- 2008.08.20
- 書評
ブーム。そしてブール。
文:古屋 美登里 (英米文学翻訳家)
『リーシーの物語』 (スティーヴン・キング 著/白石朗 訳)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
スティーヴン・キングはこれまでに、用意周到に伏線を張り巡らし、読者をきりきり舞いさせ、興奮させる小説をたくさん書いてきた。したがってキングの読者はちっとやそっとのことでは驚かないし動じない。しかし本書は「想像を絶する想像力」という矛盾した表現を使うしかないほど豊饒な想像力で描かれた物語である。
全米図書賞とピューリッツァ賞を受賞した超大物作家スコット・ランドンは、二年前にこの世を去った。悲嘆に暮れていた妻のリーシーはようやく夫の遺品の整理をする気持ちになり、仕事部屋に足を踏み入れる。ふと目にした新聞の切り抜きから、鍵をしっかりかけて閉じこめておいた記憶の扉がぱちんと開き、夫が死にかけた十八年前の猛暑の日に一挙に連れ戻される。その日の出来事と、そこで出合った言葉を思い出したことをきっかけに、奥にしまっておいた別の記憶が押し寄せてくる。
そして彼女は、仕事部屋に積み上げられた段ボール箱の中の紙束の一番上に「アイク、家に帰る スコット・ランドン作」というタイトルを見る。二枚目には、
「アイクはブームして家に帰った。世はなべてこともなし。ブール!おしまい!」
という文字のみ。冗談好きの夫のやりそうなこと、と愉快に思ったリーシーだが、ふたつの言葉にひっかかる。
ブーム。そしてブール。
そこから先はもう、読み手は言葉の大海原で翻弄される小さな葦(あし)の舟のごときものである。
さまざまな言葉を、匂いを、味を、感触を、音楽を足がかりにして、物語は過去へ、過去からさらなる過去へ、過去から未来へ、記憶から現実へ、現実からまったく別な空間へ、と時空を自在に飛翔しながら進んでいく。そしてスコットの残した「ブールの道行きの留(りゅう)」をたどり、すべての謎が解明できる場所へと導かれていくのだが、そこは虚無とも、絶望とも、希望とも、慰安とも名づけられる静かな場所だった。
それと並行して、小さな葦の舟はちりばめられた言葉に刺激されて自分だけの記憶の世界へ飛びこんだりする。「悪のぬるぬる」という言葉を見た瞬間、わたしはジャンプしてマイケル・ギルモアの『心臓を貫かれて』(村上春樹訳 文春文庫)を読んだ記憶にたどりつく。殺人者ゲイリー・ギルモアの兄弟たちが償わなければならなかった血の呪い、人の運命を変えていく幽霊たち、生きることの過酷さ、非情さ、悲しさにどっぷりと浸かってわたしの背筋はぞわぞわとするが、その間もリーシーの物語はおかまいなしに続いていく。
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