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小説のクライマックスになる「事件」は、「罠」「逆転」の二章で述べられている。
文四郎にお福とその赤子を救出させると見せかけて、文四郎ともども全員を暗殺する。卑劣な方法という以外ないが、それ以上に一藩の家老や実力者である元中老の発想としてあまりに子供じみているということは、先にもいった。
しかし、里村家老たちの政治的、暴力的処理がいかに理に合わないものであっても、それはお福親子や文四郎を窮地に追いこむだけの力がある。その力を里村や稲垣は十分に承知していて、承知しているからこそ、このような策謀が頭に浮かぶのだろう。そして、村上某、犬飼某が自分の剣に酔いながら暴力をふるう惨憺たる場面の後に、お福親子を安全な場所に送りとどけるという、ほんとうの緊迫した場面がくる。
夜の五間川を舟で下る。それを発案したのは、父助左衛門の助命嘆願書をまとめた村役人の藤次郎である。この小説のもつ世界の濃さのようなものを感じさせずにはおかない、人と人との結びつきである。里村家老たちに真に対抗するのは、父が残してくれた人と人の結びつきであり、文四郎の剣の力はそれあっての上でようやく発揮されるのだ。藤沢は確かにそのように語っている。
夜の川を下るというのは、逃避行のロマンス性までがどことなくつきまとい、文四郎とお福の青春の姿の一面として情感あふれる場面でもある。
舟から上り、織部正の杉ノ森御殿に向う、二人の短い会話。それ以上に思いのこもったしぐさ。これはじつに短いけれど、一つの道行である。この短い道行のあいだに、あの二人だけが知っている絵のような場面が、あるいはそれらが育てた心のありようが、二人のなかに生きているのを互いに知る。
しかし文四郎は、闇のなかに身をひそめる見届け役を斬らなければならない。斬ってその男の口をふさがなければならない。そして短い道行は終わり、文四郎とお福は織部正の邸の門の内に入る。三つか四つの場面と挿話に、二人が滋養を与えつづけ、それによって二人の青春が切なく一つのイメージになる。その切なさが、この暗夜のあまりに短い道行をつくる。藤沢周平の語り口のすごさを、私たちはまざまざと見るのである。
さて、最後に置かれた「蟬しぐれ」の章を読んでみよう。この章にどんな意味があるのか。
夜の川の逃避行から二十年余を経た、夏の一日。四十を過ぎた牧助左衛門(文四郎)とお福さま(ふく)が人目を避けた海辺の湯宿にいる。
あの事件以来の、短い対面である。そこで二人は、二人のあいだに残っているあの絵のような場面を指折り数えるように回想する。蛇に噛まれた少女の指。夜祭りの見物。そして江戸に行く前の夜、ふくが文四郎の家をたずねて行って、会えなかったこと。
それらの場面が、青春の時間にほとんど会うことができなかったにもかかわらず、二人の心のなかに枯れることなく生きつづけ、意味をもちつづけていることを、二人はそこでもう一度確かめあわずにはいられない。それらの場面に二人の青春がひっそりと息づいている。それを取り囲み、守るように逸平や与之助との仲間づきあいの時間がある。だからお福は二人の友人を覚えていて、その現在を助左衛門に問うのである。
助左衛門とお福さまは、許されたわずかな時間のなかで互いの肌にふれあい、中年を迎えている年齢であっても、青春がなお生きつづけているのを知る。
小説の時間は、私たちが生きている日常の時間とは、似ているかにみえて、まるで違う。それは虚構の物語に固有の時間であり、言葉によってつくり出されたものだ。それが虚構の時間であるからこそ、私たちはそれをもう一つの自分の人生のように味わうことができるのである。
また、そういう虚構の時間のなかで助左衛門とお福さまが、二人の青春の場面を手をたずさえるようにして確かめあうのである。確かめあっても、その後の行き場はない。二人は別れるしかない。そして二人のなかで生きつづけた青春の時間が、宙空に浮かぶように残る。
完璧な青春小説がそのようにして残る。
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