『天馬、翔ける』で中山義秀文学賞、『等伯』で直木賞を受賞し、名実ともに戦国歴史小説の第一人者である安部龍太郎さん。2023年1月から「北国新聞」「富山新聞」で連載がスタートした『銀嶺のかなた』が第3巻『みやびの楯』編刊行をもってついに完結した。
加賀前田家三代――利家、利長、利常とつながる壮大な物語には、現在放送中の大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも利家が印象的に登場し、東京国立博物館で開催の『百万石!加賀前田家』の来場者が十万人を突破するなど、改めて注目が集まっている。
2024年元日に発生した能登半島大地震で甚大な被害を受けた、地元の人々へのエールがこめられた本作連載の舞台裏から、前田家の知られざる歴史、そして加賀百万石という郷土の誇りについて――著者の安部さんが熱く語った。(全2回の1回目/続きを読む)
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震災1年目の1月1日に、覚悟を決めてスタートした
――加賀前田家三代の決定版ともいえる、『銀嶺のかなた』が遂に3巻目で完結です。執筆にはどのくらいの歳月を費やされたのでしょうか。
安部龍太郎:2023年の1月1日から「北国新聞」「富山新聞」で連載をはじめ、1年半かかって第1巻『利家と利長』編と第2巻『新しい国』編が完成しました。もうしばらく時間を置いてから第3巻『みやびの楯』編に挑戦しようと思ったところ、2024年の1月1日に能登半島大地震が起こったんです。
そこで復興支援といいますか、「地元の人たちを勇気づけてもらいたい」というたっての要望を北国新聞社からいただきました。しかも、震災1年後の1月1日からスタートしてほしいということで、丸1年間、12月31日までの連載となったので、都合2年半ですね。半年間の休止期間があったとはいえ、ようやく完成に漕ぎつけたというところです。
――当初から3部作にするという構想はあったのでしょうか。
安部:最初に第1巻、第2巻を書いたときは、前田利家と利長という親子の物語を書こうと思いました。戦国時代の歴史小説には、親子の問題やその違いをテーマにした作品はあまりないんです。けれど、親と子を描くことで、親が直面した時代状況と、その子どもが直面する状況は大きく変わっていることが浮き彫りになります。
信長が活躍した戦国時代と、秀吉、家康によって国家が統一されていった安定の時代とでは、親子の生き方の違いが生じざるを得ない。特に優秀な子どもであればあるほど、「親父は確かにすごかったけど、今の時代では親父のやり方ではやっていけない」ということが分かって苦労するんですね。
前田家の2代目である利長は、若い頃に織田信長の近習として直接帝王学を学び、しかも、信長が娘の永を嫁がせたほど将来を嘱望されていました。信長が近習にした上で実の娘を嫁がせたのは、ほかには名将として知られる蒲生氏郷しかいません。
――前田利家・利長親子が大きく異なるのは、利家は五大老として最後まで秀吉を支える立場にありましたが、利長は関ケ原の戦いでは家康率いる東軍方に味方したことですね。
安部:利家・利長と同じように、もともと豊臣恩顧の大名でありなら、関ケ原の戦いでは徳川側の東軍に味方した例は、黒田官兵衛と長政(福岡藩初代藩主)、浅野長政と幸長(紀伊和歌山藩初代藩主)親子にも見られます。
ちょうど『銀嶺のかなた』の2巻目は、慶長3年に秀吉が亡くなり、翌年に利家も没するという、関ケ原の戦いの直前で終わりましたが、読者の方からは「なぜここで終わるんだ」という声をいただきましたし、自身でもこれからが面白くなるという感覚もありました。
最初は2巻目でいったん終わるはずでしたし、ほかにも新聞連載を抱えていたので、非常に迷いましたが、読者の方々や新聞社からの熱烈な後押しをいただき、震災にあった方々を励ますためにも、無理を承知で加賀前田家三代に取り組もうと決意しました。
前田家当主は1、3、5代目に脚光……2代目利長の急死の秘密
――3代目の利常は、加賀前田藩15代の中でも特に人気のある当主だそうですね。
