に書かれたなかにさ、なにかおもしろい願いごとある?」

 聞いてみたら、朱村さんはしゃがんで私の短冊を探し当てると、声に出して読んだ。

「“志望校に受かりますように 悠木久乃”。なんやこれ、オモロないな。まだ一年生やのに、受験の願いごと? 他にないん?」

 私の短冊を見つけた朱村さんが呆れた声を出すから、私も彼女のを探し当てた。

 “ひこぼし様に会えますように♡ 朱村綸”

「なんでひこぼしがひらがな? 小学生なん?」

「うちだけのひこぼし様を、早く見つけたいやん?」

「がんばって、おりひめ様」

 朱村さんは、むんとアゴをつきだした。

「ばかにしてるやろ。悠木さんの方がまっすぐのハイソなんか履いて、よっぽど小学生みたいやで。こんなルーソー流行ってるときに、うちのガッコの女子もほとんどルーソー履いてんのに、なんでルーソー履かへんの?」

「先生に怒られるし、だるだる過ぎるし、足が臭くなるから。でもその巻いてる紐は可愛いと思う」

 ルーズソックスの履き口に結ばれた赤い紐を指差すと、彼女は笑顔になり足を持ち上げた。

「そやろ、私が考えてんで! ソックタッチの代わりに紐で止めたらイケてるんちゃうかなって」

 女子高生の流行りに合わせて、中学生の女子たちのルーズソックスも、“ルーソー”と縮めた愛称で呼ばれ出したのとは反対に、日に日に長く重く厚ぼったくなった。さらに、よりルーズにするために、履く前にソックスの中に丸めた雑誌を入れたりして幅を拡張した。

 伸ばせば太腿の付け根くらいまでの長さのある真打ち“スーパールーズ”まで登場した。もちろん校則違反だったが、だるだるの靴下に向けられた女子たちの熱狂はすごくて、ルーソー関連については教師たちももう諦めモードだ。私は校則通りの、真っ直ぐのハイソックスに、膝を隠す長さの丈のスカートだったけど、みんなのルーソーが一体どこまで伸びるのか興味があった。

 種類も豊富で、タイヤメーカーのミシュラン社の白いおばけのキャラにそっくりな段段タイプと、溶けかけのソフトクリームのようなふんわりした質感で足首に垂れ下がるタイプとで、人気が二分していた。

 どちらのタイプであっても、履くだけなら重みでずり下がるのは間違いない。だからみんなはピンクのキャップのソックタッチをぬって、靴下をふくらはぎにのり付けしていたけど、朱村さんはずり下がり防止に、靴下の履き口のすぐ下を赤い紐で縛っていた。実用的かつ、細い赤紐がおしゃれなアクセントになっていて可愛かった。

 授業が終わる度にソックタッチを塗り直していた女子たちにとって、ソックスの上から紐で固定するのは画期的なアイデアで、編み出した朱村さんは尊敬されていた。うちの中学で一番尊敬される女子は、勉強やスポーツが出来る子ではなく、独自のおしゃれを思いつき、それを実行する度胸と可愛い容姿がともなっている子たちだ。

「そやろ! 紐、まだ余ってるから悠木さんにも巻いたげる」

「私はいいよ、ハイソックスでずれへんから。あと先生に見つかるのもこわいし」

「そう? 大丈夫やって、こっちおいでよ」

 一緒に教室へ入ると彼女は、透明のラメ入りビニール素材にたくさんの星が描かれたペンケースから、丸く巻かれた長く赤い紐を取りだした。

「親せきのおばちゃんがくれてん。台湾のお寺のお土産で、足首に巻くと運命の人に出会えるんやって」

「足首? 小指やなくて?」

「うん、そうゆってた」

「へえ。切れると願いが叶うんかな、ミサンガみたいに」

 小学四年生の頃Jリーグが開幕して、応援歌といっしょに選手たちが手首に巻いたカラフルなミサンガが流行り、多くの子が真似して身につけていた。はじめはみんな市販のものを買っていたけど、とちゅうからハンドメイドが流行って、編み方もどこかから伝来した。昼休みになると女子たちが色とりどりの何本かの紐の先を机にセロテープで貼りつけて編むのが、見慣れた光景になった。

 大半の子たちがファッションより“ミサンガが自然に切れたら願いが叶う”というジンクスの方に着目して、小学生にしては結構苦労しながら、食事するときも風呂に入るときも、ずっとつけていたけど、ミサンガほど丈夫な紐はこの世にないんじゃないかと思うほど切れなかった。ミサンガめがけて、わざと転んでも傷一つつけられないくらいに。見た目からして頑丈に編んだ組み紐で、ずるをして思いきりかんだり、とがった場所にこすりつけたりして痛めつけたが、それでも切れなかった。常に手首に何か巻いているうっとうしさに勝てなくて、ほとんどの小学生があきらめてハサミで切ったと思う。

「違うで。これは縁結びのおまじないで、願いが叶ったら自分でほどくんやって」

「ふうん、それならお手軽やな。ちょうだい」

 もらった紐を手に巻きつかせると、指を伝うその赤は、よりくっきり鮮やかに見えた。

「記念に私が結んであげる」

 朱村さんは私の足元にしゃがみ込むと、左足のソックスをずり下ろし、すねにゴムの跡が強く残るその足首に、赤い紐を固結びして、紐の緒の余った部分を眉毛用のハサミで切った。

