書評

「あの世」への旅路

文: 玄侑 宗久 (作家、臨済宗妙心寺派福聚寺住職)

『看取り先生の遺言 2000人以上を看取った、がん専門医の「往生伝」』 (奥野修司 著)

 思えば世界中の宗教が、暗闇としか思えない死後世界へのさまざまなビジョンを創出してきた。それが科学的に正しいかどうかを問い詰めても意味はない。最も科学的な態度は「わからない」に尽きるだろう。その上で、どのような物語に身を委ねるのか、表面的には我々個々人の自由のようにも感じるはずである。

 しかし岡部医師も指摘しているように、我々の潜在意識(あるいはもっと深い集合的無意識)には、すでに信じるとか信じないという以前の深さで、民族あるいは人間としての認識や記憶(「識」)が蓄積されている。あらゆる知覚が外界の事物ではなくこの「識」に左右されるという仏教理論(「唯識無境」)を持ち出すまでもなく、殊に死期の迫った人々の変性意識に現れるリアルは、通常の意識の思い描く世界とは明らかに違う。意識の世界で「譫妄」とみなされることが、変性意識状態ではリアルなのである。

 私は、二〇〇〇年に発表した『水の舳先』(新潮文庫)で、死に行く人々に訪れる一種の恍惚を描いた。キリスト教と仏教との区別を超え、死後世界へのビジョンと「水」への信仰があれば、そこにリアルな恍惚さえ感受できることを示したかったのである。

 続く『中陰の花』(文春文庫)や『アミターバ――無量光明』(新潮文庫)には、いわゆる霊異や「お迎え現象」などがふんだんに出てくる。当時の私は、それを「時間という最大で最後の煩悩から解放された状態」と捉えていたが、「集合的無意識が漏れ出る事態」と言っても同じことである。職業柄、そうした「お迎え」話や霊異譚に触れることは多く、私のなかでもそれは、変性意識下における代表的なリアルだった。

 問題は、「お迎え」を受けてどこへ行くのか、ということだが、「あの世」という言葉の意味深長さには目を瞠る。まずこれは、特定の宗教用語ではない。仏教語と思っている方もおいでかもしれないが、仏教はあくまで浄土である。弥勒や薬師、阿弥陀などと所属はいろいろだが、すべて仏国土か浄土と呼ばれる。

「あの世」が意味するものは、誰も「どの世?」と訊かないところを見ると、よく知っている懐かしい世界で、「あの」で通じる場所なのだ。そうすると、浄土のように「往く」場所ではなく、「帰る」場所ではないだろうか。もっと言えば、人は「そこから来た」元の場所へ、最後に帰ろうと欲しているのではないか。たとえば『竹取物語』のかぐや姫も、自らがやってきた月を死者の世界だと告白し、とうとうそこへ戻っていくのである。日本人の死者がお盆などに戻ってくるのも、浄土というよりこの月のイメージが強い。だからこそお盆は旧暦の満月なのだろう。

 浅学にして、私は「あの世」という言葉の創出者を知らない。いや、誰かそんな人がいたとも、思えないのだ。これはもしや、衆生の欲求がまるで集合的無意識のように、どこからともなく沁みだして出来た言葉ではないだろうか。

 少なくとも日本人は、初めて往く浄土やキリスト教の天国よりも、懐かしい「あの世」に帰りたい。これは仏教徒でもキリスト教徒でも、日本人ならそうなのではないか。そしてもしかすると世界には、そのような考え方の根強い地域がもっともっとあるのではないだろうか。

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看取り先生の遺言
2000人以上を看取った、がん専門医の「往生伝」

奥野修司・著

定価:本体710円+税 発売日:2016年01月04日

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