大村 私はその時、新潮社っていうのは凄い会社だな、と思った。直木賞をとって何年も経った作家の週刊誌連載を、十数回で切る。他社は、ひたすらおもねって、「ありがとうございました」って、作家から原稿もらうだけでしょ。
川野 斎藤さんは情実ではなく、作品そのもので判断する人でしたから。
大村 いや、これはその時の編集長の毀誉褒貶(きよほうへん)を問うているのではなくて、池波さんは当時は、その斎藤さんの眼鏡にかなわなかったが、「鬼平」が始まってからは、もうそういうことはなくなったのではないか、ということを言いたいわけです。仮定の話ですが、「鬼平」の後だったら、少しくらい出来が悪い作品でも、切られるということはなかったのではないか。やはり「鬼平」以前、「鬼平」以後というラインは、世間からの見方、文壇での地位という意味でも、池波さんを取り巻く状況を変えたと思います。
――今回の日記の九月三日のところに「新潮・斉藤来。はじめての会見なり」とあります。池波先生から聞いた話では、斎藤編集長が荏原(えばら)の家に「週刊新潮」の連載を頼みに来た。前回のことがあるんで冗談じゃない、と思っていたら、絶対に以前のような失礼はしません、と言われて、しかも真夏に汗をふきふき一人で乗りこまれてはなあ、とおっしゃってました。
川野 その時に引き受けていただいたのが『編笠十兵衛』です。
「花ぶさ」のカウンターで池波さんを口説いた
大村 『青春忘れもの』も四十三年の「小説新潮」一月号から始まっていますね。
川野 ここ「花ぶさ」の下のカウンターで口説いたんですよ。株屋の腕白小僧時代の話なんかを、よくお酒を飲みながらうかがっていたんですよ。私は、それは絶対面白いからぜひ書いてください、と。ただ当時、青春回顧ものって、ほんとうの大家しか手をつけなかった。四十代では普通は書かない。五十代とか六十代の大家ばかりが書いていたから、最初は、俺の書いたものなんか誰も読まないよ、と断られた。いえ、そんなことはありません、絶対に読まれますって、私が勝手に太鼓判を押して(笑)。
大村 このエッセイ集は、昭和史の風俗面、生活面のディテールを書き残してくれた、という意味でも価値のあるものだし、池波さんという作家の人となり、生まれてくる過程がよくわかる。小学校しか出なかったというのはむしろあの人の特権のようなものでしたね。まだ戦争が始まる前で、勤めたところが株屋という、資本主義、享楽主義の真ん中じゃないですか。十代の敏感なときでしょう。芝居や映画を観て、ジャズを聴いてという文化的摂取をする時間を同年代の連中よりも早めに与えられた。
川野 けっこうな子供時代ですよねえ。
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