「こんなんもう、友達の証やん。これからは久乃って呼んでいい?」

 私の足元にしゃがんだままの彼女が、こちらを見上げて聞いた。

「うん、いいよ」

 私も綸って呼ぶ。

 思ってるのに口で言えないでいると、察したように彼女が笑顔になる。

「私のことも、綸って呼んでな」

 そう言った後、自分の足を私の足の隣へ持ってきた。

「ほら、おんなじ。でも赤い紐を素肌に直接まくと、ちょっとこわいな。ナイフで切ったみたいに見える」

「そうかな、私にはそんな風に見えへん」

「うち、傷口とかこわいねん」

「変なもんがこわいんやなぁ」

「久乃はなにかこわいのある?」

「うーん。生肉で作った薔薇かな。高級料理店で大皿に咲いた大輪の花みたいに盛られてるの見たときこわかった。肉の花びらやのに綺麗って怖ない?」

「何言ってんの⁉ イミ分からん。久乃って真面目そうに見えて、なんかちょっとオカシイとこあるよな。肉の花びら、えーやん、おいしそーって感じ。私の一番好きな花びらかも」

 焼肉でも思い浮かべたのか彼女の顔がとろけて、私は笑った。

 校門へ続く下り道を歩いていると、野球部員たちが大きなスポンジを使ってグラウンドの水取をしていた。連日雨が続き、今日からようやく晴れだした。もうすぐ開催される運動場での球技大会も決行されるだろう。

 学級旗を作ったり、球技大会ではクラスごとの成績で順位が決まったりと、クラス単位での競争心をあおる行事が多くなってきたけど、あんまり興味が持てない。学級旗に書いてある“チームワーク見せつけよう! 1年2組の底力”なんて気持ちは、私のなかに一つもなく、自分が一年二組に属している自覚もない。運動部に入っていたら、団結心の大切さとかを学べたのだろうか。

 学校の外から、わめくような尋常じゃない男性の怒鳴り声が複数聞こえてきた。グラウンドに張りめぐらされた球飛び防止用フェンスに、高校の制服を着た男子たちが数人たまっている。運動場にいる野球部員たちをののしっているのかと思ったが、「オイ出てこいや!」と遠くにある校舎に向かって口々に叫んでいる。どこの不良? うちの中学に何の用? 恐ろしくて心拍数が上がる。このまま校門を出ると、学校の外の通学路にいる彼らの脇を通り抜けなければいけない。イヤだなと思ってその場に立ちつくしていたら、同じように考えたのか、数人の下校中の生徒たちも中途半端な位置で立ち止まってた。

「前田、出てこいや! オレらがしめたるわ、ド腐れ先公!」

 “前田”は多分美術の先生で、私も授業を受けている。彼らはこの中学の元生徒なのかもしれない。運動場にいる体育の先生も、在校生ならすぐに注意するはずだけど、卒業生だとどうすればよいか迷うのか、なにもせずに彼らを見ている。

 騒ぎを聞きつけたのか前田先生が職員室のある校舎から出てきて、彼らへ向かって歩いてきた。出てこなくていいのに。大きな怒鳴り声で厳しく生徒を威圧する先生は何人かいたが、前田先生はそうではなく、どちらかと言うと、授業をボイコットされたり、すれ違いざまに悪口を言われる、生徒にいじめられてるタイプの先生だった。先生にしては身なりがだらしなく、毛穴が開いてしわの寄った何歳か分からない顔に気弱そうな茶色の瞳、先生にしては軽薄な茶色いプラスチックのメガネフレーム、よく煙草やコーヒーの臭いがしている。バーやスナックに入っていく姿を、生徒や父兄が何度か見かけたと聞く。

 授業中に生徒が騒ぐとイヤミを言い反撃するのだが、それが案外攻撃力があってぐさっと来るので、生徒たちの恨みを買う。だけどもともとは、授業を妨害した生徒の方が悪いはずだ。熱血で暴力までふるうタイプの先生より、おとなしめの前田先生の方が、こうして卒業生にお礼まいりをされるなんて。

「お前がおれらのことどんだけバカにしとったか、気づいてへんとでも思ってんのか!」

「お前みたいな人間のくずが、先公いうだけで幅きかせやがって」

「学校から出てこいや! 町で会ったら絶対しめたるさかい、覚悟しとけよ!」

 荒々しくフェンスを揺さぶりながらも絶対に敷地に入らない者たちと、絶対敷地からは出ない者が、フェンスといううすい境界を隔てて中学校という聖域で対立してる。

 前田先生はフェンスをがしゃがしゃ鳴らしながら高校生たちが浴びせる罵声を、笑いの混じった苦い顔でしばらく聞いていたが、やがて彼らにむかって手で追い払う仕草をしたあと、校舎へ戻ろうとした。

「死ねーっ」

 高校生の一人がフェンスのすきまから石を投げ、先生の後頭部に命中し、先生がうずくまる。他の先生が前田先生に駆け寄り、高校生たちは歓声を上げて一目散に逃げ出した。前田先生の周りにはたちまち人だかりができて、先生は見えなくなり、私は足早に立ち去った。

 小さい石やもん、大怪我にはならへんはず。

 と思うものの、まるで自分が先生を傷つけてしまったみたいに恐くて、早く家に着くように祈りながら、急いで歩いた。

 翌朝、テーブルの上に置いてあった京都新聞を広げて、一ページずつ、つぶさに見てみたけど、うちの中学に関する事件のニュースは載っていなくて、ほっとした。

「久乃ちゃん知ってる? 昨日前田先生が学校で石投げられて、三針ぬったんやって」

 次の日登校すると千賀子ちゃんが早速その話題をふってきて、なんとなくその場で見ていたと言いづらく、あいまいにうなずいた。

「石投げた犯人、逮捕されるんかな」

「うわさでは前田先生は被害届出さへんかったらしいで」

 千賀子ちゃんの言葉に、おおごとにならずに済むんだ、とほっとしながらも、なんとなく不穏な気持ちを引きずったまま一限目の授業が始まる。シャーペンで数学のノートに元生徒たちのフェンスを揺らす姿をゴリラに似せて描いてみたけど、気は晴れなくてすぐに消しゴムで消した。

