- 2015.10.09
- 書評
フランス・ミステリーひさびさの大鉱脈
文:杉江 松恋 (書評家)
『悲しみのイレーヌ』 (ピエール・ルメートル 著/橘明美 訳)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
このシャポー刑事は身長が百六十四センチしかないことを気に病んでおり、身の丈の足りないところを威厳で埋めようと口髭を生やしたり、部下にはわざと無作法な態度をとったり、と涙ぐましい努力をしている。つまりチャールズ・ブロンソンやクリント・イーストウッドがアメリカ映画の中で演じるようなスーパー刑事になりたいのだ。しかし実のところ彼は美人の妻と娘を愛するマイホーム・パパなのだが、自身を逞(たくま)しく見せるために、そうした優しい内面を押し隠している。ところが彼の不誠実さに呼応するかのように、妻や娘もまたパパには見せない顔を隠し持っているのである。
実は『その女アレックス』と本書を読んだときに、ヴェルーヴェン警部の背後に見えたのはこのシャポー刑事の面影だった。シャポー百六十四センチに対してヴェルーヴェンの身長は百四十五センチとさらに低い。二人の違いは、シャポーが美しい妻ジュリエットを意識するあまり巨大な男根のように振る舞おうとしているのに対し、ヴェルーヴェンが妻イレーヌに母親の面影を見出し(そもそも彼の矮躯はその母親の責任なのだが)、精神的には全面的に依存していることである。キャラクターの資質はこのように違うのだが、ともに妻との関係が担当する事件捜査にも影響を及ぼしていくという点で両作は共通点を持っている。ルメートルはヴォートランからも強い影響を受けているのではないだろうか。
背こそ小さいが中身はぴりりと辛い知性の持ち主、というヴェルーヴェン以外にも、彼の属する犯罪捜査部の刑事たちは個性派揃いである。インテリで左翼の思想家にでもなったほうがお似合いだったルイ、ヴェルーヴェンとは対照的な巨躯の持ち主である上司のル・グエン、汚職警官すれすれなほどの放蕩家マレヴァルと警視庁最悪の守銭奴と呼ばれるアルマン。彼らのキャラクターに極端なデフォルメが施されているのにも、もちろん理由がある。サン・アントニオ・シリーズのように戯画化の意図なのか、それともジャン・ヴォートランのように政治的な背景があるのか、などと思い巡らせながら読んでもらいたい。既訳の『その女アレックス』よりも本書が秀でている点はそこで、彼ら刑事たちのチームプレイが、物語の中でも大きな意味を持っているのだ。もう一つの警察小説王国フランスの真髄を、本書からも味わっていただきたい。
ピエール・ルメートルとデビュー作『悲しみのイレーヌ』について、私の感じた魅力をここまで述べてきた。実はここまで一切出さなかった要素があるのだが、それは読んでのお楽しみである。読み終えた後、もう一度この解説に戻っていただくと、何か発見があるかもしれない。また、時系列が前後してしまっているので『その女アレックス』を既読の人はちょっと頭の中を空にしてから読むことをお勧めする。読了後に同作をもう一度読みたくなるだろうからだ。フランス・ミステリーひさびさの大鉱脈、ぜひ味わい尽くしてください。
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