安部:実は不思議なぐらい利家、利常、綱紀という1、3、5代当主に脚光が当たっていて、2代の利長と4代の光高が埋没しています。これはなぜだろうと長年の疑問だったんですが、本作で利長は自身で服毒して命を絶ち、前田家を救おうとする道を選んだという説をとりました。
服毒というととんでもないことに思われるかもしれませんが、あの時代、家を存続させるために割腹自殺するようなことは、武家においては多々ありました。「お家のために毒を召された」という記録が残っているくらいですから、状況から見て、まず間違いないだろうと考えています。これが前田家の中では“表に出したくない歴史”になってしまったのかもしれません。
跡を継いだ養子の利常は、自身を犠牲にして前田家を守ろうとした利長を弔うため、瑞龍寺というお寺を建てています。これは現在では国宝になっている立派なお寺です。ご住職が「瑞龍寺にはいくつもの秘密がある」と常々おっしゃっているのですが、本来なら寺の本尊を祀らなければいけない場所に、仏様ではなく利長そのものが祀られているのも、その最期を物語っているのではないでしょうか。
利長については表に出せないような事情があって、実態よりも相当低く評価されているし、4代の光高も宴会中に突然亡くなるという謎の死を遂げていて、なかなか評価の対象にはなりにくい。ただ、加賀藩史料を丁寧に読んでいくと、利長と利常は新しい江戸幕府の体制の中で加賀藩をどう位置づけるかということに非常に苦労していて、初期には120万石あった突出した石高をいかに守り抜くかに生涯力を注いだことは確かです。
「間に合わなかった」関ケ原の戦いで、異例の40万石の加増
――第3巻で描かれる関ケ原の戦いでは、利長が実質的には「間に合わなかった」にもかかわらず、家康から加増を受けてのちの「加賀百万石」の礎ともなりました。
安部:関ケ原の前は80万石で、その後40万石加増されて120万石になるわけだから、「関ケ原には間に合わないのに、石高を1.5倍にしてもらったのは何故だろう?」という話ですよね。ただ、そこには特別な事情があったはずで、家康と利長の非常に大きな信頼関係、あるいは国家経営に対する見方が一致していたことが大きいと思います。
利長がいち早く家康に応じて挙兵して、実際に大聖寺城を攻め落としたのが8月3日のことで、おそらく関ケ原の戦いにおける東軍勝利の例としてはもっとも早い。加賀前田家が動いたおかげで、越前あたりの大名たちが西軍のために有効に動けなかった。もし利長が石田三成の側に付いていたら、おそらく家康は勝てなかっただろうし、全く違う状況になっていたでしょう。
――利長と三成の関係は第2巻のあたりから距離があるような気がしていましたが?
安部:そうですね。関ケ原といえばこれまでは、豊臣政権を奪い取るために家康が仕掛けて、それを防ごうとして三成たちが立ち上がったという評価が一般的だし、今もドラマではそう描かれることが多いのですが、僕はそれを根本的に見直すべきだと思っているんです。
家康が考えていた国家ビジョンと豊臣家の国家ビジョンは全く違う。家康の国家ビジョンは農本主義的・分権主義的で、東国大名たちがそれを支持した。言うなれば鎌倉幕府・室町幕府の守護領国制に近い。ところが信長・秀吉が取ったのは、大名を国司のように使う中央集権化・官僚化の路線。全国で検地や刀狩り政策が行われたことがその最大の特徴です。
三成たちは朝鮮出兵で大きな失敗をしたので、多少の修正はするにしても、基本的には中央集権重商主義でいくという方針だった。一方、家康たちは地方分権、農本主義でいくと――簡単にモデル化すればそういうことで、利長は家康の考え方に共鳴していたからこそ、天下分け目の関ケ原の後で120万石を与えられたのでしょう。(2回目に続く)
安部龍太郎(あべ・りゅうたろう)
1955年福岡県八女市(旧・黒木町)生まれ。久留米工業高等専門学校機械工学科卒。東京都大田区役所に就職、後に図書館司書を務める。その間に数々の新人賞に応募し「師直の恋」で佳作となる。90年『血の日本史』でデビュー。2005年『天馬、翔ける』で中山義秀文学賞を受賞。13年『等伯』で直木賞受賞。作品に『関ヶ原連判状』『信長燃ゆ』『迷宮の月』『ふりさけ見れば』『ふたりの祖国』など多数。













