- 2015.10.09
- 書評
フランス・ミステリーひさびさの大鉱脈
文:杉江 松恋 (書評家)
『悲しみのイレーヌ』 (ピエール・ルメートル 著/橘明美 訳)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
さて、そんなわけで『悲しみのイレーヌ』のお話である。
本書の発表年は二〇〇六年、『その女アレックス』で主役を務めるカミーユ・ヴェルーヴェン警部の初登場作にして、ルメートル自身の作家デビュー作でもあった。
ヴェルーヴェンはパリ警視庁犯罪捜査部に属する刑事だ。今回彼は、部下が「こんなのは見たことがありません」と悲鳴を上げるほどの凄惨な殺人現場へと呼び出される。被害者は二人の女性で、そのいずれも甚だしく死体が損傷されていた。使われた凶器は刃物だけではなく、釘で打つ、酸で焼く、火で燃やす、といった徹底ぶりである。しかも壁には《わたしは戻った》という謎の宣言まで書き付けられていた。現場は短期借りされていたロフトで、管理会社はいかがわしい映画でも撮影するのだろうと、借主の素性を深く追及しなかったのだという。ヴェルーヴェンは呟く。
「犯行が計画的なのは明らかだが、特徴はそれを隠そうとしていないところにある。むしろなにもかもが目立つようにしてある。それもやりすぎくらいに」
すべてがやりすぎな、露出狂の如き犯人なのである。異常犯罪に対するためにヴェルーヴェンは過去に似たような事件が起きていなかったかを調べ始めるが、そこで驚くべき事実に行き当たる。
紹介できるのはここまでで、後はぜひご自分の目でご確認願いたい。注意申し上げるが、これまでの邦訳作品に比べると事件数も多いので、登場する死体の数もその分増えている。そして、残虐度も格段に上なのである。ラーメン二郎風に言うと店にも嫌がられる「マシマシ」状態で、冒頭の場面が示すように「全部入り」である。
おそらく気の弱い人はこの時点で読むのを躊躇し始めていると思うが、よかったら少しだけ勇気を出してページを繰ってみていただきたい。ルメートルの長篇には特徴があり、どこにサプライズが仕掛けられているか毎回予測がつかないのである。どんでん返しは終盤に、などと思って読んでいると、曲がり角から飛び出してきた暴走車に撥(は)ね飛ばされるかもしれない。本書にもその展開があり、ヴェルーヴェンに先導される形で(一応)安心して進んでいけた物語が、そこから思いも寄らぬものへと変貌してしまう。そこでヴェルーヴェンの目を通して読者が見るであろう光景は、人倫をことごとく笑いのめすかのような悪夢の道化芝居だ。
本書でルメートルは、コニャック・ミステリー大賞など四つの賞を獲得したが、同時に内容の残酷さを批判されもしたらしい。確かに流される血の量は多い。しかしそれ以上に非情さを感じさせるのは、そういう表面的な描写の性質ではなく、背景に黒い笑いが隠されているからではないだろうか。まるで糸を切られた操り人形のような簡単さで死体が積み重ねられていく。無機質な死が累積されていく状況は、物語全体の図式にも結びついている(ここで私は「犯罪を膨張させ劇的に見せる操り人形にすぎない」というさっきのフレーズをまた思い出すわけです)。
まだ邦訳で三冊を読んだだけで結論を出すのは早計だが、ルメートルのミステリー作家としての特質はこの死を玩弄する遊戯性にあるのかもしれない。ルメートルの作品内で行われるどんでん返しは、単なるサプライズ用ではなく、読者が共有している倫理観を転覆させて動揺を誘うために行われるものだ。犯罪者側が全体の構図の決定権を握っているわけであり、そうした全知の敵を相手取ったゲームという図式は、いわゆる「本格ミステリー」作品に共通する部分が多いように思われる。実はこれは、フランス・ミステリーにときどき現われる、突然変異のような要素なのである。もっとこういうものを、と餓(かつ)えを覚えた読者はアントワーヌ・ベロ『パズル』(一九九八年。早川書房)などを読むといいでしょう。
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