本書は、トレヴァー・ノートン著 Smoking Ears and Screaming Teeth(煙を吐く耳、悲鳴を上げる歯)の全訳である。この謎めいたタイトル(耳が煙を吐き、歯が悲鳴を上げるに至ったいきさつは本書第13章に述べられている)には、「自己実験という危険な行為を成し遂げた、偉大なる奇人に捧げるウィットに富んだ賞賛」という、本書の内容を端的に表したサブタイトルが添えられている。そう、本書が取り上げる「人体実験」のほとんどは、研究者が自分の体を使っておこなった「自己実験」であり、登場人物は、まさに「マッド・サイエンティスト」と呼ぶに相応しい奇人変人ぞろいなのである。
自己実験者の多くは、「自説が正しければ、この実験を敢行しても命の危険はないはずだ」と信じて自己実験に踏み切った。しかし、そうは言っても、効果も副作用も未知数のワクチンを自分で自分に接種したり、自ら進んで危険な病原菌や寄生虫に感染したり、安全な投与量の確立していない麻酔薬の効果を自分の体で試したりできるものだろうか。実際、その結果、命を落とした自己実験者も少なくないのである。その勇気には驚嘆するしかない。彼らの勇敢な自己実験は、人類の健康と安全に計り知れないほどの恩恵をもたらした。それなのに、現在、彼らの多くはしかるべき賞賛を受けていない、と著者は言う。
「本書に登場した先駆者のうち、何人が現在一般に知られているだろうか」
「マッド・サイエンティスト」とは文字どおり、「常軌を逸した科学者」のことである。本書の登場人物たちがどれほど常軌を逸しているかは、本書のどこでも適当な箇所を開いて一~二ページ読むだけで納得していただけるはずである。十八世紀イギリスの外科医ジョン・ハンターは、「淋病が進行すると梅毒に移行する」という自説を証明したいと思った。アメリカの医師トーマス・ブリッティンガムは、「白血病が人から人に感染するかどうか」を確かめたいと思った。それで、どうしたか。前者は淋病患者の膿を自分の性器に塗りつけ、後者は白血病患者の血液を自分に注射したというのである。これらなどは、自説が正しければむしろ自分の身が危ない自己実験の例である。常人には考えも付かないし、およそ理解しがたい行動である。
安全性云々の前に、その様子を思い浮かべることさえ生理的にきつい実験例も数々登場するが、中でも圧巻は黄熱病研究のくだりである。感染経路を解明するため、ある研究者は患者の「黒い嘔吐物」をとろ火で煮て自らその蒸気を吸入し、自分の血管に嘔吐物を注射し、患者の血液、汗、尿を自分に塗りつけ、患者の唾液、血液、嘔吐物を飲んだという。
幸いにも黄熱病はそのようなルートで感染する病気ではなかったため、研究者は無事だったのだが、実験した時点では無事だという保証などまったくなかったのである。また、仮に百パーセント安全だと分かっていたとしても、そんなことができる人間がいったいどれだけいるだろうか。
しかし、その崇高な目的にもかかわらず、なぜか彼らからは、悲壮感というよりは何とも言えない「マッド」感が漂ってくる。それは、彼らのおこなった自己実験そのものが常軌を逸しているからだけでなく、彼らを突き動かしていた動機にも原因があるのではないだろうか。その使命感よりもさらに深いところで彼らを自己実験に向かわせたものは、純粋な探求心(好奇心)だったのではないだろうか。本書には科学者だけでなく軍人も登場するが、彼らの行動も軍人としての使命感や勇気だけでは説明しきれないものがある。そこからは、「人体の限界を知りたい」という彼らの強い好奇心が感じられるのである。
つまり、彼らは、自己保存本能よりも知的好奇心が強いという点で常人とは一線を画する、まさに常軌を逸した人々なのである。
目次を見ていただけば一目瞭然だが、本書が取り上げている自己実験の対象は実に多種多様である。さまざまな感染症や寄生虫症、ビタミン欠乏症など医療関係の実験だけでなく、深海や成層圏、超音速への挑戦といった冒険的試みまでが網羅されている。どこから読んでも、読んだそばから人に話して聞かせたくなるような、あっと驚くエピソードと蘊蓄が満載である。そして、どのページにも、いかにもイギリス的なユーモアがそこはかとなく漂っている。
著者トレヴァー・ノートンはイギリス・リヴァプール大学の名誉教授である。専門は海洋生物学。教授職を引退したのち、ノンフィクション及びポピュラーサイエンスの執筆に転じた。現代ダイビングの先駆者たちを描いたStars Beneath the Sea(海底のスターたち)は、『ダイバー列伝――海底の英雄たち』(関口篤訳)として邦訳がある。著者自身、ダイビングの権威でもあり、『ダイバー列伝』によれば、第二次大戦中に連合軍に協力して漂流実験などをおこなった研究者ジャック・キッチング(本書第14章)とはともに潜水した仲だったという。
本書の翻訳を通じて、自分が偉大な先駆者たちの業績をいかに知らなかったかを思い知らされた。自分の無知を恥じるとともに、勇敢な自己実験者たちはもっと世間の賞賛を受けてしかるべきだと思った次第である。願わくは、本書が彼らの業績に再び光を与える一助とならんことを。
二〇一二年五月
(「訳者あとがき」より)
世にも奇妙な人体実験の歴史
発売日:2016年11月18日
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