しかも作者の文章は、非常に平明だ。歴史・時代小説に慣れていない人でも、するすると読むことができるだろう。もちろんそれには理由がある。もう一度、エッセイ集『水軍の城』に注目したい。これに収録されている「駅前番頭」によると、一所懸命に歴史資料の勉強をしていた若い頃の作者は、県立図書館で開かれていた古文書研究会に通っていた。ある日、図書館に行くべく乗った電車の中で、映画の中吊り広告を見る。タイトルの『駅前番頭』を「駅前ばんがしら」と読み、意味を考え続け、電車を降りたところで「ばんがしら」ではなく「ばんとう」だと気づいたと記し、こう続けている。
「それにしてもだ。映画は時代ものではない。ビラ写真がはっきり現代ものであることを知らせている。現代映画のタイトルを『駅前ばんがしら』としか読めず首をかしげつづけた自分はいったい何者か。いくら時代作家とはいえ私が生きているのは昭和の現代、読者もとうぜん現代に生きる人たちである。どっぷり首まで資料につかり、現代感覚を失っていることにぞっとし、私は図書館へ行くことをやめ家に引き返したのである。偶然であった。だから私は今も古文書は読めないし、読まない」
といっている。こうした作者の現代感覚を忘れないという姿勢が、平明な文章と、登場人物の魅力へと繋がっていく。主人公の笛太郎だけでなく、武者頭の雷三郎や船大工兼鍛冶職人の小矢太など、黄金丸の面々が、現代の人々と通じ合う人間性を持って、物語の中に立ち上がってくる。だからこそ白石作品は読みやすいのだ。
だが、そうやって夢中になってページを捲っていると、あらためて龍神牛之助の存在が気にかかる。なぜ作者は、このキャラクターを新たに創造したのか。たしかにプラヤーと意思疎通するのに、生き物の心が分かる牛之助の能力はうってつけだ。これによりストーリーが、スムーズに回っている面もある。しかし、物語の都合だけではないのだ。彼の存在は、もっと重要な意味がある。それが明らかになるのが、本書のラストだ(以下、ラストの展開を記すので、未読の人はご注意願いたい)。
船戦には勝利したものの、捕虜にした馬格芝に斬りつけられた笛太郎。それをかばって牛之助は殺される。ここで笛太郎は気づく。牛之助のことが好きであり、その理由が彼の優しさにあったことを。なぜなら、黄金丸の船大将として仲間の命を預かる笛太郎にとって、すべての生き物を同等に慈しむような優しさは、無用なものだったからだ。本書で笛太郎が登場したときの様子を見れば分かるように、彼もまた優しさは持っていた。しかし、それは捨てなければならないもの。だから自分の欠けた部分を補うように、牛之助を身近に置いたのである。
でも、牛之助は死んだ。これにより笛太郎の優しさも、真の意味で失われた。かつて笛太郎は宣略将軍の李伏竜に、
「人間の多くは悪事を重ねる宿業を負うておる。そのことに眼をそらすな。なまじ慈悲の心をおこし、小さな知恵に逃れて、天意にそむいてはならん」
といわれた。優しさを失った笛太郎は、ついに李伏竜の言葉を実現できる位置――すなわち王の道を歩み始めることになるのだ。黄金丸の船大将に過ぎない笛太郎の物語が、なぜ『海王伝』なのか。その意味は、ここにある。物語の面白さは当然として、こうしたシンボリズムを読み解くことも、本書の大きな楽しみといえよう。
さて、笛太郎と馬格芝の因縁は決着しないまま、物語は終わる。このラストを見ると、作者はさらに続きを書く意欲があったのではないかと思ってしまう。仮に名付けるとしたら『海神伝』であろうか。勝手に想像するしかない。だが、たしかにその物語は、私たち一人ひとりの胸の中に息づいているのである。
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