- 2015.10.09
- 書評
フランス・ミステリーひさびさの大鉱脈
文:杉江 松恋 (書評家)
『悲しみのイレーヌ』 (ピエール・ルメートル 著/橘明美 訳)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
しかし、その胸ざわ感だけでは割り切れないものがある。それが「脳がざわざわする」感覚で、ルメートル作品を読んでいると、意外なほど脳細胞が働き出すのである。視界を明晰化させてくれる、と言ってもいい。シナプス接合が盛んに行われ、遠い昔に読んだミステリーのプロットや、まったく関係ないはずの小説の一節が不意に思い出されたりする。そのチカチカする感じを味わうため、読書の途中でときどきページを閉じ、本棚に歩いていって思い出した一冊を手にとってみたりした。この、「どこかに果てしなくつながっていく感じ」こそが、ミステリーファンを魅了して已(や)まない魅力の秘密なのではないだろうか。
たとえば私が『その女アレックス』を読んでいる最中に手に取りたくなったのは、しばらく前に読了していたブノワ・デュトゥールトゥル『幼女と煙草』(二〇〇五年。早川書房)という普通小説だった。デュトゥールトゥルはフランス大統領ルネ・コティの曾孫(ひまご)にあたり、かのサミュエル・ベケットに才能を見出されたという才人なのだが、『幼女と煙草』を読む限りでは、すこぶるつきの皮肉屋のような気がする。その小説の黒い笑いに満ちた幕切れの場面が、『その女アレックス』に重なって見えた気がしたのだ。
『死のドレスを花婿に』を読んだときはさらに多くの作品を連想してしまい、しばらくは書棚の間をうろうろと彷徨(さまよ)うことになった。何冊もの本を出したり戻したりしながら気付いたことは、語りの質やプロットの外形はまったく異なるが、この作品は『日曜日は埋葬しない』(一九五八年。ハヤカワ・ミステリ)のフレッド・カサックに代表される、フランス式の心理サスペンスのエッセンスを色濃く受け継いでいるということだった。本棚の間を逍遥(しょうよう)しているうちに、さまざまなタイトルが頭に浮かんでくる。その中で個人的に最も重なる度合いが大きいと思った作品は、ユベール・モンテイエ『殺しは時間をかけて』(一九六九年。ハヤカワ・ミステリ)だった。
やや脱線するが、モンテイエは作中に手記を埋め込み、その書き手を加害者や被害者などさまざまな事件関係者に変化させることで醸成されるサスペンスの多様さを広げていく、という試みをやった人だ。『殺しは時間をかけて』の編集後記では、手記の語り手は「犯罪を膨張させ劇的に見せる操り人形にすぎ」ず「犯罪の醸成されてゆく魅力はエロティスムとペダンティスムを織りこんだ作家自身の悪の美意識に支えられている」と断じている。もちろんこれはモンテイエのことを指した文言なのだが、『その女アレックス』『死のドレスを花婿に』の両作を読んでから見ると、まるでルメートルのことを言っているように聞こえてくるではないか!
そうかそうか。
呟きつつ私は書見机へと戻っていく(どっさりとフランス・ミステリーを腕に抱えながら)。ルメートルが胸にも脳にも迫る作家であるのは誠に道理である。彼の小説ははるか昔、フランス・ミステリーに夢中になっていたころの記憶を思い切り呼び起こしてくるのだ。あの切なくて、甘くて、しかし信じられないほどに酷薄なサスペンスの世界を。極限状態に追い込まれた者が引き起こす、犯罪という極めて人間的な現象を、飛びきりの美しさで描く犯罪小説の世界を。
しかしルメートルは、そんなことに今さら気付いたのかね、と皮肉に笑い飛ばしそうだ。
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