 昼休みもクラスでは前田先生の話で持ちきりで、私のように偶然その場に居合わせた男子が、意気ようようと目撃談を他のクラスメイト達に語って聞かせていた。私もあんな風に好奇心だけでこの事件をおもしろおかしく消費できたら良いのに、みんなより肝っ玉が小さいせいか、まだどこか怯えている。不良の卒業生たちがすごい恨みを抱き続けてるのが、厳しく生徒を抑圧するタイプの先生ではなくて、ほめられた人格では無さそうだけど、特別な悪人でもなさそうな、弱い前田先生だったことが、なんだか恐ろしかった。倒せそうだから攻撃力が増すって、ダサいと思うんだけど、不良たちは気づいてないんだろうか?

 

「ほうほう、やっぱり色どり豊かで、おいしそうやね。さすが家庭科部の二人は、お弁当作るのも上手いな」

 昼ごはんの時間、千賀子ちゃんと私が弁当のふたを開けたとき、たまたま近くにいた綸が私たちの弁当をのぞきこんだ。

「部活動関係ないで。うちはお母さんが作ってるもん」

 私が言うと千賀子ちゃんも、

「うちもやで」

 とうなずいた。

「そうなん? 料理習ってるんやし、自分で作ればいいやん。うちは両親とも店の準備で忙しいから、私が自分のもきょうだいのもお弁当作ってるで」

「えっ、すごい、二人分も? どんなん? 見せて」

 私が言うと綸は自分の机から弁当箱を持ってきて、開けて見せた。私も千賀子ちゃんも思わず歓声を上げるほど、そのお弁当は色どり豊かでおいしそうだった。

 一段目は区切りも何も無く、入ってるのは三つの食材。茹でたホウレンソウが弁当の半分に向きをそろえて敷き詰められ、その上に縦に二つに切ったゆで卵が乗り、もう半分には香辛料が香る、サイの目に切った厚いチャーシューが詰めてあった。二段目は三つのスペースに区切られ、さくらんぼとアボカドとぶどうが詰まっている。銀紙やバランではなく、食材自体の鮮やかな色彩の違いでお弁当のなかを区切る盛り付け方法は初めて見た。綸の盛付け方法だと、お弁当の中身がよりふんだんに、バラエティ豊かにおかずが詰められているように見える。

「カラフルでおいしそうやなぁ」

 千賀子ちゃんが声を上げる。

「冷蔵庫にあったものを茹でたり切ったりして、てきとうに自分で詰めてきてん。簡単にできたで」

「料理雑誌に載ってる写真ぐらいプロ級やん!」

 私はそう言ったきり、言葉が思いつかないくらい、お弁当の中身に見とれていた。綸にこんな才能があったとは。料理がこれだけ得意なら、家庭科部に入ろうかと思ったのもうなずける。むしろ不器用な私よりもずっと、綸の方が家庭科部に向いてそうだ。

「綸、早よ戻ってきて弁当食べ! 昼休みのドッヂボールの時間が短くなるやん」

 声のする方に顔を向けると、美穂を含むグループの子たち全員がこちらをにらんでいる。昼ご飯のとき友達どうしで机をくっつけて島を作るので、だれがどのグループなのか明白になる。綸が私たちのグループに取られてしまうと思ったのかもしれない。

 四月からプール掃除をして、五月には元気にバタフライで泳いでる水泳部員を見ていたから、六月末からの授業でのプール開きは遅いくらいに思ってた。でも実際に入るとプールの水はけっこう冷たいし、わざわざ着替えたり、髪をかわかしたり、思った以上に大変なことが多い。

 プールサイドで体育座りして先生の話を聞いている間、さりげなく手を持ってきて、赤い紐をかくす。準備体操のときは右足を左足の前にできるだけ持ってきて隠し、プールに入るまえは左足の方から素早く浸けた。学校にアクセサリーをつけてくるのは禁止だ。見つかったらたとえただの紐であっても、外せと言われるだろう。

 プールの授業が終わり、さつきちゃんと一緒に教室へ戻って、ほこりっぽくなった体育服を脱いでいると、陰口を叩くトーンの声が後ろから聞こえた。

「綸の真似やろ、あいつが足に巻いてんの」

 振り向かなくても分かる、この声は美穂だ。先生には見つからずに済んだけど、やっぱりクラスの女子は目ざとい。

「あいつがやるとダサくなるから嫌やねんけど。調子乗ってない? チョームカつくわ。ほんまキモい、綸に憧れてるか知らんけどさ、違いすぎやし、どう見ても無理やろ。あいつ無表情やし、何考えてるか分からへんよな」

 美穂の言葉に賛成するように、グループの他の子たちもいっしょに笑う。綸はトイレにでも行ってるのか、ちょうど不在だ。綸のグループの子たちの足元を見ると、全員が赤い紐をルーズソックスに巻いている。

 これは……。

 たしかにあの人たちからしてみれば、私がグループでもないのにいきなりメンバーの印を勝手につけ始めて、何してんねんという気分だろう。

「あいつ綸のカットサロンまで真似してるねんで。昨日の日曜日にエバーグリーンに行ったら、あいつが先に来てるのがウィンドウ越しに見えて、なんか嫌になってそのまま帰ってきてん。あいつの後に切ってもらったりしたら、ダサくなりそうやん?」

「おんなじ髪型にされたりしてー」

 イヤーッと女子たちが黄色い声を飛ばすのを背中で浴びて、聞こえてないふうに着替えを続けようとするが、手に力が入らず、机に畳んでおいたブラウスがつかめない。うつむいた私の、切りたての前髪が視界の先で揺れる。

「エバーグリーンはうちらが初めに行き出したサロンやんなぁ? 綸に教えられたんか知らんけど、もう来んといて欲しいわ」

 だんだん腹が立ってきた。あの子たちはいったい何様なんだろう。特に美穂、中学に進学した途端、なんでこれほど私を見下げるようになったのか。

 意を決して私が近づくと、彼女たちは霧が晴れるように笑うのをやめた。みんな目を伏せたけど、美穂だけが私をにらみ続けている。小学校の集団登校のときに私の前を歩く彼女のランドセルで揺れていたキーホルダーは今も、ハイビスカスを落書きした高校生風の平べったい紺のスクールバッグでゆれ続けている。

 美穂、本当は中学に入っても、小学生のころから続けてたバレーボール、やりたかったんやない?

