――火坂雅志さんの新刊『常在戦場 家康家臣列伝』はタイトルにあるように、徳川家康の天下取り、そして幕藩体制安定に尽力した異能、異才の家臣たちの連作小説です。
火坂 家康には毀誉褒貶がありますが、ひとりの政治家として、やはり傑出した人物です。その人の周りには様々な人物が集まってきます。彼自身は律義者と言われますが、時に政治家として非情な決断をしなければならない場面が出てきます。そんな家康の周りに集まってきた人物は、もちろん能力があるし、志があったり、野望を抱いていたりします。1度そういう人物たちを書いてみたいと思っていました。これまで私はどちらかというと主役級というよりもマイナーな人物を書いてきました。その方が面白いですからね。この本でも、あまり光を当てられていない人物を多く取り上げようと思いました。家臣列伝ということで、いわゆる武将ばかりを期待されているとちょっと違うかもしれません。
――家康のライバル、豊臣秀吉の家臣に関しては既に『壮心の夢』(文春文庫刊)で書かれていますね。二作を較べると読後感が違います。秀吉の場合は哀愁が漂い、家康の家臣団は強さというのか爽快感のようなものを感じます。
火坂 豊臣家の場合、秀吉が晩年、変わっていってしまい、滅亡するという悲劇がありますからね。家康の方は、天下を取ってから国造り、天下泰平の世を現出するという命題があります。その点で家臣の色合いが違ってくるのかもしれません。特に意識して書いているつもりはなかったのですが、年齢とともに私の見方が変わってきたのかもしれません。
――秀吉にも天下統一のあと国造りに取りかかる時間はあったと思うのですが。
火坂 成功した方法を続けてしまったのですね。内政を重視すべきときに拡大政策を続けて、朝鮮にまで出兵してしまいます。ギアを変えられなかったというのでしょうか。変えなければいけなかったのですが。どう国を治めていくかを考えなかった。家康はそれを見ていたのでしょう。織田信長、豊臣秀吉のように1人のカリスマが君臨しているようでは政権は長続きしないと感じたのだと思います。信長は部下の裏切り、つまり人使いに失敗した。秀吉は自己の拡張主義に固執してしまった。一方、家康の周りには商人では茶屋四郎次郎、角倉了以。林羅山のような儒者。金山銀山の開発を行った大久保長安。三浦按針という外国人までいました。それだけ人使いがうまかったのです。人を生かして法でまとめ、人材が能力を発揮できるような状態が最も安定した政権だと考えたのでしょう。将軍が凡庸でも、下にいる老中たちが国を維持していきます。
――幕府樹立後、秀忠に将軍職を世襲したのも大きいですね。
火坂 引退したとはいえ、大御所政治を始め、実際は自分が牛耳っていきます。そのとき、天下取りのための人材とその後の人材をガラリと変えてしまいます。ここまで変えることはなかなかできることではありません。それまで家康のために尽くしてきた家臣を冷遇するわけですから。例えば「梅、一輪」の章の、草創期の合戦からすべてに参戦している三河譜代大名の代表である大久保忠隣(ただちか)も変化した流れについていけなくなります。武功派だった彼は文治派の本多正純に追い落とされ、更迭されて悲劇的な晩年を迎えます。
家康は信長、秀吉を継承する戦国の英雄なのか
火坂 よく、信長、秀吉、家康を戦国三大英雄といいますが、果たしてその流れは一貫したものだったでしょうか。秀吉にとって信長は主君ですから、その政策を基本的に継承していきます。この2人は同じ政権内で首相が替わったようなものです。家康の場合は新政権を樹立したとみるべきです。関ケ原の合戦に勝つことで政権交代が起きたのです。信長、秀吉はカリスマで必然的に中央集権になっていきます。家康は幕藩体制で、幕府はありますが、地方のことはそれぞれの大名たちに任せます。大名たちも嬉しいですよね。幕府と藩が調和を保ちながら地方分権を作り上げていきます。拡張主義に奔らず、内政の安定に努めるわけです。
――世界史的に見ても17世紀に地方分権制度を確立させたというのは珍しいのではないでしょうか。
火坂 パックス・トクガワーナといわれて、ローマ時代以来の平和国家が生まれたと注目されています。その長い平和の中で江戸文化が発達していきます。そういう時代の基礎を築いたのが徳川家康だったのです。私たちが見て異能、異才の人物を用いたと思いますが、家康の中では必然の人事だったのでしょう。功績からみれば三河武士ばかりが中心になるはずですが、そうはなっていません。三河は西国と東国の中間にあります。家康はずっと領地の西の織田信長の傘下に入って西国武将たちとは戦わず、東の武将たちと戦っていました。最も激しく戦ったのが、武田信玄です。信玄率いる甲州軍団は戦国最強でした。武田に勝つにはどうしたらいいか、武田はどういう戦術で来るかを考え続けて、信玄と戦うことで鍛えられていきました。ですから、三方ケ原の戦いで信玄に惨敗したときには、その屈辱を、失敗を忘れないように、敗戦後の悔しさにまみれた肖像画を描かせています。これでもわかるように家康は、若いころから連戦連勝できているわけではありません。むしろ、よく負けています。領内の三河一向一揆から、本能寺の変後の伊賀越えなど、度重なる苦難を耐え凌ぎながら、力を付けていきました。失敗に学んでいった男です。人使いが上手かったのは自分が苦労人だからですね。
