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これまで、青春小説の二つの要素として、物語の中身から、文四郎とふくの間柄、そして文四郎を中心とする三人の若者の友情を挙げた。この二つの事柄が物語のなかで展開するとき、その語られ方が独自としかいいようがないのである。
文四郎とふくの、はっきりと意識されていない微妙な間柄は、文四郎の日々の生活の表面に現われることがない。それはいつか何らかの形をとるかもしれないけれど、文四郎の心の底のほうに居場所を定めていて、なかなか意識のなかに浮上してこない。だからストーリーの進展にはしばらく関与しない。いっぽう三人の若者の友情物語のほうは、文四郎の激しい剣の修業と共に、文四郎の日々をつくってゆく。この二つの事柄の日なたと陰のありようを、私は絶妙の展開と感じるのである。
そのあたりを、少し具体的に追ってみよう。まず、三人の友情物語のほうから。
文四郎の物語(ストーリー)をみると、十五歳の初夏から話が始まる。秋に与之助が苦心の末に江戸の葛西塾に去る。翌年、十六歳の夏に、父助左衛門が藩への反逆罪に問われて切腹。思いがけなくも生活が暗転し、文四郎は生きがいを見失いそうになる。十七歳の秋、死んだ父の道場仲間だった藤井宗蔵が烏帽子親になって、元服。
この間、文四郎に周囲の空気のようにまつわりついていたのは、ひとにはいえないような「不遇感」だった。文四郎のもつ不遇感は、しだいに奥深い場所に隠されるようになったが、文四郎の青春は自分の裡にあるそれと戦うことであり、その戦いを応援する者として、気のいい小和田逸平がおり、江戸から時折手紙をよこす島崎与之助がいた。
与之助は学問で身を立てようとする、思慮深い若者。いっぽうの逸平は、才器としては平凡だが、気持のまっすぐな、裏表のない、良い男。文四郎の不遇感の受けとめ役としてはさしあたっては逸平が適役で、その向うに真の聞き役としての与之助がいる、という配置がある。
その配置のなかで、不遇感に屈さないために、文四郎はひたすら剣の稽古に励む。それが若い文四郎の歳月であった。そして文四郎十八歳の秋、熊野神社の奉納試合で、ついに興津新之丞を破る。そこから、文四郎の運がわずかに開け、空鈍流の秘剣村雨が伝授される。秘剣を伝えるのは、元家老の有力者、藩主の叔父に当る加治織部正である。
織部正は文四郎の父の切腹事件が何であったのかを明解に説明した上で、秘剣を伝える。そしてここまでくれば、文四郎の不遇感と修業の日々はひとまず終わって、次の何かを待つという流れになる。文四郎の修業の日々は、逸平や与之助と切磋琢磨するとまではいかないとしても、文四郎は気分として友情のなかで育つ。そこに青春小説の面目が現れる。
『蟬しぐれ』は、ここまでで全篇の半分以上が費やされている。小さい山場、中ぐらいの山場はいくつかあるけれど、その山場を結ぶものとして、文四郎の屈託の日々、それに敗けまいとする剣の修業の日々がある。そして、とくに目立つところがない仲間づきあいの場面が、的確有効に働いて中小の山場を結んでいる。私が物語の精密な流れというのは、そういうことすべてを含んでいる。
一例を挙げよう。「梅雨ぐもり」の章で、文四郎は石栗師匠に特別に稽古をつけてもらった後で、秋の奉納試合で、強敵興津にはお前を当てる、といわれる。いわれた後、帰宅して「家の戸をあけると、いきなり小和田逸平の笑い声が耳にとびこんできた」。逸平は、与之助がこの秋、葛西先生のお供をして帰郷するという知らせをもってきたのだ。こんなふうに劇的な要所ではないところに、親友が姿を現わす。文四郎は、折にふれて顔を見せる逸平とそこで交わされる日常の会話にどれほど力づけられていることか。そういうかたちで、文四郎の不遇の思いを秘めた日々が、つなぎ合わされ、文四郎は日常から力をひそかに汲みあげるのだ。
私はこういう場面をじつにみごとな物語(ストーリー)の展開であると感じ、わくわくしながら読んだ。
もう一つ、つけ加えておきたいことがある。藩への謀叛で切腹させられた矢田作之丞の妻、淑江の実弟である布施鶴之助の出現である。姉が野瀬某を家に引きこんでいるとき、剣のできる鶴之助が男をとがめるために姉の家にやってくる。
そのゴタゴタをとめるため、文四郎が出てゆき、鶴之助と知りあう場面。もう一人、剣に生きようとする友人ができて、その友人がのちの事件の処理に活躍することになる。
この場面、淑江が藩上層部によって無意味に身動きできない場所に追いこまれていることを語っていて、それがいっぽうで文四郎と鶴之助のあいだに友情が生れる基になる。まことにみごとという以外にない、奥行のある筋(ストーリー)のつくり方である。
この場面にくらべれば、里村家老の計算高い罠(わな)の仕掛け方など、ほとんど子供じみていて話にならない、といってもよい。しかし子供じみてはいても、それが文四郎やお福さまを窮地に立たせることは確かなのだ。政治上の権力というものは、そういういやらしい姿をもっていて、ゆだんできないのである。
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