 私は白くて丸っこい体に細い手足が生えている、つぶらな黒い瞳のキーホルダーを指さした。

「バボちゃん」

「だから何やねん!」

 家に帰るとさっそく足の紐をほどくことにした。美穂は仁王像に似てるけど、生きてる分、仁王像より恐い。メンチの切り方がもう本業の人並みで、小学生のころの無垢な面影は完全に消え去っていた。美容院のなわばり争いなんて、アホらしと思うけど、私は彼女たちの狙い通り、エバーグリーンには二度と足を踏み入れないだろう。私は綸のグループの子たちみたいに、クラス内の人間関係とか上下関係に、いちいちこだわっていられるほど暇じゃない。今までの勉強に加えて、もうすぐ始まる夏休みには塾の難関高校突破のための学習強化プログラムも申し込んだ。

 クラスメイトたちは小学生のころよりも、明らかに幼稚化している。中学では写真を撮るとき、うつむき気味の顔の横でピースして、わざと内股に見せるために脚をハの字にして立つポーズが流行っていた。派手な女子ほど、はにかんでる幼児みたいな様子で写りたがった。書き文字も小学校で習った楷書体でなく、ぎりぎり読めるレベルまで崩した落書きみたいな字体が流行っていて、小学生の頃は習字の時間に美しい文字を書いていた子も、今では自分のノートを個性的すぎる、他の女子と同じフォルムの、逆にもうちっとも個性的じゃなくなった文字で埋めている。しゃべり方まで舌足らずになって、まるで大人になるのを全力で拒否しているようだ。小学生のころはみんな子どもに見られたくなくて必死に大人ぶっていたはずなのに、女子たちのこの変化は一体どういう心理が原因で起こっているのだろう。私はもちろんついていけてない。

 でもとにかく、子どもっぽくふるまうくせに脅しだけは大人顔負けなあの子たちには、もうからまれたくない! いちゃもんをつけられる原因になった赤い紐は、もういらない。足の紐の結び目に爪を引っかけるけど、よっぽど綸がきつく結んだのか、ほどけるどころかゆるむ気配もない。ピンセットでも歯が立たず、だんだん足首に目を近づけるために折り曲げてる背中が痛くなってきた。

 これはもう、切るしかない。

 ソーイングセットの小さなはさみを持ってきて、細い刃の片側を、紐と足首の間に通す。結んでくれたときの、私を見上げたときの綸の顔が頭に思い浮かび、刃先が止まった。

 “久乃って呼んでいい?”

 あのとき私は、はっきりとうれしかった。

 

 ノートの端に数字を書き連ねながら、心理テストの本に載っている診断の結果を足し算する。一問目2点、二問目0点、三問目1点。“はい”か“いいえ”のチャートで診断結果までたどり着ける心理テストは楽でいいけど、十問も二十問も設問があって、すべての問いの点数を加算しなきゃいけない採点式の心理テストは、本当に骨が折れる。

 小学生のときは自分と相手の名前をひらがなにして並べたあと、一文字一文字を法則に沿った数字に置きかえて、並んだ数列の両端の数字を足していく逆ピラミッド型の相性占いが流行ったけど、あれを思い出させるまだるっこしさだ。一度計算を間違うだけでたどり着く診断結果が変わるから、何度も確かめ算をしたあと、やっと“教えてあげる! ほんとうのあなた”の診断結果にたどり着いた。私はIIIタイプ。

 “III 自分を理解してるあなた
 あなたが考えている自分の姿と、あなたが心の奥にもっている自分の本質は、まったく同じ。でも他人は、あなたをちょっとちがうように見ているみたい。もともと人間は自分の本質をなかなか見つけにくいものだけど、あなたはほんとうの自分をよく理解しているめずらしい人だわ。
 ただ、そんな自分自身を好きじゃないようね。何となく自分のことがキラいになったり、もっとちがう人間になりたいという気もちが強いんじゃないかな。そんな好きになれない自分をカラに閉じこめてしまい、他人にはまったくちがう自分を演出しているのかも。だから、あなたが知っている自分と、他人が知っているあなたとの間には大きなギャップがあるのね。でも、自分がイヤだからって、まったく正反対の性格を演じるのは無理というもの。いつかつかれてしまうし、ボロだって出てくるでしょう。そのときまわりの人たちは、あなたの意外な面を発見しておどろき、裏切られたなんて思ってしまうかも。”

 ……当たってるの、かなー。“もっとちがう人間になりたい”の部分は、うん、合ってるな。

 “まわりの人たちは、あなたの意外な面を発見しておどろき、裏切られたなんて思ってしまうかも。”の部分は、恐いな。私は他の人にどんな人間やと思われてるんやろう。それすら分からへん。あ、美穂に最近言われたあの“無表情やし、何考えてるか分からへん”っていうのが、私の印象か。イヤやなぁ。だとしたら、もとから何考えてるか分からへんキャラなんやし、何やらかしても案外みんなに意外やと思われへんのちゃう? いや、余計気味悪がられるだけなんかな。