――その武田家に関わる女性を側室に迎えていますね。
火坂 信玄にはコンプレックスを持っていたと思います。家康がいつ側室を迎えたかを調べると面白いことがわかります。若いときにはそんなに側室も子供もいませんでしたが、武田家を滅ぼした時に側室が増えています。武田一門の姫から家臣の娘までを何人も側室に迎えています。武田家が家康にとって如何にプレッシャーだったか。それを倒すことによって解放されて自信をもっていったのです。「馬上の局」の章の、阿茶の局もそのときの側室の1人です。彼女は馬を乗り回して家康とともに戦場に出て、秘書官として活躍しました。側室というより家臣ととらえるべきだと思います。20数年前、京都の寺で阿茶の局の胆力のある「異様」な面構えの肖像画を見て以来温めてきた人物です。長編になるくらいの材料を集めたのですが、それを短編に注ぎ込みました。もうひとつ側室が増えた時期は北条氏を倒して関東入りしたときです。武田から軍略を学び、北条氏からは民政を学んでいます。北条氏は非常に進んだ民政を布いていました。北条氏はその最盛期に秀吉と戦っています。秀吉が攻めてきたときに、なぜ北条氏が刃向かったかというと、それだけの国力と自信があったからなんですね。家康がそのあとに入ると、北条氏のもとで行政に携わった者たちがいて、こんどはそれを取り入れます。後に家康は儒学を重んじるようになりますが、これは上杉家がやっていたことです。上杉謙信の家臣、直江兼続が行っていたことです。東国の三強、武田、北条、上杉からそれぞれ優れているところを自分のものにしているわけです。ですから、先に述べたように信長、秀吉の継承者と考えるよりも、東国武士団の知恵を取り入れて国造りをして、新政権を樹立したと考えるといいと思います。そのために新しい人材が必要になったわけです。だから家臣に異能の人物が出てこざるを得ない。政権を取っても京都でなく江戸に幕府を置きました。それが今の東京につながっているわけです。
短編小説の醍醐味と難しさ
――新刊は『壮心の夢』以来久しぶりの短編集です。
火坂 短編と長編では刀の使い方が違います。初めはどうしても長編の書き方になってしまい苦労しました。短編はうまく進んでいっても結末が凡庸だと台無しになってしまいます。ですから、短編を書いていると1度は熱を出して寝込んでしまいます。私は短編の場合でも、関連する人物の全生涯を把握して書きます。今回も何編かは長編のための準備をしていたものです。長編は太らせ、短編は削いでいく、と言われますが、極度に消耗しますね。そして、この作品集はどうやって最後を締めるべきか、誰で終わらせるか、ずっと悩みました。家康の死にまつわる天海和尚にしようかと思っていました。しかし、長岡市の河井継之助記念館で稲川明雄館長にお会いしたとき、そのヒントを得ました。藩主の牧野家には「常在戦場」という藩是がありました。これは本のタイトルにもし、牧野忠成の章のタイトルにもなっています。稲川館長によれば、その解釈は〈つねに臨戦態勢をとり、いざ戦いとなったら命惜しみをせずに戦えと思われているがそうではない。生きのびよ、負けてもしぶとく生きのびて、合戦以外でも手柄を立てられることはある。すなわち、人生のすべてが戦場だと。継之助が長岡から会津をめざしたのはその表れだ〉と。これは家康の生き様とも通じます。そして、この常在戦場の言葉は、じつは長岡藩成立の秘史とも深く関わっているのです。
――この本では、最近「利は義なり」の言葉で見直されている角倉了以を取り上げています。商人も世間に尽くすことで利を得ることができる、利と義は両立するという信念を持ち、実践した人物です。他に鳥居元忠、石川数正、井伊直虎が並んでいます。
火坂 家臣たちを描いてますが、結局は家康の姿を描くことになっていますね。近々、家康が主人公の歴史小説を新聞連載で始めることになっています。家康という富士山のような存在。駿河から見た富士、甲斐から見た富士、相模から見た富士はそれぞれ違いますが、やはりどこから見ても富士は富士です。現在の日本の土台作りをしたのが家康です。家臣団を通してその大きな存在を読み取っていただければと思います。
常在戦場
発売日:2015年06月05日