本の話

読者と作家を結ぶリボンのようなウェブメディア

キーワードで探す 閉じる
天才絵師の生涯を骨太に描き、直木賞を受賞した安部文学の金字塔(前)

天才絵師の生涯を骨太に描き、直木賞を受賞した安部文学の金字塔(前)

文:島内 景二 (国文学者)

『等伯』 (安部龍太郎 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #歴史・時代小説

『等伯 上』 (安部龍太郎 著)

 絵師であるがゆえの「業(ごう)」に突き動かされ、出口のない袋小路へと、長谷川等伯は自らを追い込んだ。彼に対して、最高権力者の豊臣秀吉と、最高文化人である近衛前久が与えた唯一の打開策は、「これまで誰も見たことがない絵を描け」という難題だった。

 これに失敗すれば、等伯の命が奪われる。それだけでなく、恩人である前久の責任までが問われる。この絶体絶命の切所(せっしょ)を、等伯は圧倒的な突破力で駆け抜けた。かくて、日本水墨画史上の傑作として屹立(きつりつ)し、聳立(しょうりつ)する「松林図屏風」が生まれた。

 平安時代の紫式部にも、仕えていた中宮彰子(しょうし)から「誰も読んだことのない、珍しい物語を書くように」という難問を与えられ、物語文学の最高峰『源氏物語』を著したとする伝説がある。その時には、彼女は石山寺の観音の助力で、巨大な壁を突き抜けた。等伯も、自分一人で突き抜けたように見えて、多くの人に背中を押してもらっている。

 突き抜けるためには、その前段階として、壁に跳ね返され、壁の高さと己の弱さを知らねばならない。その苦しみがあって初めて、不可能を可能に変える、芸術家の「ちゃぶ台返し」が爆発する。天才は、九十九%の挫折と、一%の逆転劇から成る。

 ここに、安部龍太郎が文学にかけた初一念があるのではないか。大きく挫折できる能力は、天が安部に与えた偉大なる才能だった。

 私の手元には、一冊の同人誌のコピーがある。久留米工業高等専門学校文芸部が発行した『筑水・十七号』(昭和五十年十二月)である。二十歳の安部良法が、「津軽旅行記」という創作を寄せている。

 竜飛崎(たっぴざき)で太宰治の文学碑の除幕式があった日に、津軽を旅していた青年の彷徨が描かれる。その文学碑には、太宰の『津軽』「外ヶ浜(そとがはま)」の章の一節が填め込まれていた。

《ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌(めいき)せよ。諸君が北に向って歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである》

 文学の魔力に取り憑かれたばかりの青年は、「私は太宰の作品の中でこの『津軽』が一番好きだ」と告白している。これは「仮面の告白」ではなく、安部の真情の吐露だろう。

 太宰治の小説は、津軽という日本文化の「袋小路」を、何としても突き抜けたいともがき苦しんだ苦悩の産物である。太宰ほどの才能を以てしても、この袋小路を突き抜けられたかどうか。太宰も苦しんだ戦後日本の袋小路を、安部良法は二十歳にして、我と我が身に引き受ける決心をした。昂然と胸を張り、袋小路の、路の全く尽きる地点まで、歩いてゆこうと覚悟した。その初一念が、長谷川等伯の愚直なまでに純粋な生き方に投影されている。

 安部良法は安部龍太郎という筆名で、三十三歳の時に文壇デビューを果たした。これは、長谷川信春が等白、さらには等伯へと改名したことと匹敵する変身だった。安部龍太郎が念願の第一短編集『血の日本史』を上梓したのは、奇しくも太宰が『津軽』を書いたのと同じ三十五歳だった。

【次ページ】

文春文庫
等伯 上
安部龍太郎

定価:825円(税込)発売日:2015年09月02日

文春文庫
等伯 下
安部龍太郎

定価:847円(税込)発売日:2015年09月02日

ページの先頭へ戻る