ロックフェラー大学における私の立場は、ポスドクというものだった。博士研究員のことだが、実態は、非正規・一時雇われの実験労働者。マンハッタンに暮らしているというのに、おしゃれで、スタイリッシュな生活とは全く無縁だった。着の身着のまま、ボロ靴、ボサボサ髪で、ミッドタウンの古ぼけたビル八階の安アパート(ここを三人でシェアしていた)と大学の高層研究棟との間をU字型にただただ行き来する毎日。
ミュージカルにも、コンサートにも、自由の女神にも、エンパイアステートビルにも、ワールドトレードセンターにも(当時はまだマンハッタンのスカイラインの南の端にすっくと二本のモノリスが屹立していた。あれが消失してしまうなんていったい誰が想像できただろう)行ったことがなかった。当時、ポスドクの年収はおよそ二万ドル。マンハッタンで生活するとほとんどが家賃と食費に消えてしまった。
朝から夜遅くまで研究室にこもってボロ雑巾のように働いた。何時間も寝食を忘れて実験に励んだ。私の専門分野は分子生物学というもので、実験動物から臓器をとり、試験管内ですりつぶし、DNAやRNAを抽出し、それを分析するという、こまごま・ちまちましたことの繰り返しだった。
初めての異国生活という緊張、なんとか研究成果を出さねばならないというプレッシャー、研究発表から街場の買い物まで、ありとあらゆることが言葉の壁に阻まれるというストレス、ライバルたちがどんどん先行するという焦燥感、そういったものが一挙に押し寄せてきた激烈な日々だった。とはいえ、このときニューヨークにいたのはわずか一年足らず。研究室のボスが、ボストンのハーバード大学へ異動することになり、私たちポスドクも研究室の備品と一緒に引っ越しとなった。昭和が終わり、平成がはじまるニュースをロックフェラー大学のカフェテリアのテレビで聞いた。
経済的にも、時間的にも、精神的にも全く余裕がないたいへんな時期だった。だが、今にして思えば、それは私にとって二度と取り戻すことのできない人生最良の日々でもあった。一心に研究のことだけを考え、ただただ実験に邁進すればよかった。結果としては大した成果が得られたわけではない。私たちはGP2という名の遺伝子を追いかけていた。ライバル研究チームとほぼ同着でなんとか遺伝暗号を解読した。全ゲノムが完全に解明されてしまった現在、それは膨大なデータベースの一行でしかない。
ニューヨークの観光名所には行ったことのない私にも、街の光と匂いは私の身体のどこかに確実に刻み込まれていた。それは通勤途上に感じた、街路樹のあいだを吹き抜ける夏の風だったかもしれないし、高層ビルのあいだに狭く切り取られた高く澄んだ秋の空だったかもしれない。いずれにしても、時間と場所の記憶は、私に決定的なものを刷り込み、私にとって忘れ得ない出発点となった。
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