賤業である鏡磨ぎなのに、あまりに教養深いため、梟助じいさんを訝しむ人も出てくるほどだが(なんと身内まで!)、『庭蟹は、ちと』ではご隠居さんの正体が明かされる。
数奇な人生の果て、梟助は鏡磨ぎとなったのであり、その人生において「寄席」が大きな意味を持っていた――。
『庭蟹は、ちと』は夫婦の愛情をめぐる物語でもあり、一冊を読み終えたあとに深い、深い感動があった(立川志の輔の『中村仲蔵』を聴いたときのように、感情が深いところでゆさぶられる)。
『ご隠居さん』を読んだときの驚きは、「時間でもつぶしていくか」と気軽に寄席に入ったら、泣きながら寄席を後にした――そんな体験と似ている。
そして今回の『心の鏡』は、寄席の色合いが濃くなっている。桟敷に腰を下ろし、のんびりと五つの噺を読む。『松山鏡』では、まさに鏡の不思議を。
『祭囃子が流れて』は、真面目な菓子職人の意外な過去。『婦唱夫随』では、「梟助さん。犬や猫には、人の言葉がわかるのでしょうか」という夫婦の疑問から話が展開し、『夏の讃歌』では踊りが重要なモチーフとなって、『軍鶏侍』の傑作スピンオフ、『遊び奉行』を連想させる。
そして表題作である『心の鏡』では、梟助の仕事に対する真摯な姿勢が書かれる。汚れた古鏡の磨ぎを依頼され、ただならぬものを感じ取った梟助は精進潔斎して仕事に挑む。
私は精魂込めて鏡を磨ぐ梟助の姿が、野口さんの姿に重なってしまった。
難物に挑んだ梟助は、一日の仕事を終えると食事さえ喉を通らなくなる。ひょっとしたら、野口さんも数十枚の原稿を書いて、そのまま疲労困憊して眠り込んでしまっているのでは……。そんな心配までしてしまった。
第一作に続き、『心の鏡』にもどこか凜としたものが漂い、それはきっと、野口さんの仕事に対する謙虚な姿勢が表れているからだろうと思う。
それにしても、時代物、実録物、そして世話物と、ひとりの作家がこれだけの「演し物」を次々と発表してくるのは驚異的といわざるを得ない。
まるで歌舞伎の狂言立てのようでもあり(時代物、踊り、世話物と並ぶのが定石)、いろんな噺家が出入りする寄席のようでもある。
野口さんはひとりで「野口座」という寄席を開き、その高座ではまったく毛色の違った演し物を自由自在に演じ分けることができる――。そんな野口座の寄席を私は楽しみにしている。
さあて、出囃子が鳴ります、鳴ります。ゆっくりと、野口さんが高座に上がります。
今日は、どんな噺が読めるかな――。
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