壁にぶつかると僕達は母に相談する。この書簡に書かれている真理子とのやり取りからも、その片鱗を見る事は出来るが、兄妹それぞれにとって大切な相談相手だった。母はその純粋な感性でイイ、ワルイをはっきり言う厳しい批評家でもあった。そしてそこには何時も言葉では表せられないファンタジーがあるのだ。
難解なバルトークに真理子が悩んでいる時は、その音楽から感じた森の妖精の物語を話し、踊ってみせた。真理子の音楽はみるみる色彩を帯びた。
兄がビルの絵を描いている時は、黒の岩絵の具の中にこっそりと、我が家の庭に落ちた葉っぱを混ぜた。複雑なハーモニーと生命のマチエールが生まれた。
僕は大河ドラマ「風林火山」のテーマ曲を書く時、最初のデモを聴かせた。
「もっともっと、あと一歩が足りない、明はこんなものじゃないでしょ! 武田信玄の騎馬隊の馬が走ってない、馬を走らせて!」
やっぱりそうか、妥協しようとした僕が見事に見破られた。神経を集中させて馬を走らせようと直した。
「よし! 走っている馬どころか、馬の耳の穴まで見えたよ、これは羽根が生えて高く高く飛んで行く馬だよ!」
才能に溢れる母に導かれるように、僕達は次々に扉を開けた。母が本気で何かをやったらすごい事になる、と皆思った。
文筆家になる事が母の夢だった。子育てで時間が取られて自分の夢は犠牲にした、とある日僕達に言った。まだ間に合う、それなら本気でやれ、皆が思った。誰も手を貸さないのが千住家のルール、いわば4番目の兄妹の夢を皆が見守った。なかなか腰を上げないのが母の欠点でもあるのだが、父の介護という壮絶な体験を経て、母の夢を応援する父の遺志を力に、処女作『千住家の教育白書』は世に出た。この『千住家、母娘の往復書簡』へと続くスタイルは、紛れもなく彼女が本気で書いた文章。そして、母は夢を犠牲にしたのではないと僕達は悟った。彼女は子育てを本気でやったのだ。
ガンの告知を受けた時、真理子が書いている様に、皆が途方に暮れた。現代の医学のどんな隙間でも良いから、母を助ける方法を探した。出来れば本人にわからない様に治せる方法はないものか。それぞれが親しい医者に相談し、次々と起こる事態に立ち向かった。岐路の度に選んだ選択はベストだった。
ナイーブな母を騙し騙し説得した記録がこの『千住家、母娘の往復書簡』でも見られる。真理子なりにオブラートに包み叱咤激励する表現に心は痛む。現実の僕達はもっと先を知らされていたからだ。生きる気持ち満々でホスピスとは無縁と、最期までその意思を貫いた母は、最後の最後まで決して諦める事なく、生きる事への情熱で溢れていた。彼女が最期を迎えた病院はガンとは無縁の場所だった。
-
『赤毛のアン論』松本侑子・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/11/20~2024/11/28 賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。