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「戦争の論理」に起因した人間感情の歪みを冷静かつ丹念に描く

「戦争の論理」に起因した人間感情の歪みを冷静かつ丹念に描く

文:保阪 正康 (ノンフィクション作家)

『蚤と爆弾』 (吉村昭 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

 現実の史実では、この関東軍防疫給水部は、七三一部隊という隠語で呼ばれていたわけだが、曾根の哲学や心情はこれまで明らかになっている実在の軍医中将とまったく同じ内容である。小説という形をとっているにせよ、本書は実際にはノンフィクションという意味あいが強い。いや日中戦争の内実を確かめていくと、むしろこれは史実中心のノンフィクションというべきであり、著者があえて小説の形をとっているのは、単に告発や糾弾の書にはしたくない、そのような枠内で考えるよりも曾根に代表される考え方が戦時下ではむしろ国家への忠実な科学者であったと指摘したいためだろう。

 加えて戦争を終えたあとも、アメリカやソ連が曾根の所在を求めて調べ回り、一足先にアメリカ占領軍司令部がその身柄を確保することを本書は記している。そのうえで曾根の残した資料はすべてアメリカ本国へ送られたというのだ。以下著者の筆を借りるならば、

「その内容はアメリカ軍当局を驚嘆させた。汚染された細菌蚤を動く兵器として活用するという曾根の発想は、独得な創意にみちたもので、細菌戦用兵器の難問を一挙に解決するものだった。またそれを基本として作製された陶器製爆弾をはじめとした細菌戦用兵器の発明は、かれらを唖然とさせるのに充分だった」

 とあり、アメリカ側は「細菌学者としての曾根二郎にあらためて大きな敬意をいだいた」というのである。むしろ曾根の考えだした蚤爆弾は、最新兵器としてもっとも有効であるとも、その道の開拓者の位置に立つとも考えられたという。「戦争」という軍事空間の中に持ちこまれた日本の軍医中将の人体実験は、戦争の論理の前にすべてが免罪とされたと、著者はとくに興奮するでもなく書いている。

 いうまでもなく、この筆調こそが本書の持つ怖さを浮かびあがらせる卓抜な手法なのである。

 冒頭に指摘した二つの大きな特徴は、冷静で、事実のみを記していくその筆の運びによって私たち読者に多くの示唆を与えている。この示唆を、私はあえて「問い」を発していると記したのだが、それぞれがその答えを考えていかなければならない。単にヒューマニズムの視点で批判するだけでは包括できえない問題だというべきであろう。

 といって「戦争」の時代だから、曾根のような考え(哲学)や心情は許されるという論を持ちだすのなら、本書は何のために書かれたのかということになる。本書を通じて自らで問いを発し、自らで答えを用意するというのは、本書そのものがある時代の特異な史実を書いたのではなく、「現代」に通じる本質そのものを問うていると考えられるからだ。二〇一五年の現在、人類史は「イスラム国」(イスラミックステート〔IS〕)という自称「国家」が行っている抹殺の論理と向きあっているだけに、なおのことそのような思考回路を持つことが必要になっている。

 本書のこうした歴史的耐用性とはどこから生まれてくるのだろうか。

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蚤と爆弾
吉村昭・著

定価:本体550円+税 発売日:2015年04月10日

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