「なに読んでんの?」

 本の向こう側に突然綸の顔が現れ、驚いたけど平静を装って答えた。

「大したものちゃうよ」

 彼女は私の手元のノートの走り書きをちらと見た。

「なんで計算しながら本読んでるん?」

 彼女は私の手から本を取り、ブックカバーに覆われた表紙ではなく、本を開き中表紙を見つけて題名を読み上げた。

「“好かれる性格キラわれる?! 性格 あなたはどっち?”久乃の読む本のシュミって、変わってるよな」

「ちょっと勝手にやめてよ、返して!」

 本をひったくり、鞄のなかへしまう。カバーつけてるからバレないと思ってたのに。改めて音読されるとハズカシすぎる題名だ。動揺しまくっているのを悟られたくなくて、立ち上がって去ろうとすると、

「ちょっと、まだ話の途中やで。どこ行くん」

「図書室!」

「もうすぐ昼休み終わるのに?」

 返答に困り黙りこむ。美穂に一喝されてから、私は教室内でなるべく綸に近づかないよう、話さないようにしていた。綸に英語を教える流れにもならないように、休み時間になるとすぐ席を立つようにも気をつけていた。でもこんな風に正々堂々と机の前に来られると避けられない。

「どうかしたん?」

「べつに」

 綸みたいにいつも周りに人がいっぱいいる人に、私の気持ちは分からない。気難しそうな自分がちょっと話しかけられただけで舞い上がり、簡単に攻略されて、好かれていると勘違いしてるって、他のクラスメイトに思われるのもいやだ。情けないけど、あんまり人と打ち解けないことで私はプライドを保っていた。

 何か勘づいたのか、綸が私の顔をつくづくと眺める。

「へーえ」

 彼女が私の机の上に腰かけると、机の面積はだいぶ狭くなり、私は身を退いて肩幅を縮こまらせた。

「久乃ってどんなタイプの女子が嫌いなん」

「いきなり、なんで?」

「知りたいんやろ、どんな性格が嫌われて、どんな性格なら好かれるか。やから久乃自身はどうなんかなと思って。私は、すましてるブスが嫌いや」

 彼女の視線の先には、美穂を始めとする綸のグループのメンバーたちがいた。あっ、と思い、途端に優越感がわく。あの子たちは私たちの視線にも気づかず、クラスの男子たちと騒々しくおしゃべりしている。

「嫌いなタイプか。うーん、いますぐには思い浮かばへんけど」

 あいまいに言葉をにごしながらも、綸の次の言葉に期待している。もしかして彼女は今の自分のグループが不満なのかもしれない。それを私に打ち明けたくて、やって来た?

「なんでも分かってますって感じで、つんとすましてる、こまっしゃくれたブスって最悪やない?」

 いじわるな言葉に笑ってしまう。美穂のこと言ってる。私たちの視線の先にいる美穂は、男子たちにちょっとエラそうな態度を取りながらも、ちょっかいを出されるとうれしくてたまらないようで、目を細くして爆笑し、その子の肩を叩いている。

「なにワロてんねん。お前のことやで。私のこと避けてる、すましたブス」

 綸はニヤニヤしながら私の顔をのぞき込む。ぐりんとした丸い眼で笑いながら私をにらんでいるので、息が止まりそうなほど驚いた。

「ショック?」

 べつにと言葉を返そうとしたけれど、直に一発殴られたみたいに胸が痛く、歯をぎゅっとかみしめて、涙が浮かぶ。すましたブス……美穂の言葉より、ひどいやんか。顔をそむけて涙が落ちないように目をしばたたかせていると、綸が私の肩に腕を回した。

「ごめん、いじわるして。でも避けるなんてひどいやん、いまのは仕返しやで。まだ足りひんから、罰として今日の放課後、シミズドラッグで私の買い物に付き合ってな、久乃」

 肩に彼女の腕の重みがぐっとのしかかる。断りたいのに、安心と喜びが先に来て、うなずいてしまった。彼女が私に触れるときに込める力はいつも強くて、後ろから抱きつかれたり、手を引っ張られたりする度に、重心を失ってふらついたり、触れられた場所がじんじんしたりする。でもその度になぜか心が甘くしびれる。

 放課後、家に帰らずに校門の外で綸と待ち合わせをして、町を巡回中の先生に見つからないように離れて歩き、ドラッグストアに別々で入って店内で落ち合った。私がイカリングの形のカラフルなヘアゴムのバラエティパックを手に取り見ていると、綸がさっさと取り上げて私の買い物カゴに入れてしまった。

「ちょっと待ってよ、買おうか迷ってたのに」

「そう? 万引きしようか迷ってるみたいな、思いつめた顔してたで」

 私は薬用リップ、綸は制汗スプレーを買った。購買意欲を刺激された綸は、店を出てもまだやる気満々だ。

「綿棒と爪みがき安く買いたいし、百円キーンズも行こ」

「あれ、なんか発音変やない? もっかい言ってみて」

「百円キーンズ」

「なんか洋風の響きになってない? “キンイツ”やで」

「“キンイツ”なんや! 店作った人の名前やと思ってた」

「アハハ、キーンズって誰なん」

 綸の希望通り、百円キーンズの店に寄ったあと、帰り道沿いに流れる細長い川に差しかかると、綸が足を止めた。

「この橋の下に降りて、川のほとりを歩いてみーひん?」

「なんで? わざわざ降りるような川やないやろ」

 ガードレールから身を乗り出し、うす暗い川の底をのぞきこむ。ただ住宅街の底を流れているだけの川で、歩けるスペースも狭くて、うす汚く、きれいな景色が待っていそうもない。

