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もう一つの自分の人生のように味わう稀に見る完璧な“青春小説”

もう一つの自分の人生のように味わう稀に見る完璧な“青春小説”

文:湯川 豊 (文芸評論家)

『蟬しぐれ』 (藤沢周平 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #歴史・時代小説

 次に、文四郎とふくの関係を追ってみよう。関係といっても、文四郎十五歳、ふく十二歳のときから始まる話である。隣同士の少年少女の小さなエピソードが一つの場面として語られ、その場面はとりわけ文四郎の心のなかに一枚の絵のように残る。

 朝、庭を流れる小さな川のほとりで、ふくが蛇に噛まれ、文四郎がその中指の傷口を強く吸ってやる。口の中にかすかに血の匂いがひろがる。

 この一枚の絵のような場面は、少年から青年になってゆく文四郎の裡に何度も思いだされ、場面が一つの意味をもってしまうかのように、強く心を領する。

 もう一つは、文四郎がふくを熊野神社の夜祭りに連れてゆく場面。与之助が対立する子供たちに殴られるのを、文四郎と逸平は助けにゆく。ふくはその間、いわれた場所にじっと待っている。文四郎が買ってやった水飴はもうとうになめてしまったらしい。

 この小さなエピソードも、一枚の絵となって文四郎の記憶のなかに長く生きつづけるのである。

 ここで少し駄弁を弄する。海坂藩の熊野神社の、鉾山車(ほこだし)がぶつかりあって、曳き子同士の喧嘩になるという荒っぽい祭りについてである。架空の海坂藩のモデルになったとされる庄内藩には、鉾山車がぶつかりあうようなはげしい夜祭りはなかった。私はそれを鶴岡在住の友人の歴史家堀司朗さんに教えられた。庄内藩にはなかったけれど、隣藩である戸沢氏新庄藩には、ほぼここに描かれたような祭りがあったとのこと。

 文四郎の忘れがたい夜祭りの場面をつくるために、作家はこれを隣藩から移してきたのである。私はその周到な用意に改めて感服した。

 もう一つ、父親の遺体をのせた重い荷車を杉内道蔵と共にあえぎながら運んだとき、組屋敷からふくが駆け出してきて、文四郎によりそって車の梶棒をつかんだ。これも忘れがたい場面である。

 さらには、ふくと文四郎が会うことができなかったエピソードがある。葺屋町のおんぼろ長屋に文四郎と母は移されているが、そこに江戸へ発つ前のふくがたずねてくる。文四郎は石栗道場に稽古に行っていて、わずかの差で会えない。このときふくは十三歳。ふくは文四郎の母登世にいいたいことがあったけれど、それを口にすることはできなかった。そしてふくの挨拶を受けられなかった文四郎には、いつまでも後悔が残った。

 これは場面ではなく一つの挿話だが、この挿話もまた、文四郎の思いを育てあげてゆき、文四郎の生長のなかで意味をもってゆく。こうした場面とか挿話が心のなかで育ち、強い意味をもってくるという書き方は、ほんとうにすばらしい。ふくについての場面や挿話は、小説全体で三つか四つしかない。そして文章として長くはない場面や挿話が、物語を展開させる要素として強く働くというわけではない。ただ文四郎の側に立っていえば、それは時の流れと共に大きく育っていって、恋に似たような強い思いに変わってゆく。そしてふくの場合は、五間川を下って文四郎と共に脱出するあの場面で、その心のありようが遠慮がちに語られる。

 いうまでもなく、読者もまた文四郎の身によりそって、一枚の絵のような場面を目に焼きつけ、それが心のなかで強い意味をもつまでに育ってくることに気づいている。

 こうした方法は、男女七歳にして同席しないという、江戸時代の武家社会にあった一種の制度あるいは風俗を、逆用して文学の表現にしている、と考えられる。「同席できない」男女のなかに、一つの場面、一つの挿話が記憶として根を下ろし、育ってゆく。思いもよらないような斬新な小説作法である。藤沢周平は小説の表面にはそんな気配をまったく見せないまま、誰もが試みなかったような方法で、文四郎とふくの思いをあざやかに描いた。これは場面を目に焼きつけるように描くことができる、藤沢の稀有な文体の力あってはじめて可能なことである。それなくしては、意図はあっても空まわりになるおそれが大きいはずである。

 思いが育っている。だからこそ、小説のクライマックスになる白刃がきらめく事件のなかで、文四郎とお福さまの心がなんとか通いあい、危機が逆転するのである。

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