私は小説を書くことには門外漢だが、その書き方には、大きく分けて二つの方法があると想像する。一つは、作家の脳内に忽然と現れた想念を、親鳥が卵を孵すように温めて、単細胞から無数の細胞群からなる雛鳥へ、果ては親鳥へと育てるタイプ。もう一つが、最初から全体の構成や流れについての想定がかっちりとあり、そこに細部をパズルのようにはめ込んでいくタイプ。
後者には、推理小説が多いのではないかと思う。横溝正史の奇想に満ちた『獄門島』にせよ、謎解きの構成こそが小説の本体だから、それに肉付けする過程で個々の登場人物を造形したに違いない。対照的に米山峰夫氏は、典型的な前者であろう。
講道館創生期において古流柔術や空手の猛者と柔道家が闘いを繰り広げる様を描いた大河格闘小説の『東天の獅子』を例にとろう。好奇心旺盛でブラックホールのように見聞きした先達の技を吸収してしまうキャラクターが嘉納治五郎。それに悲しき大男・好地円太郎、豪傑・横山作次郎等のキャラクターが続く。彼らのキャラクターが単純な「想念」とすると、それらは初動を与えられると後は勝手に動き続け、物語はうねるように広がってゆく。
この小説が「構成ありき」でない証拠に、「東天の獅子」の渾名が与えられ主人公になるはずだった前田光世が、ほとんど登場しないままでこの四巻本は終わってしまっている。構成ありきで書き始めたならば、しかるべき量を光世の活躍が占めるように物語は振り向けられただろう。
このように想念が湧き出し、互いに連なり物語となりゆく過程で、米山氏は様々な意匠をそれに加えた。暴力、身体、笑い、エロス、巨大な存在に立ち向かう精神、等々。そして立ち上った物語を調教師よろしく制御する書き手には、「夢枕獏」なるペンネームを与えた。「夢枕獏」は、夢が夢を呼び、壮大な物語として展開される様を、何千枚もの原稿用紙に書き留める戯作者の呼び名である。