「冒険って感じでおもしろいやん。小学生のときとか、よく川に降りてみたりしーひんかった?」

「一回もやったことない。賀茂川とか大きな川ならまだしも、こんな小さい川、降りられるってことも知らへんかった」

「じゃあ今日が初挑戦な!」

 私は綸に続き、壁に設置された、川の整備のときにだけ係員が使いそうな鉄はしごを使い、川底へ降りた。降りてる途中に折れたらどうしようと想像するぐらい、鉄はしごはさびついている。

 川に沿った細い道を、先を行く、揺れて崩れてはまた持ち直す、溶けかけのソフトクリームみたいに柔らかい綸のルーズソックスを目で追いながら歩く。もちろん川には魚なんて泳いでなくて、でもドブ川と呼ぶには忍びない程度にはかすかな透明度があった。

 両脇を三メートルほどの堀壁に挟まれた狭い、ちょうど一人しか歩けない幅の川べりは、ぬれた落ち葉や枝が地面に張りつき、やぶ蚊もわんわん飛び、塀が太陽を遮って薄暗く、どう見ても散歩コースではない。

 子どものころに住んでいたマンションのすぐ側を流れていた大きな勢いの良い天神川の上流が、このかぼそい水流の川とは思えない。流れる場所によって印象がずいぶん違う。

「小学生のときは友達と遊んでて川を見つけたら絶対に降りててんけど、さすがにみんな中学生の今は付き合ってくれへんようになったなぁ。将太も“前にお前と川に降りたあと、目ばちこできたからもう行かへん”って言い出して。でも一人で降りるのも恐いしな」

「橋本くんの気持ち分かるわ。あの人、丈夫そうに見えるけど、意外と身体弱いよね。目、どれぐらい膨れたんやろ。川は川でも鴨川とかなら行きたいけど、町なかを流れる川はちょっと恐いし、不潔な感じする。綸はこーゆう川の、どこが好きなん?」

 雑草に覆われた歩きにくい道を軽快な足取りで進む綸の背中に訊いた。

「町の裏面って感じがするところ。あと普通に町を歩いてたら見れへん、不思議なものが見れるねん。ほら、あのアロエとか!」

 綸が指差す対岸の川辺には、確かに先がとがったアロエに似た多肉植物が生えていた。問題はその大きさで、道をふさぐほど巨大化したそれは、とげとげした葉の長さが私たちの腕くらいある。

「でか! あれアロエじゃなくない?」

「成長しすぎたお化けアロエやろ。おばあちゃんが庭で育ててて、怪我したらちょん切って傷口につけてくれたのとそっくりや。庭のはあんなデカくなかったけど」

「葉の形は似てるけど、アロエにしてはさすがに育ちすぎちゃう?」

 その植物は日本ではなくアマゾンが似合いそうな風貌で、紫色っぽい肉厚の葉を怪物のように思いきり広げている。あの植物の怪物みたいな見た目でも本当にアロエなら、ぎざぎざの巨大な葉には人間の色々な部位を癒す成分が含まれているわけだから、なんだか面白い。おどろおどろしく見えても、意外とヒーリングスポットなのかも。

 川は細いが長く、くもの巣を手で払いながら進むと、途中に児童用の真白い上履きが、川の方へ爪先を向けて並べてあった。まるでついさっき、川に飛び込んだみたいに。

「えー、なんでこんなとこに靴があんの?」

「川の上に住んでる人のうちの誰かが干したんやろ」

「こんな取りに来にくい場所にわざわざ?」

 上履きは洗いたてのようにも見えるけど、新品といった方がしっくりくるくらい白い。

「なんか、こわなってきた。爪先が川の方向いてるし、自殺する人の靴の脱ぎ方なんやもん」

「こんな浅くて汚い川で、子どもが自殺するわけないやろ。大丈夫、大丈夫」

 恐る恐る上履きをまたいで進む。たしかに綸の言う通り、普段町を歩いているときには見られない物を、川ではたくさん見られる。でも見たいかって言うと、そうでもないような物ばっかりやけど。

 川の終着点には、入り口が黒い二枚のゴムの幕で覆われたトンネルがあり、この先の川は本格的な暗きょになるようだ。高い湿度に包まれて汗をかいている私たちは、壁にもたれて一息ついた。

「久乃、こんなとこにほくろある」

 私の手を取り眺めていた綸が、手首の内側にある大きいほくろを指さした。

「小さい頃からあるねん。どうしても掘り出したくて、授業中コンパスの針でほじくったりしてた」

「え、痛そう。どうなった?」

「血が出た」

「まー、そうやんなぁ。ほくろ、取れた?」

「ううん。ほくろって意外と深くて、掘っても掘っても、どこまでも続いてるねん」

「そうなんや、てか、なんでそこまで掘るん」

「ほくろにも根があるのかが気になってん。最後小指がけいれんしたからやめたけど」

「掘りすぎやろ。キモいなぁ」

「たしかに……」

「あとさ、今日なんで様子変やったん? 今日だけと言わず、最近ずっとおかしかったやん。私が気づいてへんと思った?」

 綸に強めにこづかれて、甘い痛みが脇腹に広がっていく。

「学校で綸と話すと、綸のグループの子がいやがるから」

「なんやそれ。気にしーひんかったらええやろ」

「そういうわけにもいかない。私、あの子らの気持ちも、ちょっと分かるねん。誰かって仲良しの子取られるんは、嫌やろ」

「ふうん」

 なんで大嫌いな綸のグループの子たちをかばう発言をしちゃったのかと、心の中で後悔したけど、そんなことどうでも良くなるほどに、いま現在綸を独占して一人占めできていることが嬉しかった。私たちの会う場所としては、この川べりは最高だ。誰も来ないし、誰も見ない。いまごろ同じ中学の他の生徒たちは陽の当たる地上で遊んだり、歩いたりしているのだろう。それを思うと私と綸はRPGゲームでいうところの裏ダンジョンに二人だけでいるみたいだった。私たちのおしゃべりは、ぷつぷつとカニのあぶくみたいにふくらんでは、また消える。暗い口を開けるトンネルからは微かにヘドロの臭いがただよい、川の水が停滞している辺りからは、野菜が発酵する臭いがした。どちらも鼻をつくほどの臭いではなく、雑草が生い茂る私たちの足下で混ざり合い、ひっそりと沈でんしている。

