ツチヤさんはK子さんのことを、「英国には第五夫人を連れてきた」と(もちろん陰で)吹聴していた。それを漏れ聞いたK子さんは、涼しい顔で「東京には隠し子もいるんじゃないの」とのたもうた。なんという太っ腹か。まさに「賢妻(賢二の妻の短縮形)」の鑑(かがみ)ではないか。ほかにも賢妻ぶりを伝えるエピソードにはことかかない。体に合う市販のジャケットがないため、ツチヤさんの着るものはK子さんの手作りであり、しかもその出来栄えときたら玄人はだしだ。夫がエッセイであれほどコケにしても怒らないし、笑いの材料が提供できるなら喜んでわが身を差し出す。K子さんの前では華岡青洲の妻だってしっぽを巻いて逃げだすだろう(もししっぽがあれば)。そもそも二人のなれ初(そ)めは、若き日のツチヤさんがK子さんに道を尋ねた(ナンパか?)ことだった。あのツチヤさんのひ弱な体のどこにそんな蛮勇が潜んでいたのか、いまもって不思議でならない。このような出会いを世間では「魔がさした」と呼ぶ(すくなくともK子さんにとっては)。
妻泣かせのツチヤさんは、食べ物にこだわる。グルメということではなく、これと決めた料理を何年も食べ続けるという奇癖をもっているのだ。お茶大時代の夕食はきまってニラレバ定食だったと聞く。英国でもこの習慣は変わらなかった。朝はコーヒーとサプリ、昼はハンバーガーとコーラ、そして夫婦そろった夕食はチーズとコーンをトッピングしたピザといった具合だ(わたしもK子さんお手製のピザをごちそうになったが、とてもおいしかった)。ケンブリッジ生活の初めの頃は、ツチヤさんが昼食にバーガーキングで看板商品のワッパーとコーラを頼むと、なぜか紅茶とコーラが出てきた。わたしの推測では、「ワッパー」の「ワ」の発音が弱すぎて「カッパ」(カップ・オブ・ティ、つまり紅茶を一杯)と店員には聞こえたのだろう(ここで「カッパ巻」が出てくればいいのだが、英国ではそうはいかない)。四苦八苦してやっとワッパーを注文できるようになったころ、英国では狂牛病騒動が勃発したから、さあツチヤさんは困った。それ以降、牛肉はいっさい断って、昼食はフィッシュ・アンド・チップスに代わったことはいうまでもない。
フィッシュ・アンド・チップスといえば、ツチヤ夫妻はドーバーへ日帰りバスツアーに出かけたことがあった。道中は不平不満の虫だったツチヤさんも、ドーバーでフィッシュ・アンド・チップスを食べて機嫌が直った。ふつう英国では魚フライにはタラが使われるが、ドーバーでは名産のシタビラメを使い、あっさりとソテーにしたものが美味である。そこで犬と並んで撮ったツチヤさんの写真は、のちにエッセイ集に収められた(文庫版では省略)。写真のキャプションにはご丁寧に「左が筆者」とある。このキャプションはわたしにはありがたかった。それがなければ、どちらが犬でどちらがツチヤさんか見分けがつかなかったからである。これほどまでにツチヤさんは読者への気配りを怠らない人なのだ。
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