- 2015.10.09
- 書評
フランス・ミステリーひさびさの大鉱脈
文:杉江 松恋 (書評家)
『悲しみのイレーヌ』 (ピエール・ルメートル 著/橘明美 訳)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
ルメートルの経歴は不明の部分が多く、デビューが五十五歳と比較的遅かったこと、成人向け職業講座の講師や連続テレビドラマの脚本作家などの前歴があること、など断片的なことしかわかっていない(詳しくは『死のドレスを花婿に』の訳者あとがきを参照のこと。ただしこの文章は後半に重要なネタばらしがあるので、注意してもらいたい)。なぜ前歴が気になるのかというと、右に書いたようにルメートルが、豊富なミステリー読書体験を背負って自作執筆に臨んだように思えて仕方ないからである。そうした思いは、既刊の二冊よりもむしろ本書を読んだときのほうが強く感じた。というのは、作中唐突に『夜を深く葬れ』の著者ウィリアム・マッキルヴァニーについての言及が行われたりするからだ。
マッキルヴァニーは長篇邦訳が三冊ある作家だが、今では広く読まれているとはいえない。彼はスコットランドの作家で、もともとは普通小説の書き手だったが一九七七年に発表した『夜を深く葬れ』でミステリー畑への進出を果たした。邦訳があるのは同作に登場するグラスゴー警察の警部ジャック・レイドロウ・シリーズである。レイドロウは同僚からも敬遠されている一匹狼型の刑事で、難事件に遭うと街のどこかに雲隠れし「旅人になる」癖があるという。『夜を深く葬れ』は短い断章を積み重ねたようなやり方で書かれた作品で、レイドロウの存在がそれらを繋ぎ合わせる糸になっている。冒頭に引用したのは彼の台詞だ。『悲しみのイレーヌ』の中でマッキルヴァニーがどういうピースとして準備されているかをここに書くわけにはいかないが、この引用した文章のあたりがルメートルを惹きつけたのではないかと、私は勝手に推測している。こういう風に、ミステリーの先人、過去作への言及が重要な意味を持つ作品なのである。
一匹狼の警官、という話題が出たのでついでに書いておきたいが、フランス・ミステリーは警察小説の優秀な産地でもある。ジョルジュ・シムノン(彼自身はベルギー出身だが)のメグレ警視シリーズという警官を主人公としたミステリーの典型といっていい作品が、まず存在する。それ以降にもクロード・アヴリーヌ(一九四七年。『U路線の定期乗客』他。創元推理文庫)などの優秀な書き手が現われ、堅固な系譜を形作っている。ミステリーの賞の一つにパリ警視庁賞と銘打たれたものがあるのもその証しで、同賞受賞作にはフランシス・ディドロ『月あかりの殺人者』(一九四九年)、イヴ・ジャックマール&ジャン=ミシェル・セネカル『グリュン家の犯罪』(一九七六年。以上、ハヤカワ・ミステリ)などの秀作が並んでいる。受賞作ではないが、映画化されて話題になったジャン=クリストフ・グランジェ『クリムゾン・リバー』(一九九八年。創元推理文庫)も、もちろんフランス警察小説史に残る佳作である。
そうした正統派警察小説の系譜がある反面、そのカウンターとなる諷刺(ふうし)的な作品も数多く存在する。有名なものはフレデリック・ダールがサン・アントニオ名義(作中の主人公もサン・アントニオ警視)で書いたコミカルな連作だ(一九五九年発表のシリーズ第三十三作『フランス式捜査法』のみ邦訳あり。ハヤカワ・ミステリ)。フランスでは一九六〇年代から七〇年代にかけて、ネオ・ポラールと呼ばれる、反権力色の強い犯罪小説が多作されたが、その書き手の一人であり、ジャン・エルマンの本名で映画監督としても実績を残している作家、ジャン・ヴォートランに『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』(一九七四年。草思社)という長篇がある。パリ警視庁のシャポー刑事が、自分が娘にしてやった伽噺(おとぎばなし)の登場人物が現実化したとしか思えない連続殺人鬼ビリー・ズ・キックと闘うことになる、という奇怪な物語だ。
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