 川のすぐ上の道路を行き交う人たちでさえ、きっと私たちには気づいてない。慣れ親しんだ生まれ故郷の、地下の秘密のダンジョンだ。

 ゴボッと音が聞こえたかと思うと、対岸の壁にある大きなパイプ口から、けばけばしい真っ青の色水が、しぶきを上げながら川へ流れ込んだ。

「見て! なにあれ」

 綸はとくに驚く様子もなく、

「この川の上にある繊維工場が、よく染料を流すねん。色んな色。見ててみ」

 ダクトは吹き出し口に白いあぶくをもこつかせながら、青、緑、黄色、橙、赤と順番に勢いよく色水を吐き出す。毒々しいほど色鮮やかなマーブル模様が川に渦巻く。

 ちょうど私の足の近くの川べりにも色彩が侵入してきて、思わず足を引いた。

「すごい色やな。こんなたくさんの染料、川に流しても平気なんかな」

「平気やないやろ。でもしょうがないんちゃう、工場の人たちも、商売なんやから。そういえば久乃は気になる男子とかおる?」

「いーひん。綸は橋本くん?」

「なわけないやん。あいつとは家が近所で、私らが生まれる前から親同士が仲良いから、きょうだいみたいなもん。ほれるとか絶対無いわ」

 幼なじみの男子がずっと近くにいたら、好きになるか、年齢が進むにつれて気まずくなったりしそうだけど、いまでも普通に友達どうしなんて、幼なじみも男子の友達もいない私からすれば、逆に大人っぽい関係に思える。

「私は春季大会で見かけた、柏かし城わぎ中の男子が気になってるねん! 春季の総合体育大会で一回会っただけなんやけどな」

 夏休み前、運動部の生徒たちは区内すべての公立中学校が参加している総合体育大会に駆り出されていた。家庭科部の私には無縁の話だったが、運動部の子たちが大会に向けて、先輩にしごかれつつ練習する姿は、運動場や体育館で頻繁に見かけた。

「どんな人やったん」

「野球部の男子で、うちがソフトボールの試合に負けた後に運動場で片づけしてたら、ボールが転がってきたから投げてあげてん。でもそいつ、ボール取りに来ただけでお礼も言わんと、またグラウンドで練習し始めた」

「ただのイヤな奴やん」

 腰の高さまである雑草の先をむしって、川に投げ捨てる。一瞬青くさい香りが漂い、雑草は穂先をトンネルの方へ向けゆっくり吸い込まれてゆく。

「でも顔がめっちゃカッコ良かってん。私は知らんかったんやけど、柏城中だけじゃなくうちの学校でも有名なほどピッチャーで活躍してる二年生なんやって。ソフト部の子らもみんな、あの子かっこいいなーって言ってた。それ聞いたら、ボール返してもらったらすぐ練習に戻ったんも、部活熱心でクールでカッコいいなと思って」

 男子の話になると急に声が高くなり、はしゃぎ始めた綸に少しムッとしながら、黙って話を聞く。恋バナなんて、女子中学生の私らにとっては一番楽しい話題やのに。なんでムッとする必要がある? でも一度下がった私の気持ちは、元の水準までなかなか戻らない。極彩色がとぐろを巻いてる足元の川は、飛び込めばタイムワープができそうなほど、異次元の見た目。

「でもそれだけやと、どんな人か分からんくない」

「たしかにそうやなぁ。私がはしゃいでたら、ソフト部の子たちが、私らが綸とあの子がしゃべれるように協力したげるって言ってくれてんけど、やめとこかな」

「しゃべってどんな人か分かるんやったら、ええんちゃう。ただ協力してもらったら、次はデート、次は告白って外野に急かされそう」

「そやな、そこまでの勇気はないかも。久乃は好きなアイドルとかはいるん?」

「リチャード」

「は?」

「リチャード・ギア」

「まさか外国の映画俳優出てくるとは、思わへんかったわ。“プリティ・ウーマン”の人?」

「そう。でもリチャードは“プリティ・ウーマン”よりも“愛と青春の旅だち”での海軍学校の訓練生役の方が輝いてた」

 私の言葉に綸が笑い出す。

「リチャードって! 外人やし、おっさんやん」

「でもほんまにカッコいいねんで。“愛と青春の旅だち”は金曜ロードショーで偶然見たんやけど、ラスト紳士に成長したリチャードが、白い軍服姿で自分の恋人を迎えに行くシーンが最高やねん。私もあんな風に誰かに迎えに来てもらいたいなって思った」

「それにしても、シュミが古いな」

「綸は古い洋楽聞いてたから、分かってくれると思ったのに」

「曲は聞くけどなぁ。私はジャニーズジュニアの高橋直気くんが好きやねんか」

「知らんわ、有名な人なん?」

「ううん、ジュニアやし、まだテレビとかあんま出てへんねんけど、めっちゃかっこいいねん! あとな、京都駅ビルに大きい劇場が出来るねんて! もしかしたら直気くんに会えるかも」

「へえ、楽しみやな。ジャニーズが京都に来るなんて、すごい騒ぎになりそう。そういえばあの練習してたエターナル・フレーム、カラオケで歌えた?」

「それがな、選曲のリストに無かってん。外国の曲はほとんど入ってなかった。めっちゃ残念やったわ、せっかく練習したのに」

 私はスカートのポケットから紙片を取り出して綸に渡した。

「あの歌の歌詞、日本語にしてみた。どういう意味か知りたいって前言ってたやろ」

「ほんまに? ありがとう! 見せて見せて」

 綸の目線が、リングノートの一枚を破って書いた私の和訳の文字を追う。

 Eternal Flame

 Close your eyes, give me your hand, darling
 Do you feel my heart beating?
 Do you understand?
 Do you feel the same?
 Am I only dreaming?
 Is this burning an eternal flame?

