ここまで書いて、ふと気づいた。北原さんは、手鏡に変身しただけではない。その手鏡に映る女性の一人として、ご自身を登場させているではないか。
その女性とは、本書の題名にもなっている、「あこがれ」の章に登場する田沼意次の妾、由布である。
時の権力者の愛妾として、豪奢な暮らしをしているにも関わらず、「つまらない」が口癖の娘だ。
エレキテルの火花を見ても、「それだけ? もっと面白いものが見られると思ったのに」と言い放ち、田沼が由布を喜ばせようとして作らせた、ぎやまん造りで金魚が泳ぐ天井にも、すぐに飽きる。田沼に献上された温度計や写真機を見れば同じ物を欲しがり、いつも、『どこか』へ行きたいと思っている。田沼に、ただ飼われているのではなく、対等以上に渡り合う姿は、まさに北原さんを彷彿とさせる。
いつも『どこか』へ行きたがっていた北原さんは、陶芸の会に旅行部を併設した。秋田は角館の武家屋敷、新潟は上杉謙信の春日山城址と酒蔵見学、九州は長崎でチャンポンを食すと原城址で天草四郎の銅像を見上げ、柿右衛門窯を見学した足で唐津城へ回るという大旅行。
唐津での昼食、名物のイカの活け作りに舌鼓を打った時のことだ。食べ終えて談笑していた北原さんが、ふと顔をあげて、誰かを探すように座敷を見回した。ぴんと来た私は、ここが忠義の見せ所と、大声で仲居さんを呼んだ。
「こちらのお嬢さまにお水を。薬を飲むので、氷は入れずに」
深窓の令嬢のごとき澄まし顔を作った北原さんは、「ありがと」と気取った声で、労をねぎらってくれた。
私がおつきあいいただく前から、北原さんは心臓の薬を服用していた。長く歩きそうなので気遣うと、「年寄り扱いしないで」と膨れたし、お酒も、「少しなら、かえっていいのよ」と笑っていた。
その後、北原さんは東京に転居して、念願の『江戸っ子』に復帰した。残念ながら、移り住んだマンションは、ご朱引からは少し外れていたけれど。
転居と共に陶芸の会は間遠になり、やがて途絶した。つまらない、と感じたのだろう、北原さんは、時代小説研究会という新しい集いをはじめた。気鋭の歴史学者や考証の大家、浮世絵の研究者等、江戸の専門家を講師とする勉強会である。作家、装画家、編集者、江戸について学びたい者は誰でも参加できたが、北原さんが来てほしいと望んでいたのは、作家よりも編集者だった。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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