ぼくがある週刊誌に、本書のような二ページの連載エッセイを書くことになったとき、面白く書くコツのようなものを聞いたことがあった。
「そういうことを意識しては書けないかもしれませんよ」と、東海林さんは言った。
「とにかくそのとき気になっているコト、つよく思っているコトを書いていくしかないわけですよ。毎週ですからね」
「ただ、その週によって急にスバラシイ思いつきがうまれたり、体調がやけによかったりして自分でも気がつかないくらい面白いのが書けたりする。またその逆もある。野球でも三振したりホームラン打ったりするでしょう。それらを平均して打率が三割程度いっていればいいんです」
尊い教えをうけたような気がした。
その当時ぼくは二誌の週刊誌に二ページエッセイを書いていたから「今月八本書いたけれど打率は何割ぐらいだったかなあ」とときおり考えていた。
「改行を多くしたほうが読みやすいからいいみたいですよ」
とも言われた。
いい先生だった。
その教えを守ってきた。
でもどうしても及ばないのはとんでもない「発想」の源泉だった。
この「丸かじり」シリーズは今回で三十六弾となっているが、ずいぶんいろんなものをかじってきたものである。
ずっと愛読しているが、このシリーズは食のエッセイのように見せているが、そのわりにはかじってるものが「うまい」とか「おいしい」といった、食のエッセイではまずはともかくの「入り口」というか「基本」の部分に殆ど触れていないのに読者はお気づきだろうか。
東海林さんの好奇心と深い思考には「うまい」とか「おいしい」などというものをはるかに超越したものが核になっている。
極端に言ってしまえば、そいつがうまくてもまずくてもどうでもいい、という別の「基本理念」があって、それはしばしば哲学の範疇であったりする。さらに「自然科学」というジャンルにもかかわってくる。しばしば「動物行動学」が根底に横たわっている場合もある。
本書でいえば「コンニャクと日本人」の項である。
東海林さんはコンニャクが存在している意味とコンニャクと人間がどう関係していけばいいか深く考えている。
「ポテサラと親父」との一筋縄ではいかない関係にもひそかに憂えている。そういうことを一人でじっと深く考えたり憂えているひとは世の中にあまりいないだろう。
東海林さんの考えている「食」は本当は「学問」なのである。つきつめていけば民俗学の課題になっていくこともしばしばある。
そしてまたその世代の世相に敏感に対応しているから、この「丸かじり」シリーズを全巻読めばどんな世相史よりも生き生きした戦後日本の最近三十年間ぐらいの「日本」があざやかに浮かびあがってくる筈である。
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