 I believe it’s meant to be, darling
 I watch you when you are sleeping
 You belong with me
 Do you feel the same?
 Am I only dreaming?
 Or is this burning an eternal flame?

 Say my name
 Sun shines through the rain
 A whole life so lonely
 And then come and ease the pain
 I don’t wanna lose this feelin’, oh

『永遠の炎』
 目をとじて
 あなたの手をかして、ダーリン
 私がどきどきしてるの、伝わる?
 分かってくれるかな
 あなたも同じに感じてる?
 それとも私が夢みてるだけ?
 永遠の炎が燃えてるって

 きっとそうよ、ダーリン
 寝てるあなたを見る私
 私のとなりがあなたの居場所
 そう思わない?
 それとも私が夢みてるだけ?
 永遠の炎が燃えてるって

 私の名まえを呼んで
 太陽の光が差して
 孤独の雨が遠のくから
 この気持ち 失いたくない

「永遠の炎ってなに?」

 英語のレッスンのとき“eternal flame” の意味をメリッサに聞いたら、永遠の愛と教えてくれ、辞書には“墓地や戦没兵士の記念碑の前で燃やされる炎のこと”と書いてあった。

「これは私の考えやけど、死んだあとも燃えつづける愛っていう意味かな」

 綸は考えたあと呟いた。

「そんなん、ありえんくない? 炎は燃えるもんが無くなったら、いつかは消えるって」

「うん、ありえへん。でも、ありえへんからこそ、祈りがこもってるんやない」

「そうか。久乃って短い歌詞から色んな想像ができるんやな」

「綸、せっかくやし歌ってみてよ」

「えー音楽もなしに? 恥ずいし、ええわ」

「なんで、聞きたい。それにせっかく練習したのに、もったいないやん」

 迷った末に綸は息を吸い込むと、彼女のしゃべり声よりも幼い響きの、澄んだ声で歌い出した。自然に流れる発音は、英語の授業中先生のあとに続いておうむ返しにする発音練習より、よっぽど本物に近い。川の流れる音にかき消されそうになりながらも、ちゃんと耳まで届く高くてきれいな、揺らぐ声。

 こっそりと歌っている彼女の横顔をぬすみ見る。私よりも髪の長い彼女は、先生に束ねなさいと注意されてもへっちゃらで、いつも肩までゆるくウェーブした髪を垂らしている。学校を出たとたん色つきリップをぬったくちびるは、流行りのパール入りのピンクじゃなく、くっきりと赤い。

 まえに偶然下校中の彼女を見かけたときも、この色だった。くちびるが小さめだからか、濃いめにぬっても派手じゃなく、むしろさびしげにとがらせてるように見える。赤は熱い色と思ってたから、濃くなるほど冷たくなる、綸のくちびるの赤は不思議だ。

「どうしたん、私の唇、じっと見て」

 最後まで完ぺきに歌い終わった綸は、拍手する私の手を恥ずかしそうにつかんで止めてから言った。

「あ、気づいてた? リップの色、似合ってるなと思って」

「ありがと! チェリーレッド、お気に入りの色やねん。そうや、今日久乃が買ったリップクリーム、さっそく使お。私がぬったげる」

 綸は私の手からドラッグストアの小袋を取ると、勝手にプラスチックの外装を開けて中から緑色のメンソレータムを取り出した。唇のカサつきを治すことを第一に考えて選んだそれは深緑色で、小さな看護婦さんが描かれている。無色透明のリップクリームを買うなんて、つまらないと綸に言われるかもと思ったけど、綸は「基礎を整えるのは重要や」と、さすがのオシャレ女子の返答をしてきた。綸は慣れた手つきで中の白いスティックをくり出すと、人形に絵付するように丁寧に私の唇にぬり始めた。彼女の手から私の唇が生まれて形作られていくみたい。

 日に焼けた綸の瞳は茶色く透き通り、まんなかの瞳孔はくっきりと黒い。毎日部活でグラウンドに出てる綸ほどではないけど、私も球技大会で半日真夏の太陽の下にいたときに、まぶたを閉じるとひりひりするくらい目玉を日焼けしたから、同じ目の色をしている。頭上を飛ぶバレーボールを追いかけているうちに、太陽ものぞきこんでしまった。

「できた」

 綸が微笑み、私たちは夏の瞳で見つめ合う。薄いクリームの膜を張ったくちびるは、お湯をかけた角砂糖みたいに、表面からじんわり溶けだしそうで、ハッカの効果で少しスースーもする。教室にいるときの私たちは全然似てないのに、こうして川のほとりに二人で立っていると、双子みたいにそっくりに思えてくる。

 暗きょのトンネルに川の水が吸いこまれてゆく音が背後で聞こえる。ふり向くと、いつの間にか、すべての色が混じり合った川は赤茶けた灰色になり、渦を巻きながら流れてゆく。美術の時間が終わったあとの、さんざん筆をつっこんだ後の筆洗のバケツぐらい、にごっている。

(つづく)


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