書評

幸せだった「あの家」の思い出

文: 林 大地 (医師)

『思想する住宅』 (林望 著)

 林望家の長男として生を授(さず)かってから三十七年経った。その間、東京都小金井市にある実家で両親と共に暮らしたのはおよそ半分の十九年間ほどである。

 昭和五十二年に私が生まれた家は、最初に父が「思想した住宅」のオリジナルバージョンだった。祖父母の家と自分の家が中二階を通じて橋のように連結していて、その「橋」の上には複雑に入り組んだ書庫のなかの通路と二つの書斎があった。自宅側のドアから中に入ると、父の蔵書が床から天井までぎっしりと、しかし整然と秩序だてて収納されている廊下があった。普段は電気を消してあるため、子供の自分にとっては昼間でも薄気味悪く、お化けでも出てきそうな空間だった。一本目の廊下を南へ向かって進むと、廊下南端の折り返し部分に父の書斎があった。そこには掘りごたつ式に座る場所が掘り下げてあった。父はそこに座布団を敷いて、木製の低い机で勉強・仕事をしていたのだった。

 そこで廊下は北に向かって折り返し、本で埋め尽くされた薄暗い空間をさらに進んで行くと、また一つドアがあった。そのドアを開けた先は、隣の祖父母の家であった。こちらには祖父の蔵書が床から天井まで雑然と積み上げられていた記憶がある。ドアの向こうで廊下は再び南へ向かって折り返し、突き当たった先に、今度は祖父の仕事机と椅子があった。こちらは黒色の立派な「デスク」であり、アームレスト付きの回転するオフィスチェアに祖父は座って仕事をしていた。父と祖父、いずれの書斎の窓からも庭を見下ろすことが出来た。自宅と祖父母の家を行き来するにはこの書斎を通るか、あるいは庭を通るかのどっちかだったが、自分が書斎を歩いて祖父母の家に向かっている時に、偶然にも庭を通って祖母が自宅へ向かうのが見えると、なんだか可笑(おか)しかった。祖父のデスクのある場所で廊下は再び北に向かって折り返し、最後に祖父母の家の中二階、階段の踊り場へとつながるドアがあった。

 林望宅と祖父母宅はデザイン的におおまかに左右対称になっていて、中二階の書斎を挟んだ壁際に一階と二階をつなぐ階段があった。祖父宅の階段下には壁一面に大きなガラス張りの棚が置いてあり、世界各地から祖父が買ってきたお土産(みやげ)の類が所狭しと並べてあって、なんだか東南アジア製とおぼしき木像なんぞがいくつもじろりと睨みを利(き)かせていた。幼少時の自分にとっては、この空間はちょっと怖くていやだった。しかし、この恐ろしい空間を通り抜けないと、優しい祖母の待つ居間へはたどり着けない寸法となっていたため、箱根の関所越えではないけれど、決死の思いでその空間を走り抜けて、蛇腹(じゃばら)の引き戸を開くとパッと視界が明るくなり、祖母が笑顔で迎えてくれたものだった。

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思想する住宅
林望・著

定価:本体630円+税 発売日:2015年02月06日

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